06:38 神谷の一声

 緊迫していた空気が変化したのを敏感に察知し、神谷が語気を強める。

「誰かを責めている場合じゃない。これからどうするか決めるのが先だ」

「そうです。だからもうやめてください」

 ありがたく助け舟に乗り、千晴は木野をにらむ。まだ言い足りない顔をしていた木野だったが、ようやく口を閉じた。

 どうにかこの場は収まったようだ。ほっとして千晴は円東を振り返った。

「大丈夫ですか、円東さん」

「あ、ああ……助かった。けど、本当におれじゃないんだ」

 今にも泣き出しそうな顔だった。仲間を二人も失った矢先に犯人扱いされたことで、精神的に不安定になった様子だ。どこか静かな場所で安静にさせたいが、この状況でそんな安息の地があるだろうか。

 判断に迷い、考えこんでしまった千晴を見て、神谷が冷静に指示した。

「ひとまず食堂に入れ。全員だ」


 それぞれ適当に椅子へ腰を下ろした。一人、神谷だけは千晴のすぐそばに立って、様子をうかがっている。

「どうするんだ、高津」

「……どうする、と言われても」

 隣では円東がうつむいて唇を震わせている。

 神谷も彼の方を気にしつつ、低く落ち着いた声で言った。

「妹がいないとダメか?」

「っ……」

 傷つく千晴だが否定できない。こういう時に頼りになるのは、やはり千雨の方なのだ。気の弱い千晴には難しい。

 しかし神谷は馬鹿にしたわけではなかった。

「先に言っておくが、俺は自分の疑いを晴らしたい。そのために犯人を見つけることにした。高津妹がいない今、兄であるお前が犯人を見つけてくれるなら、俺はお前の言うことに従う。だが、荷が重いっていうなら俺がやる」

 そうだった、彼はそういう人だ。他の誰かがやらないなら自分がやるし、自分で決めたことは最後までやり遂げる。

 自分の存在意義が奪われそうになっている。千晴は危機感を覚えたが、自分が千雨に代わって探偵役をやる必要性もないことに気づく。どうしたらいいだろう、どうするのが最善だろう。

「……少し考えさせてください」

「分かった」

 考えることは多かった。神谷の申し出はありがたいが、犯人だからこそ犯人探しに加わろうとしているのかもしれない。そうだとすれば、彼の言葉や行動によってミスリードされてしまう可能性がある。

 さらには千雨の行方だ。まだ見つかっていないだけで、もしかしたら本当に殺害されているかもしれない。大井の証言通りであれば、千雨は物置の惨状を目にしただろうし、犯人がシャワーを浴びていたことも知っている。顔も見たかもしれない。そのため、口封じとして殺害されたのだと考えるとしっくり来る。

 しかし、千雨が死んだなどとは思いたくない。まだ遺体が見つかっていないのだから、生きている可能性だってある。そうだ、シュレーディンガーの猫だ。観測するまでその生死は決まらない。観測して事実となって初めて、その生死が現実となる。

 いや、そんなのは屁理屈だ。現実逃避だ。千晴は目の前にある現実を受け入れられない弱い自分が嫌になった。

 ふいに倉本が思い出したように「すぐに朝食作ってくる」と、台所へ向かって行った。恐怖心や不安は募るが否応なしに腹は減るものだ。

 倉本が戻るまでの約三十分間、千晴は黙って考え続けた。神谷や五十嵐も黙りこんでおり、女性たちが時折小さな声で会話をかわしていた。

「待たせたな」

 と、倉本はテーブルへ大皿を置いた。野菜とハムを挟んだだけのシンプルなバゲットサンドが十個ほど並んでいた。

「本当はちゃんとしたやつ、作るはずだったんだけどな」

 申しわけなさそうに言ってから、彼は亜坂へ声をかけた。

「亜坂ちゃん、手伝ってくれるか? コーヒー淹れたからさ、カップを運んでほしいんだ」

「はい、分かりました」

 亜坂が席を立って倉本の後を追う。

 今になって気づいたが、女性陣はみんなすっぴんだった。考えてみれば当然なのだが、亜坂は深夜に見た時より元気がないようで青白い頬をしている。大井も疲れたような生気のない顔をしており、何歳か老けたようだ。木野は目の大きさが明らかに昨日とは違い、いかにメイクで美しくしているかが分かった。

 トレイを持って戻ってきた亜坂がテーブルへカップを並べ、倉本がコーヒーポットを傾ける。馴染みのある香りに千晴の気持ちが少し落ち着く。円東もまた顔を上げて、空腹だったことを思い出したようだ。

