1日目

17:00 県道を走行中

 会場となる業荻わざおぎ山荘は三県にまたがる赤石山脈、通称南アルプスの中腹にあった。山梨の県道を北西へ道なりに進み、途中にある峠をさらに超えた先だ。

 千晴が運転するのは赤い車体のホンダシビックタイプR。数年前に千雨が気に入って中古で買ったのだが、最近ではもっぱら運転席にいるのは千晴だった。

 周囲に見えるのは木々ばかり。片側一車線の道で右手は崖、左手は斜面になっていた。太陽が西へ傾いてきたために影が差して薄暗く、延々と続きそうな登り坂はしばらく日陰だった。ようやく日の下に出たかと思えば、すぐに目的地の屋根が見えてきた。県道からそれてやや急な坂を上っていく。

「あら、いい雰囲気」

 助手席の千雨が建物を見るなりつぶやいた。

 開けた土地の真ん中にイギリスの住宅を思わせる洋館が建っていた。三階建てで壁は淡いクリーム色、屋根はシックな灰青色だ。三段ほど上がったところにある玄関ポーチが目を引く。

 ゆっくりと敷地内へ車を進めると、中から見知った顔が出てきた。Tシャツにチノパン姿の円東だ。

 嬉しそうな顔をして右手で横方向を指さす。車はあちらに停めろ、ということらしい。

 向かってみると、劇団員たちが乗ってきたのであろうシルバーのワゴン車と青い軽自動車が並んで駐車されていた。千晴もならい、その横へ慎重に車を停める。

 すぐに千雨と万桜が車外へ出た。

「わー、いい空気。東京じゃかげない、自然の匂いがするね!」

 万桜がはしゃぐのが聞こえた。都内にも緑豊かな公園はいくつもあるが、それとは比べものにならない。

 遅れて千晴が降りると二人はすでにトランクを開けていた。三人分のキャリーバッグを取り出し、千晴は自分のものを受け取って地面へ下ろす。

 千雨が先頭を切って円東の待つ建物正面へ歩いていく。千晴と万桜は揺れるポニーテールをゆっくりと追った。

 山奥にあるためか、とても静かな場所だ。聞こえるのはどこか遠くで何かの鳥が鳴いているのと、時折風が木々を揺らす音くらいだった。向かう途中では蝉の声も聞こえたが、この近くにはあまりいないようだ。

「よく来たな、千雨。今回は引き受けてくれてありがとう」

「こちらこそ招待してもらえて嬉しいです。どんなシナリオなのか、とっても楽しみにしていたんです」

 にこにこと微笑する千雨に、小柄な円東は気圧けおされて苦笑する。

「今や本物の探偵だもんな。どうかお手柔らかに頼むよ」

 公演の台本はすべて演出家も務める円東が書いていた。ただし、マーダーミステリーの台本を書くのは初めてだ。

 円東が上体を横へずらして後から来た二人を歓迎した。

「万桜ちゃん、久しぶり。千晴は元気してたか?」

「お久しぶりです」と、万桜が元気よく返す。

 千晴は笑うと目尻にしわのできる円東を懐かしく思いながら返した。

「ご無沙汰ぶさたしてます。その節は大変お世話に――」

「おいおい、堅苦しいのはよせよ」

「でも」

「いいんだよ、千晴。お前に何があったかは知らんけど、俳優をやめたことは聞いてる。それもまた人生ってこった、気にするな」

 横に並んで背中をぽんぽんと叩いてくる。

 昔から彼はそういう人だった。気さくで優しくて、それでいて演劇のこととなると情熱的になる。愚直なまでに本気で打ち込む姿にあこがれて、千晴は「劇団ルート66」に入りたいと思ったのだ。

「ありがとうございます、円東さん。それより、少し太りました?」

 あの頃を思い出すと同時に、冗談が口を突いて出た。円東は一瞬きょとんとしてから愉快そうに笑った。

「おれももうアラフィフだぞ、少しくらい太るわ」

 彼と出会ったのはほんの五年前だが、千晴にとっては人生の五分の一に相当する。そのうちの四年ほどは顔を合わせることもなかったが、円東は変わらず千晴を可愛がってくれていた。そのことがありがたく嬉しくて、千晴も笑いながら少しだけ泣いた。

 いつか千雨が杞憂だと言ったように、何も気にすることなどなかったのだ。

 玄関のポーチへと上がりながら万桜がたずねた。

「円東さん、今回のことブログに書いてもいいんですよね?」

「ああ、もちろんだ。ネタバレさえしなければいい、どんどん宣伝しておくれ」

「ありがとうございます」

 万桜がほっとしたように頬をゆるめる。

 彼女は「とある探偵事務所の一幕」というタイトルでブログを運営していた。内容は父や千雨のこなした依頼を、個人情報を伏せつつほどよく脚色したものだ。読者はそこそこいるらしく、今やブログは万桜の趣味の一つとなっていた。

