00:20 過去を詮索される

 亜坂は気を遣うように、声の調子をわずかに落としてたずねる。

「もしかして、芸能界をやめちゃったことと関係あるんですか?」

 誰もが千晴にそのことを聞きたがる。どうしてやめたのか、いったい何があったのかと。

 千晴は答える代わりにクッキーをもう一枚取って口へ運んだ。

 亜坂は黙っていた。詮索しないでいてくれるのは助かるが、何かしら言わなければならない。

 考えた末に千晴は言葉を繰り返すしかなかった。

「僕はただ、本来の自分に戻っただけなんです。束の間の夢だったんですよ」

 亜坂はクッキーをかじって、咀嚼そしゃくし飲みこんだ。悲しみをこらえるような静かな口調で返す。

「そうですか。じゃあ、もう舞台に立つことはないんですね」

「ええ」

「あきらめちゃったんですね」

「……ええ、そうですね」

 千晴は夢の半ばで挫折した。第三者から事実を突きつけられると、ひどく苦い気持ちになる。捨てたはずの後悔がむくりと起き上がり、嫌な思い出をつついてくる。

 深く息を吸ってから亜坂はまっすぐに前を見つめた。

「わたしはファンですが、同じ俳優としても千晴さんは憧れでした。舞台に立った瞬間に空気が変わるような、とてもまぶしい存在でした」

 千晴は黙ったままグラスに残ったジュースを見下ろした。過去形で話をされるのはとても辛い。月光を反射するオレンジの水面に、かつての泥臭くも輝かしい俳優人生が思い起こされ、同時にその日々を失ったことを実感させられる。

「といっても、千晴さんを知ったのはテレビドラマだったんですけどね。すごく雰囲気のいい人だなって思って、気になって……それで、昔の舞台も見られるものは全部見ました。まさかこんな風に会って話ができるだなんて、本当に夢みたいなんです」

 往々にしてそんなものだ。推しと知り合いになれたら、誰だって夢のようだと思うだろう。

「千晴さんが芸能界をやめちゃったのは残念ですが……」

 少し寂しそうな表情を見せた亜坂だが、次の瞬間には瞳に強い輝きを灯していた。

「でも、だからわたし、思いました」

 亜坂が決意したかのように深呼吸をする。先ほどまでと違い、力強く宣言した。

「わたしはあきらめません。千晴さんのような存在感のある俳優になりたいから、必ずアイドル活動と両立してみせます」

「え、アイドル?」

 思わずきょとんとしてしまった千晴へ、慌てたように亜坂が説明する。

「あっ、まだ言ってませんでしたっけ。実はわたし、ジンテーゼっていうグループ名で地下アイドルやってるんです」

 道理で可愛いわけだと合点がいく。だが、現役アイドルを劇団のオーディションに合格させたとは思いもよらなかった。経営を持ち直すために話題性を選択した結果だろうか。よほど劇団は追いつめられていたようだ。

 気分が重くなる千晴だが、彼女によけいなことを考えさせまいとして平静を保つ。

「えっと……スマホがあれば写真とか動画とか、見せられたんですけど」

 恥ずかしそうにする亜坂から視線を外して、千晴は半ば独り言のように返す。

「いや、すごいな。アイドルもやってるのに俳優もなんて……」

 夢も目標も失ってしまった千晴からすれば、彼女の姿はまぶしくてたまらない。下心とは別の憧れが小さく顔を出し、純粋に心から応援したいと思った。

「本当にすごいです。見守ることしかできないけど、僕も応援します」

「えっ、あ、ありがとうございます!」

 どぎまぎと礼を言う彼女を、千晴はやはり可愛いなと思ってしまう。恥じらう姿に胸がときめき、今すぐにでも抱きしめたくなる。

 このまま何時間でもしゃべっていたい。そしてもっと彼女のことを知りたい。

 しかしクッキーはもう残り一枚になっていた。

 気を遣って手を伸ばさずにいると、亜坂も気づいて袋を手に取った。

「あ、最後の一枚ですね。千晴さん、もらってください」

「いいんですか?」

「はい。お話に付き合ってもらったので」

 差し出されたそれを受け取り、千晴は「ありがとうございます」と少しだけ微笑んだ。彼女のかざらない優しさが嬉しかった。

 亜坂は安堵したように口角を上げ、残りのジュースを一気に飲み干した。

 穏やかな夜の中、亜坂は照れを隠すようにして遠くの光を見つめる。

「さっきまでは気が張りつめてて、眠れる気がしなかったんです。でも、千晴さんと話してたら落ち着いたみたいで、ちょっと眠くなってきました」

 くすりと笑う彼女につられて千晴も口角を上げた。

「それはよかったです。僕も亜坂さんと話せて、ちょっと気持ちが軽くなりました」

 恐怖や不安は消えていないが、和らいだのは本当だった。口にはしないが、彼女が犯人ではないだろうとも思う。

「そうですか。ありがとうございます、千晴さん」

「僕の方こそ」

 軽く視線を合わせて互いに少しだけ笑う。照れくさくて相手の顔をちゃんと見ることはできなかったが、胸はほんのりと温まった。

「あっ、もしかしてあれって天の川ですか?」

 ふと空を見た亜坂が言い、千晴もそちらを見上げる。いつの間にか晴れて無数の星々が二人を見守っていた。

「ああ、そうですね。山の中だからはっきり見えますね」

「初めて見ました、天の川。すごく綺麗だけど、何だか、悲しくもなりますね……」

 亜坂ははしゃぐこともなく、ただ切ない顔で夜空を見つめる。きっと宇原のことを考えているに違いなかった。

 気の利いた言葉をかけられず、千晴は言った。

「そろそろ部屋に戻りましょうか」


 部屋の前まで亜坂を送り、千晴は静かに階段を下りた。

 アイドルをやっていたことには驚いたが、彼女は可愛いだけじゃない。思慮深くて優しい心の持ち主だった。ロマンティックなはずの天の川を見て、悲しいと口に出せる聡明な人だった。

 千晴には手が届かない相手のような気がした。いくらあちらが自分のファンでも、それ以上の関係になるのは難しいのではないだろうか。彼女の中にある憧れのフィルターを破れたとも思えない。不純な気持ちを抱いているのが自分だけかと思うと、情けなくてため息が出る。

 自分の部屋へ入って扉を閉めてから、千晴はテーブルにクッキーの袋と空のグラスを置いた。

 クッキーの袋をじっと見つめ、少しの間考えこむ。眠る前にクッキーを食べてしまおうかと手を伸ばしかけたが、何だかもったいない気がしてきた。食べてしまえば、亜坂と過ごした時間が消えてなくなるように思われたのだ。

 立ったまま考えている間にまぶたが重くなり、自然とあくびが漏れた。心地のいい疲労感が全身を包む。

「ダメだ、寝よう……」

 つぶやいてすぐにベッドへ横たわった。今度はしっかりと部屋の明かりを消して、千晴は誘われるまま両目を閉じた。

 まぶたの裏に一日の出来事が駆け巡り、次第に薄れていった。人生で初めて遭遇した殺人事件の衝撃は、千晴を心身ともに疲弊ひへいさせていた。

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