18:45 後継者争いについて話す
千雨はうんざりした様子でため息をついた。
「これまでに三度勝負をしたんですけど、一勝一敗一引き分けで。困ったことに、千晴もなかなかやるんですよね」
二人から視線を送られて千晴は戸惑う。褒められているのかけなされているのか、まるで分からない。
「ずいぶんいい勝負なのね。最終的にどっちが勝つのかしら?」
「まあ、どうせあたしでしょう」
千雨がはばかることなく言い放ち、弁護士は楽しそうに拍手を送った。
「さすが千雨さん、かっこいいー!」
気まずくなって視線をそらす千晴だが、万桜に袖を引かれて首を回した。
「何?」
「やり返さなくていいの?」
たずねられると困惑する。どう反応をしたものか、とっさに神経回路が導き出したのはため息だった。
「別にいいよ。僕はただの運転手なんだし」
「お兄ちゃんも頭いいのに?」
「……そうかな」
たしかに学校の成績は悪くなかった。体育と音楽は苦手だったが、その他の科目は平均点よりいつも上だった。しかし、掲示板に張り出されたのはいつも千雨の名前だけだった。千晴は中途半端だったのだ。成績上位者になれず、もてはやしてくれる友人もいない。
「でも、やっぱり千雨の方がすごいのは事実だから」
ずっと妹に勝てない人生だった。やっと別々の道を歩み始めても、結局千晴は落ちてきた。
「もったいない」
万桜がつぶやいて視線を外した。
我ながら情けないと思いつつ、千晴も顔の向きを正面へ戻す。弁護士はまた千雨の話を興味深そうに聞いている。
雨が降り出したのだろうか、ぽつぽつと窓をたたく音がした。心なしか気温も下がってきたようだ。
「お待たせしました」
紅茶の香りがふわりと漂い、トレイにティーセットを乗せた主人が戻ってきた。
トレイをテーブルへ置いた流れで床に両膝をつき、ソーサーを四枚並べた上にティーカップを乗せていく。次にティーポットを優しく傾けて紅茶を注ぐと、温かな湯気が立った。
「どうぞ」
千晴は自分の前に置かれたカップをながめた。ベルガモットの濃い匂いがする。
「上品なアールグレイですね。ミルクはありますか?」
早くも一口飲んでから千雨が言い、万桜も「わたし、お砂糖が欲しいです」と伝える。
「失礼しました。砂糖ならこちらに」
主人はトレイの上に置きっぱなしにしていたシュガーポットを万桜の前へ置く。
「ありがとうございます」
いそいそと万桜が紅茶へ砂糖をスプーン三杯ほど入れた。
「すぐにミルクを持ってきましょう」と主人は立ち上がった。廊下へ出ようとした時、上から男の声と思しき悲鳴が響いた。
誰もがはっとし、千晴は内心でついに事件が起きたと思った。
主人は戸惑ったように振り返って弁護士の方を見た。弁護士は何かを確認するように壁掛け時計へ目をやった。
言葉にならないわめき声を上げながら、誰かが慌ただしく階段を下りてきては居間へ飛びこんできた。
「上で、上で死んでる!」
銀行員の佐藤――ではなかった。血のりで死体メイクを
「死んでるって、誰が?」
神妙に桁山が返すと円東はひどく動揺したまま答える。
「宇原だよ!」
千雨の目つきが鋭くなった。手にしたカップをソーサーへ戻し、立ち上がる。
「探偵の出番のようね」
まさか、これがまだ芝居の中だと思っているのではないか。そんな心配が脳裏をよぎるが、千晴もすぐに腰を上げて千雨を追った。
宇原恋奈が死んでいたのは多目的室だった。
ボードゲームの並んだ棚の前、テーブルからやや離れたところで床にぺたんと座り、ソファに頭を置いていた。
さっさと進んでいく千雨の後ろを、怖気づきながら千晴はついていく。ソファの肘掛けに隠れていた頭部が見えてくると、口元へ手をやらずにはいられなかった。
首の骨が折れて顔が反時計回りにほぼ真後ろまで回されていた。両目は目玉が飛び出るかと思うほど見開かれており、梱包用の透明な粘着テープで口をふさがれていた。
周辺に転がっているのは血のりのボトルと、ジッパーの閉じた黒いポーチ。マーダーミステリーは終わり、フィクションではない事件が幕を開けていた。
思わず足を止めた千晴とは裏腹に、千雨は遺体のそばまで寄ってまじまじと観察を始めていた。
「ほ、本当はここ、ここでっ、おれが死ぬはず、だったんだ」
落ち着きなく円東が言い、その肩を桁山がなだめるように抱いている。他の劇団員たちも騒ぎを聞きつけて集まっていた。
千晴は彼らを振り返ると、かろうじて残っていた冷静さを発揮する。
「警察を呼んでください」
誰より早く動いたのはプロデューサーだった。ポケットからスマートフォンを取り出したが、画面を見て顔面蒼白になる。
