第28話 二人の行く道 2
「ピアノは楽しい? 上岡君」
「楽しいよ、セックスと同じくらい」
俺の放った冗談に、向かいで高瀬先生がギュッと目を瞑って耐えている。
「そんな童貞みたいな反応してちゃ生徒に舐められるよ。適当にはいはいって言っときゃいいんだって」
「そうは言っても、その、えっと」
「動揺しすぎ」
冬目前の大切な二者面談だっていうのに、ついこの若い担任をからかってしまう。
俺自身のテンションが高いんだと思う。怠惰に慣れきっていた脳や筋肉がピアノを再開したことで急に活動的になって、毎日変に浮かれている。気を付けないとバカをやらかしそうで自分でも危なっかしい。
「ピアノの先生はさ、音大行けって」
「え?」
先生は目を丸くしてとぼけた声を出した。
「でも俺は早く働く方がいいんじゃないかって思ってる」
ピアノは楽しい。目が覚めてまずはピアノの蓋を開けてしまうくらいには、俺はピアノを欲している。毎日レッスンなんて言われてぎょっとしたけど、始めてみると一つも苦じゃなかった。
でもさすがに音大と言われた時は笑いそうになった。それで、松井先生が真面目に言っているんだと分かって困ってしまった。
一度手を止めた俺には無理だと返すと、松井先生は、そんなことはないときっぱりと否定した。
——昔よりもずっといい音が出てる。素晴らしい出会いがあったんでしょう?
まるで全てを知ってるみたいな口ぶりで松井先生は悠々と笑った。もしかしたら蓮と付き合ってからの俺の様子を誰かから聞いたのかもしれない。お喋りおばさんの口は止められないから、多分母さんだろうけど。
確かに以前弾いていた頃とは音の聞こえ方が違った。
かつては色や微かな感情の起伏を伴う程度で捉えていた音楽が、はっきりとした情景や覚えのある感動と重なって、まるで激流に放り込まれたみたいに全身を洗っていく。
音の配置や繋がりが心の移ろいとくっきりと重なって次々と切なさを引き出し、問題の答えが経験からすらすらと出てくるみたいに、間違いなく俺の話として曲を成立させていった。
音を生み出す感動は、蓮を抱きしめる瞬間によく似ている。自らを幸福にする源が今確かに腕の中に存在していると分かって、堪らず叫びそうになる。いや、時々叫んじゃってるか。
蓮といると音楽が、ピアノを弾くと蓮が俺の中に現れて、どちらも俺を特別な世界へと連れていく。
いくら弾いても弾き足りなかった。そして音を重ねれば重ねるほど蓮に会いたくて堪らなくなる。
「早く働くのは誰にとっていいことなの?」
「え?」
今度は俺の口からとぼけた声が出た。
優しく微笑む高瀬先生と対峙しつつ、頭の中では松井先生の声がする。
——自分にとって一番いいことが何かをよく考えてきて。
松井先生といい高瀬先生といい、教師という人はいつもこちらに考えさせる。子どもの俺はちょっとむっとしてしまうけど、大人になりたい俺が勇気を出して考えを発表する。
「早く大人になりたい」
自分にとっていいことかどうかは分からないが、最近はそればかり考える。学生っていうのは本当に不自由だ。
「早く大人になるとなにかあるの?」
「分からない。でも全ての責任がある。責任が自分にだけあるってことは、同じだけ自由もあるだろ?」
「そうとも言えるかもね」
先生が何度か頷いてくれたのを見て、俺も頷いた。
「だから早く自立したい」
ピアノを弾けるようになったことを父さんも母さんも喜んでくれた。もちろん姉さんも。
ピアノがあって蓮が居る、俺の人生はそれで十分幸せだ。ならもう大人になってしまってもいいんじゃないかと思う。蓮が学生でも俺が社会人なら、万が一蓮が家族と上手くいかなくても居場所になってやれる。
なんでそんな殊勝なことを考えてるかというと、この間の俺の誕生日に、「プレゼントを渡せない」と言って蓮に泣かれてしまったからだ。
溜め込んできた散髪代がほとんど尽きたらしい。
蓮はいつも自分の両親をいい人たちだと言うけど、高校生にもなった息子に、「欲しいものがあるからお金をください」と言わせるなんて想像しただけでもむかっ腹が立つ。
俺たちはまだ学生だし養われている身だけど、プライドだけは一丁前に備わっているんだから腹は立つ。
一緒に居られたら十分だと言ったけど、「ごめんね」と言った蓮が寂しそうだったのも理解はできる。
結局その日は蓮のおばあさんの具合が良くなくて来られなかった。
高校生にもなって誕生会なんて、ただ大人が酒を飲むための口実だ。梨沙はケーキを食べたら音楽番組が見たいと言ってさっさと帰っていったし、利久は受験勉強の真っただ中で、主役の俺が飯とケーキを利久の部屋に運んだ。
両家の親が盛り上がってパーティーの名目がどうでも良くなった頃、姉さんと二人で部屋に行き、ピアノとバイオリンで遊んだ。楽しかったけど、蓮に会いたかった。
社会人の彼氏は学生の恋人にお金を出させない。乱暴だけどそれでいい。俺が早く大人になって、蓮の不自由を悩んだりする必要のないものにできたらと思う。それでも蓮は気にするだろうけど。
「大学じゃなく、就職」
もちろんそれも一考すべきだと言うように、先生の両手が組まれる。
