第27話 二人の行く道 1
十一月に入って雨が続いていた。
寒くて日中でも薄暗く、引きずられるように気分も落ち込んで、背中も丸くなってしまう。
活動的だった季節が終わっていく。日照時間が減って、あんなに強かった日差しも当たれば頬を温める程度。色づいた木の葉も雨に打たれて千切れて落ちて、大地の肥しとなるためにただ分解をまつばかりだ。
最近、北海道を夢に見る。見たことのない秋の北海道。
目覚めを期待させる白い光に満ちた春の大地とは違い、やがてくる冬に備えて実りをかき集めるせわしい気配。赤く染まった山々も燃え尽きて、高いところから始まった積雪が、もうひと月もかからず低地も白く埋めていく。
どうしたんだろう。
また消えてしまいたくなっているのかな。
憂鬱な雨がふつと止んだ週末、良のピアノの先生が指導する生徒の発表会があった。
「自分は出ないけど」と前置きした良に誘われて、俺も一緒に観に行くことにした。
ピアノの発表会を見るのが初めてだった俺は、第一部の小さい子たちの演奏でいきなり感涙してしまった。
ただじっと何かを凝視していた頃の俺と同じ年頃の子どもたちが、きちんとお辞儀をして一人で大きなピアノを弾いている。
ついさっきロビーでジュースが飲みたいとひっくり返っていた男の子がロボットみたいな動きで舞台に登場し、全体にささやかな笑いが起こった。が、俺はきゅうっと胃が縮むような気持ちになって、思わず両手で祈るポーズになってしまった。
温かな拍手に励まされた男の子は小さな両手を鍵盤に置くと、力強くきらきら星を弾き始めた。
速くなったり音が一つ多かったり、間違えて戻ったりしながら、それでも最後まで弾き終わると、満足そうに頷いて椅子から降り、お辞儀をして舞台袖へ帰っていった。
年齢が上がるのと一緒に演奏時間も長くなり、曲の難易度も上がっていった。
高学年になると、もはや俺にはプロと何が違うのか分からないほどだった。
感動しきりの俺を良が笑うのが何度が聞こえた。
胸いっぱいの第一部が終わって、中高生の演奏の前に、アンサンブルの二部が始まった。
アナウンスが掛かって舞台に照明が戻ると、バイオリンを持った女性が立っていた。
「あれ? 姉さん」
隣で椅子がきしんで、驚いた良がプログラムに目を落とす。
「ゲスト二人の特別演奏って、まさか……」
呟く良の横で、俺は初めて見る本物のお姉さんをよくよく眺めた。
ステージに現れた良のお姉さんは良に似て背が高く、立ち姿が女優さんみたいに美しい。
艶のある黒髪が肩にかかり、スリットの入ったタイトな黒いドレスがキラキラと白い光を跳ね返している。
前の方で女の子達が「真理さん!」と叫んで、お姉さんが手を振ると黄色い声が上がった。
『良一、来て』
マイクでお姉さんが良を呼ぶ。向こうで良のお父さんとお母さんも、「行っておいで」と良を促した。
どうやらサプライズで演奏が組まれていたらしい。
「急にかよ」と、良は困った顔を俺に向けたが、あちこちから拍手が起こって、俺も驚いてはいたけど、「頑張ってきて」と肩を叩いた。
ステージに向かって降りていく良をドレスアップした子どもたちがわくわくした目で見上げている。
見知った顔もいるのか、「頑張って!」と掛かった声に良が手を上げて応えている。
舞台に上がった良がぺこっとお辞儀をすると一際拍手が大きく鳴り、俺も手を打った。
舞台袖から何かを言われたらしく、良の長い腕がピアノの上に置かれたマイクに伸びた。
『えーと、上岡良一と言います。そこでバイオリンを持ってるのは俺の姉さんの真理です。俺は一度ピアノを辞めたんですが、また松井先生にお世話になることにしました。よろしくお願いします』
ホールに響く良の声に、鼻がむずむずする。
『あとはーえーとー……ああもう! ちゃんと言っておいてよ先生! もうちょっとかっこいい服着てくるからさ!』
