第29話 運命の人



 最近、蓮は少し無口だ。

 音大を受けると伝えると嬉しそうに笑ってはくれたけど、「応援してる、頑張って」と言われただけで、どこのなんという大学かとは聞かれなかった。


 電車だと二時間くらいで、駅の近くに部屋を探すつもりでいるとか。車なら二時間もかからないから免許を取って会いに行こうと思ってるとか。蓮はどこら辺で一人暮らしをするのかとか。どれくらいの頻度で会えるかとか。そういう話をしようと思っていたけど、「どんな試験があるの?」と聞かれて、まずは受からなきゃそんな話にはなんの意味もないと気がついた。

 先走った自分に心の中でバカと突っ込んで、試験内容の話をした。

 普通の大学の入試とはもちろん違う。学力を測る試験ももちろんあるけど、楽譜を読むための基礎知識の筆記もあるし、当然ピアノの実技もある。

 曲を聴いて楽譜に起こす試験もあるかもと説明すると、蓮は驚いた声を上げたあと、「良は記憶力がいいから大丈夫だね」と笑窪を見せてくれた。



 冬休みが近づくにつれ、放課後を一緒に過ごす日は大きく減った。減ったというか無くなったと言っていい。自分も受験の準備をしていかなきゃいけないからと言われて、確かに俺はピアノを弾くし、そんな中で勉強なんてできないもんなと頷くしかない。それともそれは表向きで、このまえ蓮のバス代を俺が出そうとしたから、それを気にしているのかもしれない。


 母さんがくれるデート代は余っていた。でもそれで蓮の気持ちを軽くすることはできない。律儀なところだってもう好きになってしまった。


 どうすれば蓮の負担にならずに一緒に過ごせるのかが思い浮かばず、俺は慌てていた。

 お金なんて無くったって学生なんだから時間だけはたくさんあるだろと言いたいところだけど、三年もピアノを辞めていたくせに音大を受けることにしたせいで、俺の方にゆとりがない。

 一体どれくらい準備時間が必要なのかは想像がつかなかった。姉さんを参考にすれば、俺は受ける前から落ちていると言っていい。

 でも蓮と一緒に過ごしたい。

 高校生活は一年残っているのに、毎日顔が見られるのはその一年しかないのに、急にできた距離感の縮め方が分からなくて焦燥感ばかり募る。多分その焦りは受験に向けるべきなんだろうけど。


 気がつくと、週末は会えるかと訊ねるのにも勇気が必要になっていた。

 断られるのも断らせるのも胸が痛んだ。

 セックスがしたいとかじゃなくて、できたことができなくなっているのが怖い。

 状況はこれからも変わっていく一方なんだから、もっと二人のこれからについて話さないといけない気がする。でもその未来の大部分を占める社会人としての自分について、俺は進学先を決めただけで全く想像はついていない。


 家族は喜んでくれた。利久や梨沙も。由利奈だって。

 クラスメイトは、「音大とか金持ちだな」とか、「すげえピアニストになれよ」とか、「音楽教師は女がいい」とか、なんかもううるせえことしか言わない。


 みんな未来には何かがあると信じている。

 実際なにかしらには繋がるんだろう。でも蓮と出会えたから俺はピアノを再開した。これからも蓮といるために自分にも何かが欲しいと音大を受けることを決めたのに、今は距離を感じている。しょうがないと呟きながら、もっと必死に足掻かないと繋がっていられないような気もしている。



 レクリエーションルームに行くお昼休みだけが変わらない二人の時間だ。鍵を閉めてキスをして、舌が絡んでくるとホッとする。ずっとくっ付いていたいけど、ピアノを弾いてと言われるとそれも嬉しい。