「だってまだやりたいことが思いつかないんだよ? 四年もあったら堕落しそうじゃない?」
「そんなことはないと思うけど、夏の面談ではお母さんも好きにしていいって言っていたしね」
そう、うちは有り難い放任主義。変な期待もない。
俺は学ぶことをそこそこ頑張れるだけだ。でも生きるためなら一生懸命に働くしかない。
「じゃあピアノを四年間学ぶのは? それも堕落しそう?」
「え、先生まで音大を勧めるつもり?」
「俺は音楽は門外漢だから、上岡君のピアノの先生に乗っかろうかなって思って」
ギョッとした俺に、先生はにこっと微笑んで首を傾けた。
「意外と無責任なこと言うんだね」
俺が眉をしかめると、先生は口元に手を当ててくすくすと肩を揺らした。
ふと、今の主題とは別の思考域で先生を眺めた。
口元の指先や、笑うたびに揺れるさりげなくセットされた髪を見つめてみた。
蓮と付き合うようになってから、男をそういう目線で見るようになった。
性的にとかじゃなくて、自分よりも蓮に似合う男かどうかを見ている。つまりライバルになり得るかどうかを。ちょっと自分でも意味は分からない。
俺はゲイじゃないから実際に男が好きな男がどう思うかは分からないけど、高瀬先生は少なくとも女子受けはいい見た目をしている。身長があってスタイルもいいし、顔も派手ではないけど悪くはない。ファッションだってシンプルだけど清潔感がある。ただ、そんな見た目にしては不自然なほど、この人には存在感がなかった。
こうしてそのつもりになってみないと目に留まらないくらいに。
得意なサッカーも相変わらず披露しようとしないらしく、前に助け舟を出したサッカー部の一年生に、この間また泣きつかれた。
俺は適当に前向きな返事をしたけど、先生にそのつもりがないなら何を言っても意味はない。
なんだかミステリアスだな、なんて考えていると、急に先生が背筋を伸ばした。
「俺ね」
「ん?」
余計なことを考えていたせいで不躾な返事になった。
先生が真面目なアナウンサーみたいな顔でこっちに向き直るもんだから、俺もつられて背筋を伸ばす。
「俺、自分の教え子が将来ピアニストになって、学生時代の恩師としてインタビューを受けるのが夢なんだ」
一瞬頭にハテナが浮かんで、「そんなピンポイントな夢があるかよ!」と声を大にして突っ込むと、言っている途中からすでに笑いそうになっていた高瀬先生は肩を震わせて机に突っ伏した。
「なんなんだよ今の!」
「ごめん」
ミステリアスというか、ちょっと変な人なのかな。でも笑っているってことは先生にも変なことを言った自覚はあるということだ。多分。
もたもたと顔を上げて笑いをこらえる先生に、説明を求める圧を掛ける。
「んでなに今の」
先生はまた耐えるように目を瞑って唇を摘んだ。
「中学の時の先生がさ、俺がサッカーを辞めるって伝えた時に同じことを言って引き留めたんだよね」
「それってもしかして前に好きだって言ってた先生?」
「そう」
どうやら先生は変な先生に憧れていたらしい。
「先生はそれ言われてサッカー続けたの?」
「辞めた」
「じゃあなんで俺に言ったんだよ!」
「分からない」
「はあ?!」
再び笑い出した先生に釣られて俺も笑ってしまった。
二人の笑いが収まるまで少し掛かって、笑い疲れたのか、はーっと息を吐いた先生が続けた。
「ピアノを弾いてる上岡君はいつもと全然違ったよ」
校内は静かで、同じように面談をしているんだろう隣のクラスから微かな会話が聞こえてくる。
みんなはどんな未来を語っているんだろう。俺みたいに早く大人になりたい、なんて漠然としたことは言っていないはずだ。
「いつもと違ったって言われても、曖昧だな」
「かっこよかった」
「そりゃどーも」
蓮もかっこよかったって言ってくれた。
俺の特技はピアノ、でもそれで食べていくなんて到底無理だ。でもでも、ピアニストになる以外にも特技を活かせる職業はあるかもしれない。幼稚園の先生とか、音楽教師としてなら蓮と同じ道にも進める。
音大に行けば、今は思いつきもしないような未来が見えてくるのかな。
「先生は、難しい夢でも追いかけた方がいいと思う?」
「挑戦したい気持ちがあるなら」
「……」
黙る俺を先生は優しく笑って、「追いかけたくても突然そうできなくなる場合もあるから」と付け足した。
先生の言葉で由利奈を思い出した。
才能が無いなんて自分では言っていたけど、全国の常連だった。
「夢が潰えるってどれくらい辛いのかな」
「とても辛いことだと思うよ、後になってからも色々と可能性を考えてしまったりしてね」
潜めるようになった声色から、先生にも身に覚えがあるようだと感じた。先生はサッカーだろうか。
蓮が家出をしたきっかけも、ぐずついた気持ちを吹っ切りたかったと言っていた。理由は一つ二つではなさそうだったけど、サッカーを辞めるということも含まれてはいただろう。
俺は後悔するだろうか、一番の特技だったのになんでやらなかったんだろうって。
このまま社会人になったとして、俺はただのちょっとピアノが弾けるだけの男だ。それだけの男で、夢を仕事にする蓮のそばに居続ける自信は保てるだろうか。息抜きにピアノを弾くだけで、俺とピアノの関係は十分と言える?
