3週間前 12:00
正午を告げるアラーム音が鳴り響いた。
がたがたと従業員たちが席を立ち、退屈していた
機械の吐き出した報告書を手に取り、
「ねぇねぇ、千晴。さっき
「勤務時間中に? 仕事しなよ……」
真面目な千晴が呆れた顔を返すと、千雨はかまうことなく続けた。
「いいのよ、どうせ今日は暇なんだから。それより聞きたいことがあるの」
「何?」
言いながら報告書の一枚を所長の机へ置いた。所長はすでに昼食を取りに席を立っていた。
千晴は次にファイルブックの並ぶ棚へ歩みを進める。千雨がついてきながら言った。
「今度の公演、二泊三日の体験型マーダーミステリーなんですって。そのリハーサルに観客として参加してほしいそうよ。あんたも行くわよね?」
「いや、遠慮するよ」
「
「……あったけど、返事はしてない」
ため息混じりに答えて青いファイルブックを取り出し、報告書を丁寧にしまった。
千雨はむすっとしたが、わざとらしく明るい調子で言う。
「あたしはもう返事したわ。千晴と
「僕の気持ちは無視かい?」
あいかわらず勝手な千雨に苦笑する。無意識にため息がこぼれ、千晴は重い足取りで自分の机を経由してスマートフォンを手にし、事務所の入口へ向かう。
「いいじゃない。しばらく会ってないから気まずいって言いたいんでしょうけど、そんなの
「そう簡単に言わないでくれよ」
建物の外ヘ出るとぽつぽつと雨が降っていた。梅雨に入ったばかりの六月だった。
雨に濡れるのもかまわず、二人は同じ敷地内にある隣の家へ入っていく。高津探偵事務所と自宅は隣り合って建っていた。
「だいたい、観客なんて一人いれば十分だろ」
「想定するお客さんが二人一組からなのよ」
「じゃあ、僕はいらないじゃないか。千雨と万桜ちゃんだけで行ってきなよ」
玄関で靴を脱ぎ、ダイニングへとそろって入っていく。所長である父親が食卓で冷やし中華を食べていた。
向かいの椅子を引きながら千晴は言う。
「所長、机に報告書を置いておいたんで、あとで確認お願いします」
「ああ、ありがとう」
千雨は千晴の隣へ座り、台所から母親が二人分の冷やし中華を運んできてくれた。
「二人ともお疲れさま。今日は冷やし中華にしちゃった」
「今日も暑いものね、いただきます」
先に
かつて千晴が所属していた「劇団ルート66」の代表、円東
スマートフォンを食卓へ置き、遅れて千晴も食事を始める。
「いただきます」
すると父親がどこか心配そうに声をかけてきた。
「浮かない顔だな、千晴」
ぎくっとした千晴だったが「なんでもないよ」と返す。すぐに千雨が口を出した。
「実はね、父さん。劇団から来月やるリハーサルに観客として来てほしいって言われてるの。でも千晴ったら、気まずいからって既読スルーしてるのよ。せっかくあっちが来てって言ってるんだし、あたしは行くべきだと思ってるんだけど」
「リハーサルに観客とはどういうことだい?」
父の疑問に千雨は返す。
「二泊三日でやる体験型マーダーミステリーなのよ。だから観客がほしいってこと」
「へぇ、そういうことか。行けばいいじゃないか、千晴」
視線を送られて千晴は困惑する。台所では母親もちらちらとこちらを見ていた。
「でも、円東さんたちには全然会ってないし、僕はもうやめちゃった人間だから」
「だけど、マーダーミステリーなんだろう? 第四回後継者争いにちょうどいいじゃないか」
にこりと笑う父に千晴は頬を引きつらせ、千雨は目を輝かせた。
「それだわ! 一勝一敗の一引き分けだったわよね。どちらが先に犯人を当てられるか、勝負ってことにしましょうよ」
どうしても千雨は千晴を連れていきたいらしい。よけいなお世話だと言いたいが、気の弱い千晴は言葉を飲みこんで別のことを口にする。
「どうせ千雨が勝つよ」
「投げやりね、千晴。父さんの事務所、継ぎたくないの?」
高津探偵事務所では数ヶ月前から、後継者を決めるために争いが行われていた。所長である父親が作成した問題に挑む形式で、幼い頃からシャーロキアンな千雨が有利かと思われたが、千晴が一勝して一回は引き分けになっていた。とはいえ、千雨が生理二日目で調子が悪かったために勝てただけであり、千晴は自分の実力だとは思っていなかった。