 ただ蓮は痩せた。最近はいつも昼食を食べない。


「お腹が空いたからお昼前に食べちゃったんだ」


 そう言われて頷きながら、心の中で首を傾げる。

 蓮が早弁なんてするかな? しかもそんなに毎日。でもそういわれたら、「そうなんだ」と返すしかない。

 小さな気掛かりが喉に詰まって、飲み込むことも吐き出すこともできない。

 俺たちの関係に変化が起こっているのは明らかなのに、それが何かを確かめる勇気が出ない。

 だって幸せだった、ほんのつい最近までは。今だって一緒に居れば幸せだ。その時間が減ってるだけだ。それで、これからも減っていくんだよな……。



 ある日、思い切ってサンドイッチを作った。サーモンとクリームチーズのベーグルサンドを二つ。

 二人で初めて行ったトトールで食べたやつだと蓮も覚えていてくれて、嬉しそうにぺろっと食べた。あの日と同じように美味しい美味しいと言って。

 でも調子に乗った俺が、次の日もその次の日もサンドイッチを作っていくと、朝の練習はできているのかと心配されて、ベーグルサンドにハマってると言い訳したけど、もう自分の分は作って来ないでいいからねと言われてしまった。



 十二月に入って、どこもかしこもクリスマスに色付いている。イブになれば終業式で、冬休みが始まる。

 ハマってると言った手前食べ続けているベーグルサンドに齧りつきながら、窓に寄り掛かって下を眺める蓮の襟足を見つめる。

 つい最近までは何も考えずにあの首にキスをしていたはずだ。でも今は少し遠い。


 蓮、夏休みは楽しかったよな。冬休みはどうする?

 初めてのクリスマスだよ。プレゼントなんて要らないよ。てかほんと、クリスマスなんかどうでもよくてさ、今なに考えてる?





 ***





 良のピアノがもたらす感動は、俺の不安の器も一緒に波立たせる。


「綺麗な曲だね」

 温風の当たる位置で絨毯に胡座を掻いて、絞った電子ピアノの音に耳を澄ませる。

「タランテラ、毒蜘蛛に刺された人が踊る曲」

「え、そうなんだ」

「毒を体外に出すために踊るとか、毒で苦しんでる人が踊り狂ってるようにみえるとか、なんかそんな怖い話を先生がしてた気がする」

「ええ?」

 ギョッとする俺を笑う良の両手が一層速く強く鍵盤を打って、でも音量が小さいから鍵盤が跳ねる音ばかりが聞こえてくる。


 揺れる良の背中が遠くに感じる。

 俺にだけ向いていた興味がピアノへと傾いて、このまま自分が居ても居なくてもいいような存在になったらどうしよう。そんな風にいじけてしまいそうになる。

「…………」

 膝を抱え直し、ぐうと鳴る腹の虫を押さえつける。

 そんなのしょうがない。変わっていくことは良にだって止められない。怖がっているのは自分が良に見合うような人間じゃないからだ。

 俺に特別なものは一つもない。むしろ至らないことばかり。小さい頃からずっとそうだった。

 膝の間に鼻を埋めていると、体の中にある井戸の底から懐かしい気持ちが湧き上がってくる。中学一年のゴールデンウィーク、ためらうことなく北海道へと飛び出していったあの衝動。


「良、あと十分」


 這って良のところに向かうと、良がピアノの蓋を閉めて丸椅子から降りる。

 最近はハグをしながらお昼休みの終わりを待つ。

 目を瞑って良の体にすっぽりと埋もれ、口の中で良の舌先が八重歯をなぞっているのを感じる。

 抜いてしまおうと思っていた八重歯が、良の目を惹いた瞬間から大切な自分の一部として落ち着いた。

 自分ではあることさえ忘れてしまう笑窪も、頬を彷徨う指先のためならいくらでも口角を上げていられた。

 心地いい体温、隙間なく触れ合えることにホッとする。

 それにしても最近の良は少し無口だ。

 ねえ良、今なに考えてる?