「電波がない……!」
「え?」
まさかと思い、駆け寄って彼女のスマートフォンをのぞきこんだ。圏外になっていた。
「昼間はつながっていたはずなのに」
プロデューサーの不安げなつぶやきに、千晴は円東の方を見る。
「抑止装置は置いてませんよね?」
「置けるわけないだろう。貸別荘だぞ」
返答したのは桁山だ。円東は青白い顔でうなずくことしかできない。
劇場やライブハウスであっても、勝手に携帯電話抑止装置を設置するのは違法だ。諸々の手続きを踏まないとならない。
「となると……どこかにジャミング装置がある、としか」
千晴は一同の顔を順に見回した。この中に犯人がいるはずだ。携帯電話の電波を妨害するジャミング装置を持ちこみ、警察に連絡をさせないようにした人物がいる。
しかし広い建物ではない。探せばじきに見つかるだろう。装置がどのような形状をしているかも、千晴には見当がつく。だが、もしそれを犯人が持ち歩いているとしたら? 可能性は高いだろう。探して見つかるような場所に置くくらいなら、最初から装置など持ちこまない。
それよりも確実なのは外へ出ることだ。妨害できる範囲には限界がある。影響の及ばない場所まで行けばいい。
頭の中で結論を出したところで、千雨がこちらへやってきた。
「万桜ちゃん、ノートとペンを貸してもらってもいい?」
「うん」
劇団員に混ざって様子を見ていた万桜がサコッシュからそれらを取り出して姉へ渡す。千雨はいくつか情報を書きこんでからたずねた。
「円東さん、遺体を発見したのは何分頃でしたか?」
はっとして千晴は口を出した。
「そんなことしてる場合じゃないだろ。警察を呼ばないと」
「でも電波がないんでしょ? 誰かが妨害してるってことは、この中に犯人がいるのは確実。外へ出ればいいだけだと思うでしょうが、この辺りには熊が出るのよ。しかも大雨で風も強くなってきた。ここは犯人の思惑通り、大人しく建物の中にいるしかないわ」
「千雨、これは本物の殺人事件なんだ。そんな悠長なこと言ってられない」
「じゃあ、行けば? 最近の熊は大きいから、車に乗っていても安全とは限らないでしょうけど」
えらそうな言い方に腹が立つ。しかも千雨は涼しい顔をしているため、なおさら
「また被害者が出てもいいのか?」
「よくないわね。でも全員のアリバイを調べれば、容疑者を絞ることは出来るわ。
そもそも夕食が終わったのがほんの数十分前よ? そんな短い時間で人を殺したとすれば、犯人はまだ興奮しているはず。余計なことを口走ったり、異常な行動を取るかもしれないわ。犯人が分かったら、ロープで縛るなりして動きを封じればいい」
簡単に犯人が尻尾を出すとは思えない。しかもこの場にいるのは、千雨の実力を少なからず知っている人ばかりだ。何らかの対策がされていて当然なのだが、千晴はとっさに言い返せなかった。
千雨は兄を無視し、あらためて円東へたずねた。
「遺体を発見したのは?」
「え、えぇと……部屋に戻って、おれはメイクをしてたんだ。予定では五十分に多目的室に行って、美術の宇原と仕上げをして……だ、だから五十分頃だ。でも最初、宇原が座って眠ってるのかと思ったから近づいて、それで」
その時の恐怖を思い出したかのように円東は震え、桁山が冷静に状況を説明した。
「今回はスタッフを使わないで、何人かが役者とその他の仕事とを兼ねていたんだ。宇原くんは美術やメイクも出来た。他の仕事も同様に、できる人間に任せていたんだ」
「そうですよね。夕食を作ったの、倉本さんでしょう? さすがレストランで調理をしている方は違いますね」
半ば感心して千雨が視線を向けたのは、シェフ役の倉本だ。彼は劇団員でありながら、飲食店でのアルバイトが本業のようになっていた。千晴が所属していた頃からすでに料理上手との評判だったが、それが今回のシェフ役に活かされた形だ。
「それで、倉本さんは今までどちらに?」
千雨がアリバイをたずねると、倉本は動揺しているのかやや早口で答える。
「俺はずっと台所にいたよ。みんなに食事を出し終えてから、台所でまかないを食べてたんだ。その後で皿洗いをしてて、途中で桁さんが紅茶を淹れに来た」
「ああ、倉本くんにティーセットがどこにあるか聞いたな」
桁山はその前後、千晴たちとともにいた。倉本がずっと台所にいたことは疑いなさそうだ。
千雨が「ありがとうございます」と礼を言ってから、次の人へ視線を移そうとすると、先に亜坂が口を開いた。
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