自己紹介は急に言葉が崩れて文句に変わり、あちこちで笑いが起こった。
良はマイクを置くと、お姉さんと何かを確認している。
頷き合って幾つか音を合わせた後、演奏が始まった。
「良一」
ロビーの立ちテーブルでホットコーヒーを啜っていた俺たちは、良を呼ぶ声に揃って振り返った。
「あれ? なんで由利奈がいんの」
驚いた良が告げた名前を聞いて、直ぐに彼女が初めて良と行ったトトールで出くわした良の元彼女だと分かった。
彼女はあの時と同じ彼氏と来ていて、そしてやっぱりあの時と同じように不機嫌そうな顔をしていた。
「真理さんが弾くって聞いて来たのよ。そしたら良一が出てきた」
どうしてだろう、好ましい感情の声色ではない。
「おたくの彼女なんで怒ってんの?」
良が横にいる彼氏に尋ねると、人の良さそうな彼氏は苦笑いで肩を上げた。
「また始めたってのは梨沙から聞いてたけどさ」
「そ、よろしくねー」
良はいつもよりもゆるい調子で、彼女の明らかに剣のある口調をやり過ごす。
原因は分からないけど、感じがいいとは言えない相手におちょくるような口調はあまりよくないんじゃない? なんて思いつつ、俺は黙って見ているしかない。
案の定、鋭く目を細めた由利奈さんに、横にいる俺がヒヤッとなった。
「ほとんど毎日レッスンしてるって聞いたけど?」
「んー、松井先生が来いっていうからさ」
毎日あんなに嬉しそうにピアノを弾いているくせに、『しょうがなく感』を出している良に笑ってしまいそうになる。
彼女にはさっきの良の演奏はどう聴こえたんだろう。ピアノしか繋がりがない二人だったわけだから、恐らく良がピアノを弾く姿が素敵だと思ったから付き合ってみたんだろうし、付き合ってみたら一切ピアノを弾かなくなっていた良にがっかりして別れたんだろう。
俺にはピアノのない良も素敵だったんだけどな。どうしてそんなに不機嫌そうに良を見てるんだろう。
「音大受けるってのはホントなの?」
彼女の言葉に、良が放つ緩い空気が動きを止めた。
「…………」
俺はできるだけ気配を消して、黙ってしまった良を後ろから窺った。
良の肩が上がって下がり、ため息を吐いたのが分かった。
「松井先生が戻って来るならそのつもりで取り組めって言っただけだよ」
良の表情は見ることができない。ただ声は真夜中の会話のようにぐっと潜められた。
「それで戻ったってことは、そういうことなんじゃないの?」
「それは、まだ決めてない」
音大。
そういえば最近は将来の話を聞いていなかった。
パティシエを諦めたことは分かっていたけど、漠然と良もどこかの大学に行くんだろうと思っていた。
音大か、音大ってどこにあるんだろう。近くにあるとは聞いたことがない。
スマホで調べたい衝動に駆られながら、二人の会話を彼女の彼と同じような傍観のスタンスで眺める。
「いいわねお金持ちは。こっちは小さい頃からずうっと続けても大学には行かせてもらえないってのに」
「え、由利奈、音大目指してるって言ってただろ」
驚いた良に、由利奈さんは首を横に振った。
「兄さん二人が院まで行っちゃって、私の音大に回せるお金が残んなかったの」
彼女の回答にその場の空気がすっと青く沈んだ。
彼氏が由利奈さんの隣に立ち、そっと背中に手を添える。彼女もその腕に頼るように頭を傾けた。
二人が恋人同士らしい雰囲気を醸して、俺の手は自然と後ろに隠れた。
「まあそこまでの才能はないって分かってたから、私も了承したんだけどね」
由利奈さんの言葉は柔らかな口調に変わったけど、いつもはお喋りな良もなんと声を掛けていいのか分からないようだった。
珍しく丸い背中を俺はただじっとして見守る。
「行きなさいよ、才能もお金もあるんだから」
彼女の眼差しから、それが嫉妬などではなく、才能とチャンスを持つ良を後押しするためだと分かった。
やっぱり良には才能があるんだ。
