水子


 外はすっかり暗くなっていた。

 ひずみさんと並んで歩きながら、身体に染みる冷たい風にわずかに体を震わせた。ひずみさんも寒いようで、コートのポケットに手を突っ込んで歩いている。


「どうですか…?何かわかりました?」

 恐る恐る尋ねてみた。

 彼女は先刻からずっと黙り込んでいる。


「そう、ですね。」

 数秒の沈黙の後、ようやく彼女が口を開いた。

「たしかに、視えました。」

 みえた、というのは、幽霊のことだろう。

 やはり、彼には何かが取り憑いていたのか。


「失礼ですが…」

 ひずみさんがなぜか苦しげに切り出した。

 


「菜月さん。過去に、彼との間に子どもができたことはありますか?」


 思いも寄らない質問に、思わずへ…?と声が漏れるのと同時に、突然がフラッシュバックした。



「ごめん。堕ろしてきて。」


 そう言った彼氏の声が鮮明に蘇った。

 申し訳無さそうで、でもどこか軽い、あの時の声。


 今の彼氏と付き合い始めて半年くらい経った頃、子どもができてしまった。


 あのときの私たちは馬鹿で、一回くらい大丈夫、と思って避妊をしなかった。

 そしたら、案の定。

 一回でもできてしまうことは知識としてはあった。でも、まさか本当に、こんな簡単にできてしまうとは。

 望んだ妊娠でもなければ育てられるような状況でもない。

 だから、もちろん私も初めから堕ろすつもりだった。


 でも、いざ彼氏に「堕ろしてきて」と言われると、なんだか一気に体が冷えていくような感覚になって、胸がチクリと痛んだ。

 もしかしたら、本当は心のどこかでは「一緒に育てよう」という言葉を待っていたのかもしれない。

 期待していなかったはずなのに。


 堕ろしてからは、できるだけ自分が胎児を死なせてしまったという事実を忘れようとした。

 あれから一度も避妊を怠ったことはない。


 良いのか悪いのかはわからないが、いつの間にか本当に忘れてしまっていた。恐ろしいと思った。

 勝手に子どもを作って勝手に殺した。そのことを記憶から消してしまっていたのだ。


「堕ろし、ました。半年前。」

 私は消え入りそうな声で言った。

 ひずみさんは先程まで全くと言っていいほど私と目を合わせようとしなかったのに、今は私の目をじっと見つめている。


「彼には亡くなった子どもの霊が憑いていました。いわゆる水子ですね。ですが…。」


 ですが…?なんだろう。

 ひずみさんがわずかに顔をしかめて言った。


「普通、水子に祟られるということはないんですよ。それに…」


「中絶をしたのは、一度だけですよね。」


 彼女の質問の意図はわからなかったが「はい」と答えると、彼女はまた私から目を逸らしてふー、と溜め息をついた。


「菜月さん。貴女に不快な思いをさせてしまうかもしれませんが、どうかお許しください。」


 ひずみさんはなぜか深刻そうな顔をしている。

 私はそんな彼女の様子が怖くて、口を開くことができなかった。


「彼に憑いていたのは、一人だけではありません。私が視えただけでも四人の水子の霊が憑いていました。」


 へ?と間抜けな声が漏れた。

 四人の水子?それって、つまり―――


「ここまで言えば貴女もわかると思います。彼はきっと、過去にもお付き合いしていた女性を妊娠させてしまって、堕ろさせたことが何回かあったのでしょう。」


 鈍器で頭を殴られたような衝撃が私を襲った。

 真っ先に、嘘だと思った。いや、嘘だと信じたかった。あの彼氏が、そんな人だとは思いたくなかった。もちろん私は詳しい事情はわからないけれど、普通は一度してしまったら次からは気をつけよう、となるものではないのか。

 嘘でしょ、そんな人だったの―――


 今のようにおかしくなる前は、心配になるほど優しい人で、大らかで、気が利いて、かっこよくて…。


 大好きな大好きな、自慢の彼氏だったのに。


 私が妊娠してしまった時も予想より動揺していなかったのは、に慣れていたからなのか。



「菜月さん。落ち着いて。」

 ひずみさんの相変わらず感情が読めない声で我に返った。どうやら私は傍目にもわかるくらい動揺していたらしい。


「申し訳ありません。先程私が言ったことはあくまで憶測に過ぎません。一人の水子の霊に引き寄せられて、お二人とは何の関係もない水子の霊たちが憑いてしまった、という可能性も十分にあります。誤解を招く言い回しでした。すみません。」


 そう言って、ひずみさんが深々と頭を下げた。


「わ、私こそごめんなさい!独り合点してしまって。」


 たしかに、あの彼氏が何回も相手に中絶をさせてきた人だとは思えない。

 だが、ひずみさんの言った「一人の水子の霊に引き寄せられて複数憑いてしまった」という話を、きっとそうだよねと信じつつも、一度心に生まれてしまった一抹の不安は消えなかった。

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