2日目

06:05 万桜に起こされる

 無防備なことに、部屋に鍵をかけるのを忘れていたらしい。万桜が飛びこんでくる音で千晴は目を覚ました。

「お兄ちゃん! お姉ちゃんがいないの!」

 言葉の意味を理解するのに少々時間を要した。夢かうつつか曖昧な感覚から、徐々に現実へと引き戻されていく。

 見ると万桜は泣き出しそうな顔をしており、千晴の襟元をつかんで揺さぶりながらもう一度叫ぶ。

「だから、お姉ちゃんがいないの!」

 理解した瞬間、背筋が寒くなった。焦りと恐怖をにじませながら問い返す。

「いないって、千雨が?」

「朝起きたらいなかったの! でもスマホがないから連絡できないし、もしかしたら、もしかしたら……っ」

 大きな声を上げて泣き始めた万桜を、千晴は体を起こしつつ抱きしめる。内心の混乱を表に出さないよう、必死に理性をつなぎとめて問う。

「落ち着いて、万桜ちゃん。まだそうと決まったわけじゃないよ。一階には行ってみた?」

「ううん、怖くて行けない……」

「じゃあ、見に行こう。千雨のことだから、きっと何か調べているんだよ」

 ぐすっと万桜が鼻をすすり、千晴は妹の肩をぽんぽんと叩いた。

「大丈夫、きっと大丈夫だから」

 自分で言っておいて千晴も不安になってきた。だが、万桜をこれ以上不安がらせるわけにはいかない。

 ベッドから下りて窓辺へ寄った。カーテンを開くと清々しい朝日が差しこんでくる。

 テーブルの上には亜坂からもらったクッキーが袋に入ったまま置かれてあり、バルコニーでともに過ごした時間は夢ではなかったのだと感じた。余韻に浸りたいところだが、生憎とそんな場合ではない。

 万桜が落ち着くまでの間に着替えをしようと服を脱ぎ、ボディシートでさっと体を拭いた。べたついていた肌がすっきりして、気持ちも多少明るくなる。

 着替えを済ませ、忘れずに眼鏡を装着してからボディバッグを肩にかける。振り返ると万桜がティッシュペーパーで顔を拭っていた。

「それじゃあ、様子を見に行こうか」

「うん」

 二人で廊下へ出ようとすると、下の階から短い叫び声がした。千晴は万桜と顔を見合わせるなり駆け出した。


 一階の廊下に倉本が腰を抜かして座りこんでいた。

「倉本さん、いったいどうしたんですか?」

 声をかけながら近寄ると、振り返った彼が蒼い顔で唇を震わせた。

「も、もも、物置……っ」

 指さす先を見て千晴は思わずうめいた。物置の扉が開け放たれており、中に血にまみれた姿を見つけたからだ。

「万桜ちゃん、倉本さんと離れてて」

「分かった」

 嗅覚が敏感な万桜の気分が悪くならないよう、倉本とともに遠ざける。

 わずか三畳ほどの狭い空間で事切れていたのは桁山だった。宇原と同じく粘着テープで口をふさがれていた。

 胸から腹にかけて何度も刺された跡があり、左右の壁や床だけでなく、天井にまで血が飛んでいる。踏まないように気をつけて中へ入ったが、窓がないために鉄臭くてたまらず、千晴は長くいることができずに廊下へ戻った。

