00:01 うたた寝から目覚める

 明かりをつけたまま眠ってしまっていたらしい。

 ふと目を覚ました千晴は、全身にまとわりつく眠気を寝返りで振りきり、ゆっくりと起き上がる。

 尿意が下腹部を刺激してトイレに行こうと体が動くが、靴を履いたところで急に頭が働いた。腕時計を見るとちょうど日付が変わった頃であり、一人で廊下に出ても安全かどうかと思案してしまう。

 雨はもうやんだらしく、風の音も聞こえない。そっと部屋の扉を開けて、千晴は慎重に周囲の様子をうかがう。

 廊下はすでに消灯されていて薄暗い。こういう時、スマートフォンがあれば懐中電灯代わりに使えるのにと苦い思いになりつつ、千晴はおそるおそる部屋を出た。

 扉を五センチほど開けておいて光を確保し、恐怖にドキドキしながら階段へ向かう。すると白いライトがぱっと灯り、千晴はびくっとしてしまった。

 どうやら人感センサー付きのライトが設置されていたらしい。その明るさに少し安心感を覚え、階段を下りていく。


 当然ながら一階も消灯されていた。お手洗いはどこにあっただろうかと、ややぼんやりする頭で思い出しながら廊下を曲がると、浴室から光が漏れていた。

 誰かがシャワーを浴びているのか、水の流れる音がする。こんな時間にいったい誰だろうと警戒し、千晴はさっさと小便を済ませることにした。

 足早に個室へ入り、出すものを出してすっきりしてからそそくさと出た時、すでに浴室の方は静かになっていた。

 すぐ隣の洗面所で手を洗いながら、このままでは鉢合わせるのではないかと緊張する。相手が誰だか分からないが、自分が怪しまれやしないかという不安も芽を出した。

 着替えを済ませたのだろう、廊下を歩く足音が聞こえてきた。千晴は蛇口をひねって水を止め、こわごわとそちらを振り返る。

 足音が止まってゆっくりと顔を出したのは亜坂だった。

「あっ、亜坂さんでしたか……」

 相手が分かってほっとする千晴だが、彼女が容疑者であることも忘れてはいなかった。

 寝間着であろうTシャツにショートパンツ姿の亜坂も、安堵あんどしたように表情をゆるめてそっと洗面所へ入ってくる。

「まだ起きてたんですね」

「ああ、いえ……まあ」

 ついさっきまで眠っていたのだとは言えず、千晴は近くにかけられていたタオルで軽く両手を拭いた。すると彼女が言う。

「あの、よければ少しお話しませんか?」

「え?」

 びっくりして千晴はどぎまぎしながら彼女を見た。

 亜坂は首を小さくかしげながら言った。

「一人でいるの、心細くて……ダメでしょうか?」

「そ、そうですよね。ええ、分かりました。お付き合いします」

「ありがとうございます」

 彼女がにこりと笑い、千晴の眠気はすっかり覚めた。

 亜坂はすっぴんながら肌が綺麗で、よく手入れされているのが分かる。昼間に見た時とさほど印象は変わらず、素朴そぼくなあどけなさが足されてますます可愛く見えた。

「それじゃあ、えっと……何か飲み物があった方がいいですよね」

 亜坂がそわそわと洗面所から出ていき、千晴は慌てて後を追う。忘れずに明かりも消して、台所へ移動した。

 すでに亜坂は台所の明かりをつけており、千晴が足を踏み入れるのとほぼ同時に冷蔵庫を開けた。

「あ、ジュースがありましたね。これでいいですか?」

 取り出したのはオレンジジュースの入った紙パックだ。千晴は「かまいませんよ」と返して食器棚の前へ向かう。戸を開けてグラスを二つ取り、亜坂が注ぎやすいように調理台へ置いた。

「ありがとうございます」

「いえ」

 こんな深夜に二人でいることが無性に不思議に思われた。

 殺人事件が起きてから五時間あまり。容疑者の一人である彼女と二人きりでいるのに、千晴はどうしようもなく嬉しくてドキドキしてしまう。ここへ初めて来た時は、プライベートな会話などできないと思っていたからなおさらだ。