「たくさん考えて、どうしてもできないと思ったんならきっといつかは諦められる。でも最悪だけを想定して逃げたなら、きっとずっと忘れられない」
先生はやっぱりエスパーなのかもな。眼差しに覚えがある。姉さんも大切なことを言うときはこうして目を逸らさない。
「そう、かもね」
松井先生は自分の母校を勧めるだろう。蓮とは離れることになるけど、間を取ればお互い片道一時間ほどで会える距離だ。それでも良くて月に数回、忙しい時はそれも叶わない。
そんな四年間で蓮は俺を忘れてしまわないかな。俺は蓮のことばかり考えてしまいそうだ。ピアノなんて手に付くんだろうか。
「でもね、上岡君」
不安が張り付いたままの顔を上げて先生と向き合う。
「どんな道を選んでも、前向きに生きていればちゃんと幸せがやってくるものだよ、時には潰えた夢なんかよりもずっとずっと大きいと思える幸せが」
「……そうなの?」
「うん!」
先生もまさか俺が恋人との将来を不安に思っているとは考えていないだろう。音大を選んでも何者にもなれないんじゃないかと不安に感じてる、そう考えてるはずだ。
でも先生の言葉は救いに満ちている。
かつて自分を引き留めることのなかった言葉を先生は俺に与えた。先生はサッカーは続けなかったけど、その言葉をくれた人に憧れて教師になった。
「先生は今幸せってこと?」
「まあそうだね」
「ふーん」
高瀬先生はいつもちょっと疲れているように見える。先生はクラスでは関田と並ぶいじられキャラだし、きっと仕事も忙しいんだと思う。
でも先生の授業は分かりやすいし、数学以外のことを聞いても難なく答えてくれる。こうして進路と言うより人生相談に近い話にもいつも前向きな言葉をくれるから、生徒からも好かれている。
これが蓮の憧れる、『見守ってくれる大人』ってやつなのかもな。
「先生」
「うん?」
「先生はさ、ちゃんとみんなから好かれてるからね」
急に話の趣きが変わって、先生の目が丸くなる。
「みんな先生のこといじってるけど、ちゃんと信頼してるから大丈夫だよ」
先生の眉間に皺が寄って、驚きから困惑に表情が変化していく。
「……泣かせようとしてる?」
「いいや。まあ別に泣いてもいいけど」
「凄く、嬉しいよ」
照れた顔になった先生は、涙こそ見せなかったけど、いつもの疲れた笑顔とは違って本当に嬉しそうだ。
「音大ってどうやって入るのかなー」
言いながら、姉さんか松井先生に聞けばいいんだと気がついたが、高瀬先生は慌ててペンを取った。
「調べてみるよ!」
「ありがとう、自分でも調べる」
「うん!」
今から本当に間に合うのかは分からない。でも松井先生はやる気だし、俺ができるのは今のところピアノしかない。
蓮は応援してくれるだろうけど、離れるのはやっぱり嫌だな。
「そういえば、上岡君の成績はそこそこから脱出したね」
「恋人が教えるのがうまくてさ」
「ああなるほどね、いい影響だ」
あはっと笑った先生に、俺は再び衝動が抑えられなかった。
「俺はお返しにセックスで頑張ってる」
「うわわわ!!」
慌てて耳を塞いだ先生に、噴き出すのを堪えられなかった。
「俺、先生のこと母さんと並べてるから」
先生は耳から手を離して、椅子から立った俺を見上げた。
「お母さん?」
「俺の好きな大人の分布図の話」
先生は少し考えて、ついに目をうるうるとさせ始めた。
「さよなら先生」
「さ、さようなら!」
机に顔を向けたままの先生を置いて教室を後にした。
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