お姉さんとのアンサンブルを聞いて、ただ涙が出てきた。
肺に詰まった空気と身体中の水分を同時に震わせるような二色の音色が互いを支え合うように重なって、調べが引き起こす感動だけでなく、この姉弟が互いを信頼し合って過ごしてきた歳月と強い繋がりをはっきりと感じ取ることができた。
俺と藍の間にはない絆。
中学の時に俺が藍を避けたせいで完全に失われてしまったそれが、簡単には切れない鎖のように確かにあの二人にはあると断言できた。そして、目の前にいる二人にも。
ピアノに多くの時間を割いてきた人間だけが持っている感性が、良のピアノには未来があると言っている。きっと良の先生も分かっているんだろう。だからあんなにレッスンが多かったんだ。そして良もそれが辛そうではなかった。好きなことはいくらやったって楽しいんだと良を見ていたら理解できた。俺にはそんなものはない。
頭皮がぞわぞわする。
良の後ろ姿を見ながら、今この場に自分だけが不要なのではないかという感覚になる。自分の姿をこの場から消してしまう想像をする。大きな消しゴムを使ってぐいぐいと。
後ろで握り合った指先が冷たい。
空は青く晴れているのに、俺の気持ちは日暮れよりも早く落ち込んでいく。
沈黙が気まずさを飽和させた頃、良が、「考えてみるよ」と呟いた。
「ただいま」
帰宅してリビングに入ると、エプロン姿の母さんがテレビから目を離さずに、「おかえり!」と大きな声を出した。
画面の向こうで歓声がうわっと上がり、母さんは拳を二つともギュッと握った。
男子の日本代表のバレーボールを観戦しているらしい。
何とかいうオポジットの寡黙な選手が母さんの推しだけど、俺はなぜかいつもその人の名前を忘れてしまう。
俺は同じポジションならもう一人の元気な人が好きだし、一番ならキャプテンの人が好き。言わないけど。
父さんがキッチンから顔を出して、「もうすぐご飯だから手を洗っておいで」と、しゃもじを持った手で洗面所を差した。
「うん」
部屋にいたおばあちゃんとも「ただいま」と「おかえり」を交わして、上着をハンガーに掛けた。
藍は部屋かなと階段を見上げてから洗面所に入ると、浴室の電気が付いていた。
「だれ」
響く声が聞こえて、「俺、手洗わせてね」と返事を返すと、「あー」と感心の失われた声とお湯が跳ねる音が立つ。
鏡に映る自分の顔がやけに青白い。手を洗うついでに熱いお湯で顔を洗った。
発表会は夕食の時間に間に合うよう第三部の途中で退席した。もともとその予定だった。
良は、「俺も帰ろうかな」と言ったけど、「最後まで居て」と自分だけでホールを後にした。
濡れた顔はさっきよりも酷くなり、タオルを押し当てて柔軟剤の匂いを嗅ぎながら目を瞑る。
音大について良は何も言わなかったし、俺も聞かなかった。
由利奈さんの口から音大という言葉が出て俺の頭に真っ先に浮かんだのは、それがどれくらい遠い場所にあるのかということだった。
大学が遠くなら、俺が前に想像したよりも会う頻度は少なくなる。俺が考えてしまうのはそこだった。自分と良の関係についてだけ。だから無口になるしかなかった。
近頃、俺といると良はピアノに没頭できないんじゃないかと考える。弾きながらずっと話しかけてくれるし、最終的には俺のところに来て服を脱がしにかかる。俺もそれを待っているし、蓋も閉めずに放り出されたピアノを見ながらキスをされていると、ばかみたいだけどちょっとだけ特別な気持ちになれた。
濡れた髪の束を指先ですりつぶす。
音楽祭の時は一人になりたいと言われた。
弾けずに泣いてしまった良の姿を鮮明に記憶していた俺は、伴奏を引き受けたことに驚いたけど、それくらい弾きたいんだと思うと胸が痛んだ。
「大丈夫だから」と言われて、一人で向き合いたいんだろうと言われた通りにした。
でもある日、廊下を一人で歩く良を見つけて追いかけたら、女子生徒と並んで教室の窓辺で笑い合っていた。