 二つのグラスにジュースを注ぎ終え、パックを冷蔵庫へしまってから亜坂が思いつく。

「そういえば、自分で食べようと思って持ってきたお菓子があるんです。よければ一緒に食べましょう」

「え、いいんですか?」

「はい。だって、明日もどうなるか分かりませんから」

 彼女がぎこちなく笑い、千晴はそうだったとため息をつきたくなる。日付が変わっているので厳密には今日だが、事態は今後どう転ぶか分からない。

「それじゃあ、いただきます」

「じゃあ、ちょっと待っていてください」

 出ていこうとする彼女をとっさに千晴は引き止めた。

「待ってください。一人で行くの、怖くないですか? 僕も行きますよ」

「えっ、でも」

「三階にバルコニーありますよね? もう雨もやんでますし、そこでお話しましょう」

 亜坂が頬を赤く染め、嬉しそうにうなずいた。

「はい。ありがとうございます」

 出過ぎた真似をしたかと一瞬不安に駆られたが、一人にされるのは千晴も怖かった。できるだけ一緒にいた方が安全だろうとも思う。

 それぞれにグラスを持って台所から出ると、二人は階段を上がっていった。


 バルコニーのベンチは触るとまだ湿しめっていたが、濡れるほどではなかった。

「すぐに取ってきます」

 亜坂がグラスをベンチに置いて、自分の部屋へ向かう。彼女の部屋は隣の隣だ。千晴が腰を下ろし、ジュースを一口飲んでいる間に戻ってきた。

「あ、あの、クッキーなんですけど、大丈夫でしたでしょうか?」

 緊張した様子で亜坂もベンチへ座り、手にした袋を見せた。透明なパッケージに四角いアイスボックスクッキーが六枚ほど入っていた。

「ええ、大丈夫ですよ」

「よかった」

 亜坂は袋を開けると二人の間へおずおずと置いた。

「遠慮しないで食べてくださいね」

「はい」

 優しい女性だ。千晴は胸を温かくさせて、そっと一枚手に取った。

「いただきます」

「あ、はい」

 亜坂がちらちらとこちらを見ていたが、かまわずに千晴はクッキーを半分ほどかじる。思ったほど甘くなくて美味しかった。

「好きなパン屋さんのクッキーなんです」

 と、亜坂が短く紹介し、千晴は正直な感想を返す。

「美味しいですね。甘さがちょうどいいです」

「そうですよね! わたしもこれくらいの甘さが好きなんですっ」

 ぱっと表情を明るくさせると、亜坂はほっとしたような表情でグラスに口をつけた。

 少しの間、沈黙が訪れた。二人してクッキーをかじりながら、静かにオレンジジュースを飲む。

 夜空には雲が広がっていたが、合間に星がまたたいた。もう少し天気がよければ、きっとロマンチックな星空が見られただろう。

「わたし、容疑者なんですよね」

 ふと亜坂がつぶやき、千晴は様子をうかがうように横目で見た。

「ええ、そうなっていますね」

「……でも、わたしはやってません。信じてもらえなくてもいいですが、本当にわたしじゃないんです」

 彼女の気持ちを想像して千晴はどう返したらいいか考える。ありきたりな言葉でなぐさめてもいいが、結局人の心など読めないものだ。まだ出会ったばかりで、お互いに信頼し合える関係を築けているわけでもない。ここは無難な返答をしておくことにした。

「誰が犯人なのか、千雨が真相を突き止めてくれますよ。なので、本当に亜坂さんではないのなら、堂々としていてください」

「堂々、ですか」

「不安になるのは当然ですし、僕も内心ではびくびくしてるんです。でも、千雨の実力はたしかなので――」

「千雨さんの話ばっかりなんですね」

 はっとして千晴は口を閉じる。しかし亜坂が次にかけた言葉は意外なものだった。

「千晴さんも探偵なんでしょう? 後継者争いしてるって、木野さんから聞きました」

 千晴は面食らってしまい、ジュースを半分ほど飲んでから返す。

「僕はダメです。まず自信がないですから」

「そうですか? だけど頭はいいですよね。SNSを見ててそう思いました」

 忘れていたわけではないが、彼女が自分のファンだということを思い出して苦い顔になる。

「実際に会って、こうして話をしていても、やっぱり知的な人だなって感じますし」

「ありがとうございます。でも」

「でもじゃないです」

 唐突に否定されて千晴は少々びっくりした。亜坂はすねた子どものような顔で続ける。

「千晴さんはもっと自信を持ってください。あの頃みたいに堂々としている方がかっこいいです」

 どうやら彼女は、自分の中にあるかっこいい高津千晴を、本人を目の前にしてもなお信じているらしい。

 まばたきを何回かしてから千晴は自嘲の笑みを浮かべた。

「……あれはもう、昔です。本来の僕は気が弱くて、自分に自信がない、ダサい男なんですよ」

 遠くを見ると、街の灯りが木々の向こうで小さく存在を主張していた。まるで過去に置いてきた夢の欠片のようで見ていられなかった。

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