 順にカップがそれぞれの前へ置かれ、万桜が浮かない顔をする。

「コーヒー、飲めない……」

「カフェオレにすれば飲めるでしょ」

 千晴は優しく言った。砂糖とコーヒーフレッシュは用意されていたが牛乳はなかったため、トレイを下げようとしていた倉本へ声をかける。

「すみません、牛乳ありますか?」

「ああ」

 察した倉本はすぐにパック入りの牛乳を持ってきてくれた。それを万桜の前へ置きながら謝る。

「ごめんな、万桜ちゃん。牛乳のがよかったよな」

「いえ、わたしこそわがままですみません」

 万桜が牛乳を注ぎ終えると、木野が腕を伸ばしてきた。

「私もコーヒーは好きじゃないの」

 茶目っぽく言ってから牛乳パックを受け取り、コーヒーに牛乳を注ぐ。

 五十嵐がすでにバゲットサンドにかぶりついており、円東はコーヒーを飲んで多少落ち着いた様子だ。

 緊迫した空気が融解し始め、千晴もバゲットサンドへ手を伸ばした。


 朝食が済み、倉本と亜坂が片付けのために台所へ移動した。できれば誰も食堂から出てほしくないのだが、そうも言っていられなかった。

 トイレに行っていた木野が戻ってくるなり口を開いた。

「あの、物置なんだけど……どうにかならない? あそこのドア、閉めちゃダメかな?」

 彼女が言っているのは桁山の遺体を見たくない、ということらしい。たしかに洗面所の方へ行こうとすると、どうしても物置が目に入る。

「ドアを閉めたらにおいがこもってしまいますし、腐敗も進んでしまうので、ちょっと」

 千晴が苦い顔をすると神谷がひらめいた。

「離れにブルーシートがあっただろ? あれをかけておけばいいんじゃないか?」

「ああ、そうですね。そうしましょう」

 話を聞いていたらしい五十嵐がおずおずと席を立つ。

「それならオレ、取ってきます」

「ありがとうございます。お願いします」

 ありがたく彼が戻るのを待つことにして、千晴は神谷を振り返る。

「あの、物置の方を頼んでもいいですか? 僕ももう見たくなくて」

「分かった」

 文句も言わずに彼が出ていき、千晴はほっとした。あらためて今後について考え始める。

 千晴の頼みを素直に受け入れてくれたことからして、神谷の言葉に嘘はない様子だ。信用してもいいだろうとは思うが、どうしても引っかかるものがある。

 ふいに万桜が千晴の袖を引いた。目を向けると、ノートをそっと差し出してきた。兄の意図を察して、石鹸の匂いがする人物はいないか、鼻を使ってたしかめてくれたのだ。

『確実にシャワーを浴びてるのは木野さん、亜坂さん、五十嵐さん。確実とは言えないけど汗臭くないのは神谷さんで、せっけんの匂いがするのは円東さん』

 容疑者の名前が全員挙がっている。事実がどうであるにせよ、においでは犯人を絞りこめなかった。

「分かった、ありがとう」

 小さな声で言ってノートを戻すと、万桜は残念そうに「難しいね」と苦笑いを返した。

 神谷と五十嵐はそれから五分ほどで戻ってきた。

「扉は半開きにしておいた。少しはマシになったと思う」

「ありがとうございます」

 五十嵐が無言で席へ着き、神谷は先ほどと同じ場所に立ちながら問う。

「それで、次はどうするんだ?」

 すでに千晴は覚悟を決めていた。意識的にしっかりと呼吸をしてから正直に打ち明ける。

「あなたのことを信用してもいいかどうか、分かりません。それに、僕は嫌われていたはずでは?」

 神谷が腕を組んで壁へもたれかかった。

「そうだな、ずっと許せなかった。看板俳優の俺を差し置いて注目されて、どんどんテレビに出て有名になりやがった」

 後頭部に神谷の視線を感じる。当時を知る仲間たちもこちらを気にしていた。

 ――あの日は舞台の千秋楽だった。満席状態の劇場で無事に最後の公演を終えて、千晴はほっとしていた。楽屋へ入ると知らない人たちが待っていた。主役を務めた神谷ではなく脇役であった千晴を、だ。

「それなのに芸能界をやめただと? 何があったか知ったとしても、俺はお前を許さない。きっとずっと許さないままだ」

 当然だと千晴は思った。自分が彼の立場なら、似たようなことを思ったに違いない。だが、だからこそ信用できるのではないか。お互いに相手のことをよく知らないし、嫌い合っているとも言えるのだから、そこに忖度そんたくや甘えは存在しない。千晴に対する率直な思いを人前で口にしたのは、彼の覚悟が決まっている証拠だ。

「分かりました。僕は神谷さんを信じることにします」

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