「蓮、起きてるかい」

「うん、まだ九時だよおばあちゃん」

 問題集から顔を上げて部屋の境の襖を開けると、寝間着姿のおばあちゃんが正座で俺を迎えた。

 壁に掛かっている日めくりカレンダーが目に入り、理由を察して自分も正座になった。

「はい、メリークリスマス」

 潜めた声がお祝いを告げ、俺の手にポチ袋を握らせた。

 俺にお小遣いが無くなってから、毎年十二月の中頃に貰えるおばあちゃんからの秘密のお小遣い。俺の貴重な現金収入。

「毎年どうもありがとう」

「いいんだよ、いい加減毎月の小遣いくらいやれって言ってるんだけどね」

 つんとした口元に細い皺が寄って、おばあちゃんの指先が寝間着に付いた小さなゴミを払った。


 今年の九月のおばあちゃんの誕生日に家族から贈った、胸に金木犀の刺繍の入った薄紫色の寝間着。

 小遣いの無い俺には適用されないけど、藍は千円を引かれたようで、欲しいものがあったらしい藍は大きな声で母さんに文句を言っていた。

 幸いおばあちゃんは居なかったけど、二人のやり取りを部屋の中で聞きながら、何も感じないようにするのに苦労した。その時にはすでに俺のお金は底が見え始めていたから。


「大丈夫だよ、言えば何でも買ってくれるんだから」

 笑顔になりたかったけど、可動域が制限されているみたいに筋肉が硬い。

「そういうもんじゃないだろ、もう高校生なんだから色々とお金は必要だわ」

 おばあちゃんの細い腕が頭をよしよしと撫でてくれた。

 きっとそれは両親も分かってると思うよおばあちゃん。なんたって二人は高校教師だしね。

「大事に使うね」

「すぐお年玉もあるんだから、ぱーっと使ったらいいわ。おやすみ」

 襖の向こうで電気の消える音を聞いてから、机に戻ってポチ袋を眺めた。


 ぱーっとか。


 毎年もらう時には少し後ろめたい気持ちになる。今年は特に重い。これを受け取ることをよしとするなら、良とのことだってこれまで通りでいいんじゃないかという気持ちがする。


「はぁ」


 言い訳を思いつくのも自分なら、それにため息を吐くのも自分だ。

 数え切れない溜め息がどこへも行かず自分の周りに溜まっている。生暖かく、息苦しい。

 このお金でクリスマスプレゼントを買っても良は喜ばないだろうな、すでにお金が無いと知られている。


 最近また親に新しい嘘を吐いている。

 売店の冬季限定のサンドイッチにハマってると言って、毎日お昼代を貰っている。もちろん食べずにお金を貯めている。

 こんなお金を貯めてどうするつもりなのかは自分でも分からない。

 隠れてアルバイトでもしようかと思ったけど、お金を持たせないよう小遣いを止められている罰に逆らううえ、保護者の同意書まで偽造すれば、バレなかったとしても俺はこの家で顔を上げてはいられない。


「はぁ」


 近頃は何もかもが罪に感じる。

 ちょろまかしていた散髪代も、恐らく以前は反抗心があったから気にならなかった。そのお金で良とデートをすることも、初恋に浮かれていたから気にならなかった。

 今頃になって不正を咎めているのは、反抗心が落ち着き、初恋の幸福に慣れ、その二つに埋もれていた『両親に認められた大人になりたい』という願望を思い出してしまったからだ。

 おばあちゃんがああ言っても二人はお金を渡す決断をしなかった。だからまだ俺には足りないところがあるんだろう。

 しょうがない。そう言い聞かせながら、それでもやっぱりショックだ。


 先月は良の誕生日を祝えなかった。

 一緒に過ごせたらそれでいいからと誕生会に誘われたけど、そこには梨沙ちゃんと利久先輩、そして二人のご両親も来ると聞いて怖気付いた。

 おめでとうと歌って、みんながプレゼントを持ち寄る中、手ぶらでご馳走やケーキは食べられる気がしなかった。だから嘘を吐いた。

 おばあちゃんの調子がよくなくて、両親に予定があるから俺は家に居なきゃいけないと。

 レクリエーションルームで良に謝って、キスをしてベルトに手を掛けると、今日は止めようと抱きしめられた。

 良に嘘を吐いて、誕生日にあげられるものは体しかない。それさえも遠慮されて、俺はまた自分を消したくなった。

 俺が泣き出すと、良は大慌てで俺の背中を摩って、おばあちゃんは元気になるよと励ましてくれた。

 そして恋人の誕生日を自室で一人横たわって過ごした。

 いつでもあたたかい気がしていた畳が冷たくて、食い意地の張っていた中学時代を沈んだ気持ちで思い出す。

 一瞬、新作が出るたびにマックに誘ってきた関田のことも恨みそうになって、ごろごろと転がって頭の中を掻き回してなんとか踏み止まった。


 これも罰だろうか、それとも嘘の代償?