 千雨の姿はなかった。倉本の悲鳴を聞いたなら真っ先に駆けつけるはずだ。どうやら本当にいなくなってしまったらしい。

 不安と心細さに襲われながらも、千晴は角のところにいた万桜へ声をかける。

「万桜ちゃん、ノートとペンを借りてもいいかい?」

「うん、ちょっと待って」

 サコッシュから取り出されたそれを受け取り、千晴は左腕の時計を確認した。白いページに現在の時刻を書きこみ、倉本へ問う。

「ここへ来るまでに怪しい人物を見ませんでしたか?」

「い、いや……」

「物音もですか?」

「ああ、聞いてない。俺が起きたの、十分くらい前で……慌てて朝食の準備をしに来たら、物置が開いてて」

 彼の証言を書き留め、千晴は顔を上げる。他の人々が集まってきていた。

「嘘だろ、喜平……」

 円東がふらふらと物置へ腕を伸ばし、入って行こうとするのを千晴はとっさに阻止する。

「触ったらダメです、円東さん」

「嫌だ! 何で喜平なんだ、何で喜平が死ななきゃならないんだ……!」

 我を忘れて桁山に近づこうと暴れる。すぐに後ろから神谷が羽交い締めにして距離を取らせた。

「円東さん、落ち着いて」

「離せ! 喜平のところに行かせろ! 喜平! 喜平っ!」

「巧人、手を貸せ」

 ぼーっと突っ立っていた五十嵐が名前を呼ばれてはっとする。すぐに円東の前へ回りこみ、暴れる彼の両腕をつかむと、円東の声がにわかに弱まった。

「お兄ちゃん、どうするの?」

 不安そうに万桜が問い、千晴は考える。

「やっぱり警察を呼ぶしか」

 すると木野が気づいて口を開いた。

「ねぇ、千雨ちゃんはどこ?」

 万桜が彼女を振り返り、やや上ずった声で説明した。

「いないんです、それが。わたしが目を覚ました時にはもう、姿がなくて」

 はっと息を呑んで木野がよろける。そばにいた亜坂が支えたが、二人とも嫌な想像をしてしまったようで頬から血の気が引いていた。

 大井もまた青ざめたが、観念したようにぎゅっと唇を噛んだ。

「千晴さん、ちょっと」

 と、玄関へ向かって歩き始める。千晴がついていくと、彼女は居間へ入りテレビ近くの壁際で足を止めた。

「それ、お借りしても?」

 示されたのは千晴の手にしたノートだ。すぐにペンと一緒に渡した。

「どうぞ」

 大井は何枚かめくってまっさらなページを見つけると、さらさらと書き記し始めた。今朝のことだった。


 明け方に目を覚ました大井はいても立ってもいられず、スマートフォンを探そうと一階へ下りてきた。

 玄関から食堂までの廊下を注意深く歩き、食堂の中へ入った。時刻は五時二十分頃だった。

 どこかに隠してあるのではないか。昨夜の会話を思い出しながらテーブルの下へもぐりこんだところで、扉越しに切羽詰まったような桁山の声がした。もう一つの声も聞こえたが、彼らの雰囲気が尋常でないと感じ緊張してしまったため、誰なのか判断できなかった。会話の内容も覚えていない。

 物置の扉が開くような音がし、数分もしないうちに桁山の短い悲鳴が聞こえた。大井は体をこわばらせ、テーブルの下でじっとしていた。扉は閉めてあったため、物音さえ立てなければ見つからないと思った。

 辺りが静かになったかと思うと、浴室の方からシャワーを浴びていると思しき水音がした。今のうちに逃げるべきだと考え、そろそろと居間へ移ると扉越しに気配を感じた。奥へ向かっていくような足音が聞こえた。そっと廊下へ出た大井は一刻も早く部屋へ戻るべく、極力音を立てないように注意して階段を上がった。

 あの時に感じた気配は、もしかしたら千雨だったのではないか。


「……ありがとうございます」

 千晴はノートを閉じた。大井は首を目一杯上へ向けて千晴を見つめる。

「でも、もしかしたら、私も……」

 狙われる可能性は十分にあるだろう。顔を見ていないとは言え、今朝シャワーを浴びた人間が分かれば、それが犯人なのだ。

 残る劇団員は六人。昨夜の事件を考慮すれば、犯行が可能だったのは円東、神谷、五十嵐、亜坂の四人。近づけば石鹸せっけんの匂いがする、なんてことはないだろうか? ノートを再び開いて、隅の方に記しておいた。

「ち、違う! おれじゃない!」

 廊下から円東の悲痛な声が聞こえ、千晴は慌てて居間を出た。見ると、円東が食堂側の壁に追いつめられていた。

「桁さんが結婚したから恨んでたんでしょう!?」

 疑いを向けていたのは木野だ。昨日は神谷を疑っていたが、どうにも大人しくしていられないらしい。

「何を言って、おれは……おれは……」

 動揺する円東を見て、座りこんだまま倉本が口を開く。

「そうだ、円東さんなわけがない。桁さんを殺すわけがない」

 倉本は彼らと十年以上の付き合いになる。特に桁山に心酔しており、少なくとも木野よりは彼らをよく知っている。

 しかし、そうした事情を理解できるような冷静さは、今の木野にはなかった。

「絶対に円東さんに決まってるわ! 昨日だって第一発見者だったじゃないの!」

 木野の後ろで亜坂が困惑している。神谷と五十嵐は距離を取って様子を見ており、壁に背中をつけた円東がずるりと床へ座りこむ。

「待ってください!」

 急いで間に入り、千晴は彼をかばうように木野へ顔を向けた。

「まだ犯人が誰かは分かっていません!」

「円東さんが宇原と桁さんを殺したのよ! わざとらしい演技までして!」

 すっかり思いこんでいる様子だ。たしかに円東も容疑者だが、犯人かどうかはまだ分からない。分からないままでいることが怖いのは、千晴にもよく分かる。

 とはいえ、疑心暗鬼に陥るのは危険だ。こんな時、千雨ならどうしただろう。あくまでも冷静に論理的な正論を振りかざして、木野を黙らせるのではないか。果たして千晴にそれが出来るのだろうか。いや、無理だ。

「……円東さんは僕にとって恩人です。これ以上傷つけるつもりなら、僕が許しません」

 言葉の端々が震えてしまった。千雨のようにかっこよくはできなかったが、涙目になる千晴を見て、木野はわずかながら理性を取り戻したようだ。半歩後退し、戸惑った様子で亜坂を振り返った。

「で、でも……だって」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る