「継ぐって言っても、まだまだ先のことだろ」
話の
千雨と父は顔を見合わせ、呆れたようにそれぞれ息をつく。
「悪くない話だと思うんだがな。ごちそうさま」
先に食事を終わらせた父が席を立ち、千雨は兄の説得を開始した。
「万桜ちゃんにいいところ見せなくていいの?」
「いいところって?」
「だから、先に犯人が分かったらかっこいいじゃない。お兄ちゃん大好きって言ってもらえるかもしれないわよ」
現在大学二年生になった妹のことを思い浮かべる。千雨が真っ黒なストレートロングヘアの長身美女であるのと対称的に、万桜は平均的な背丈で少年のようなさっぱりとしたショートヘアだ。ファッションもボーイッシュで中性的だが、ずっと昔から変わらない可愛い妹である。
「元々、万桜ちゃんは千雨より僕の方が好きみたいだけど」
千雨が目を鋭くして小さく舌打ちをする。
「今はそういう話をしてないのよ。だったら、もっといいことを教えてあげるわ」
「何?」
千晴が横目に見ると、千雨は何故かにやにやと口角を上げた。
「劇団に新しい子が入ったのよ。あんたのファンですっごく可愛い子なの」
「ファンって……僕はもう一年以上前に芸能界をやめたんだ」
「でも、一度会ってみたら? あんたの好きなタイプの子よ」
「つられないよ、そんなことで」
「ひかえめな感じで真面目で、おっぱいが大きい子でも?」
千晴の箸がゆっくりと動きを止める。無視することができなかった。
「千雨はその子と会ったことがあるのかい?」
単純な男だと思われたくないため、あえて真顔で問う。
「もちろん。先月、涼花さんを迎えに稽古場へ行った時に会ったわ」
千雨は看板俳優の
「本当に可愛かった?」
「ええ、保証するわ。おっぱいの大きさもね」
口車に乗せられたような気がするが、可愛い女性の豊満なバストを見ずにいられる男がいるだろうか。いや、ない。断じてありえない。
「分かった、そこまで言うなら信じよう」
「決まりね」
千雨が嬉しそうに微笑し、千晴は情けない自分にため息をついた。しかし、千雨に押し負けるのはいつものことでもあった。
父の皿を下げに来た母親がくすりと笑う。
「二泊三日なんでしょう? 三人でゆっくり羽根を伸ばしてらっしゃい」
千晴は思わず恥ずかしくなったが、千雨は明るくうなずいた。
「ええ、楽しんでくるから任せて」
「何をだよ」
ぽつりとツッコミを入れる千晴だが、二人の耳には届かなかったらしく反応はなかった。
千晴と千雨は双子だった。小中高と同じ学校へ通っていたのだが、高校時代に千雨が演劇部へ入ると言い出した。彼女
最初こそ演技をしたがっていた千雨だが、徐々に裏方の仕事に興味を抱き始めた。おもしろいことに千晴はその真逆で、表舞台へ立つことに夢中になった。
卒業後は別々になり、千晴は私立大学の演劇学科へ、千雨は国立の英文科へと進学した。
在学中に千晴は「劇団ルート66」のオーディションに合格し、俳優として本格的な活動を始めた。千雨は彼を応援するうちに劇団員たちと打ち解け、時に裏方のスタッフとして公演に
一年が経った頃、千晴に芸能事務所から声がかかった。それなりに名の知られた俳優が何人か所属する中堅だ。劇団でもっと経験を積みたかった千晴だが、芸能事務所はテレビ出演をメインに売り出したいという。迷う千晴の背中を押してくれたのが円東だ。
「ダメだったら戻ってこい。けど、やる前からダメだなんて言うなよ。実際にやってみなきゃ、どうなるかなんて分からないんだからさ」
その一言で千晴は事務所へ所属することを決めた。
背が高く整った顔立ちに
千晴は芸能界をやめて実家へ戻った。顔が知られているために、外へ出る時には必ず黒縁の伊達眼鏡をかけるようになった。
もう千晴が演技をすることなどないだろう。
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