「さあ、どうぞ」

 円東が玄関の扉を開けてくれて、千晴たちは順に中ヘ入る。

 玄関ホールで待っていたのは若くて華奢きゃしゃなメイドだった。千晴の記憶にはない顔である。

「業荻山荘へようこそ。ご予約の高津様でございますね?」

 どうやらすでに芝居が始まっているらしく、落ち着いた口調で言う。しかし、メイドは千晴の顔を見るなり固まってしまった。

 円東が彼女の肩へ片手を置きながら声をかけた。

「ファンだからって緊張するな」

「は、はいっ」

 返事をするも声が上ずっている。円東はけらけらと笑いながら彼女を紹介した。

「こいつは亜坂あさかあい。今年入ってきたばかりの新人だ」

 どうやら彼女が噂の新人らしい。亜坂は恥ずかしそうに顔を赤くしてうつむいた。

 年齢は千晴より数歳ほど下だろうか。万桜よりやや背が低く、セミロングの黒髪を後ろで一つに結っていた。クラシカルなメイド服姿が建物の雰囲気とよく合っている。千雨から聞いた情報通りに胸が大きく、衣装がそこだけきつそうに見えた。

 千雨は千晴をちらりと見てから、笑顔で亜坂へ歩み寄った。

「亜坂ちゃん、メイド服がよく似合ってて可愛いわ」

「あ、ありがとうございます」

「千晴があんまりダサくてもがっかりしないでね」

「そ、そんな、ダサくなんて……!」

 言いながら亜坂は千晴から視線をそらしている。

 千晴は何か言い返したかったが、つい亜坂を意識してしまって言葉が出てこない。悔しいことに好みのタイプなのだ。最初から妙な印象を与えたくはない。

 万桜はなんとなく事情を察したようで、やや呆れた顔をして姉たちを見ていた。

 千雨がくすくすと笑っていると、右手の部屋からまた見知った顔が現れた。

「ようこそ、業荻山荘へ」

 身振りを添えて仰々しく声をかけるのは桁山喜平けたやまきへい、劇団の古株で円東の右腕として活躍する俳優である。

「どうぞ、こちらへいらしてください」

 言いながら、今しがた自分が出てきたばかりの部屋を示す。にこにこと人の好さそうな笑みを浮かべているところを見ると、彼もまた芝居をしている様子だ。

 千晴たちはキャリーバッグをホールへ置いて部屋へ入った。

 室内には三人がけの大きなソファが二つ、長方形のローテーブルを挟むように設置されていた。それぞれの横に同じ色の一人掛けのソファが並び、合計で八人が同時に座れるようになっている。右手奥には大きめの薄型テレビが一台置かれていた。左手には間仕切りとして窓側の壁に接する形で本棚が設置され、その向こうに立派なダイニングテーブルが見えた。元々は居間と食堂が一体化した大きな部屋らしい。

 ソファには何人かの役者がそろって座っており、打ち合わせでもしていたようだ。ばっちりと化粧をした綺麗な女性が立ち上がり、千雨へ両腕を伸ばした。

「千雨ちゃん、来てくれてありがとー!」

 ぎゅうと抱きついてきた彼女を片腕で抱き返しつつ、千雨は返す。

「こちらこそ、お誘いありがとうございます。涼花さん」

 木野涼花は数年前から看板俳優を務めていた。二十九歳とまだ若いことに加え、所作も美しく上品なため、ヒロインとして舞台に上がることが多い。

 もう一人の看板俳優はソファに座ったまま、ちらりと千晴に視線をやったきりだった。挨拶を交わす素振りもなく失礼な態度と言わざるを得ないが、千晴はその距離感を懐かしいと思った。神谷翔吾かみやしょうごとは少なからず因縁がある。

 円東が「木野、ちょっと離れなさい」と困ったように言い、木野はしぶしぶ千雨から離れた。

 気を取り直すように桁山が咳払いをし、ローテーブルの上に置かれた箱を取り上げる。

「はじめまして。私はこの山荘の主人の園山です。今回の目的がデジタルデトックスであることはご存知ですよね? まず、お客様のスマートフォンを預からせていただきます」

 彼の開けた箱の中には、すでにスマートフォンが四台収められていた。

 千晴は公演のあらすじを思い出す。デジタルデトックスを目的に山荘に集まった人々が閉鎖された空間で殺人事件に巻きこまれる、というものだ。観客は体験型マーダーミステリーに参加しながら、同時にデジタルデトックスもできるというのが売りらしい。

 すぐに千晴たちはそれぞれスマートフォンを取り出し、きちんと電源をオフにしてから箱の中へ入れた。

「ありがとうございます。たしかにお預かりしました」

 ふたを閉じて元あった位置へ戻す。そして山荘の主人は廊下にひかえていたメイドを振り返った。

「柊、お客様の案内をお願いしますよ」

「かしこまりました」

 亜坂はさっと役に入り、千晴たちの元へやってくる。

「ご案内します」

 背筋を伸ばして歩き出す彼女の後を千晴たちはぞろぞろとついて行く。

 部屋を出る間際、桁山が円東に話しかけるのが聞こえた。

「健ちゃん、君もそろそろ準備をした方がいいんじゃないか?」

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