 生まれてから両親に掛けてきた心配事の数々思えば、五年続く罰を長いなどと逆ギレはできない。そんな風に思うくせに、隠れて付き合っている恋人にプレゼントすらできない自分に涙している。なんて滑稽なんだろう。

 現状は実に俺に相応しい気がするけど、良にはただ申し訳がない。


 クリスマスはどうしよう。友達とパーティをすると言えば幾らかはもらえるだろうか。でもそれで何を買う? 嘘で手に入れたお金でプレゼントを買って良に渡すのか? でも俺は嘘からしかお金を生み出せない。


 憂鬱な気持ちさえ鬱陶しい。自業自得だ。変わらず俺は、疎ましい存在のまま。






 目を覚ますと部屋はまだ暗く冷え切っていた。

 天井の釣り照明はじっとして、庭木に集る雀の声も聞こえない。静かな夜。


 俺は夜に目を覚ました、ただそれだけ。

 でもその夜は、俺にある考えをもたらした。



 俺は、良のきっかけなのかも。



 前にも同じことを思った。俺のお陰でピアノがまた弾きたくなったと良に言ってもらえて。

 あの時はただ嬉しかったけど、今は別の考えが頭を過ぎる。



 自分の役目はもう終わったのかも。



 立ち止まっていた良の背中を押すために俺は良と出会ったのかもしれない。

 俺のサッカーにそれはなかった。そこまでの才能がなかったから、神様は俺にそんな運命を与えなかったんだと思う。代わりに俺を良の運命にしたんじゃないだろうか。

 関田を感染症に罹らせ俺たちを出会わせ、俺の苦手な雷雨を降らせて、あんな風に関係を結ばせたんじゃないのかな。


 俺は北海道の広大で美しい景色を見て大人になることに希望を抱いたけど、良は俺と付き合うことでピアノへの情熱を取り戻していった。


 きっとずっと弾きたかったんだ。


 違和感はあった。鍵盤に手を伸ばした良の手が震えて、ぽつっと涙をこぼした瞬間の衝撃は、今思い出しても悲鳴を上げてしまいそうになる。

 どう考えても俺が催促したせいで、あまりの自分の愚かさに、その場で消えてなくなりたかった。

 俺は良の音楽を外側で聴くことしかできない。音楽祭も隣に居ただけ。

 良がどういう未来を思い描いて音大進学を決めたのかを俺は知らない。

 大学に行って、同じ夢を追いかける人にたくさん出会って、同じ苦労をして、俺には分からない深度で音楽を語り合う。

 会うたびに変わっていく良に、きっと俺は寂しく感じてしまうだろう。そしてそれを考えないようにする。距離があるからその試みは上手くいくはずだ。そして少しずつ、その距離に慣れていく。


 俺は良の情熱の呼び水だった。

 ああ、きっとそうだ。だから俺はゲイで良はそうじゃないんだ。


 良のお母さんは俺たちが幸せなら構わないと言ってくれたけど、俺は一生恋人だ。

 俺はゲイだからそれでいい、でも良は違う。

 良は素敵な人だ、きっとこれからいくらだって出会いがある。お母さんはいいお姑さんになるだろうし、いいおばあちゃんになる。

 素敵なお嫁さんと可愛い孫の話をしながら美味しいケーキとお茶を囲んだら、とても楽しいんじゃないのかな。



「……うっ……うぅ……」


 冷えた夜が俺の嗚咽を吸い取っていく。


 良かった。

 見崎さんのときのようにただすれ違わなかった。ちゃんと良の運命になれた。それで満足するべきだ。

 これ以上俺がぐずぐずとそばにいたら、良が受験に失敗してしまうかもしれない。だって俺は良がピアノよりも自分を選んでくれることを喜んでしまう。


 お金も尽きた、受験勉強も始まってる。

 嘘は辛いし、大人になるにはまだまだ時間がかかる。

 元の人生に戻らなきゃ。取り返しのつかないことになる前に。

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