二人の両手がトコトコと窓辺の木を打ち、音はぴたりと揃っていた。
俺には聴こえない音楽が二人の間に流れているんだと分かった。
弾けたのは蓮のお陰だと言われたけど、俺は関田に髪を切ってもらっていたことを知られて良を不安にさせただけで、良が弾けたのはクラスメイトがたくさんのハートで励ましてあげたからだと思う。
俺と良の間に音楽はない。正確には、俺にはない。
音大の可能性を聞いて、良と会えなくなってしまうことを一番に気にしたことも問題だけど、致命的なのはそこだと思う。
洗面所のドアを閉めて、相変わらずテレビにかじりついている母さんをちょっとだけ笑って夕ご飯の準備を手伝う。
「これ持って行っていい?」
「ああありがとう」
今日は生姜焼きだ、美味しそう。
「母さんできたよ」
父さんの呼ぶ声に、「いいところだから先食べてて!」と母さんが勢いのいい返事を返す。
どうやら試合はかなり拮抗しているらしい。
スウェット姿の藍がお風呂場から出てきて、父さんに言われてめんどくさそうにおばあちゃんを呼びに行く。
「いけー!!」
母さんの声にテレビに目をやると、画面に映ったキャプテンが強烈なサービスエースを決めて、こっそり母さんと同じく拳を握った。
「さ、食べよう」
「いただきます」
俺に課された罰について思い出してから、良といる日々が急速に彩度を失っていった。
良との楽しい時間の全てが、両親への嘘と秘密でできている。
俺と良の将来を想像してはみたけれど、そこに至るにはまず俺がゲイだということを両親に話すことから始まるし、カミングアウトはできたらちゃんとした大人になって両親を安心させてからがいい。
そうなると少なくとも五年。そんな年月を関係を隠したまま過ごすのは考えただけで息が詰まる。自分だけでなく良も、そして良の家族にも好ましい状況とは言えないと思う。
そして、ここにきて音大の話が持ち上がった。
ピアノの先生が良の未来を決めることはできないだろうけど、でも由利奈さんの言うとおり、それでも始めたのだから良だって考えてはいるはずだ。
やりたいことが何もないと言っていた。
芸術の道が容易いものじゃないのは俺でも想像がつくから、良が迷うのはよく分かる。そして、良が自分の才能を信じてその険しい道を選ぶとき、俺は良の人生の役に立つことはできない。
一つに重なっているような二人の毎日が、高校を卒業すれば全く別の日々に変わる。まだうまく想像はできない。
天に続く道も、最後は分かれ道だと澤田さんが言ってたっけ。
俺はそろそろ澤田さんの言った言葉を唱えていた頃に戻らなくちゃいけないのかもしれない。
大人になるまではじっと耐える。
「なにかあったのか?」
はっとして顔を上げると、箸の止まった俺を父さんが見ていた。いつの間にか母さんも席についていて、テレビは消え、いつもの静かな食卓に戻っていた。
隣のおばあちゃんが俺を見上げ、「お腹でも痛いかい?」と俺の腕をとんとんと叩いた。
「なんでもない」
言いながら気持ちが落ちた。
「しけた面」と吐き捨てた藍がみそ汁を啜る。
「藍」
父さんが鋭く咎めた。
「ごめんね、ぼーっとしてた! 生姜焼き美味しいよ」
「そう?」
「うん!」
憂鬱だったはずの家も、今は丁度いい。
なにも知られていないから、なにも言う必要もない。なに食わぬ顔でまたこの日々に戻って行けばいい。
――良と、別れて。
競り上がってくる感情を押し返して、止まりそうになる箸をなんとか動かして口に白米を詰め込んでいく。
いやだ、別れたくない。
大人になるまであとどれくらい? 急いで大人になるにはどうしたらいいのかな。もう大丈夫だってそう思ってもらいたいだけなんだけど、家ではもうずっとそうしているつもりなんだけど。
豚肉の塊が喉を押し開いて落ちていった。
今の俺はどう見えてるのかな。
ここにいつか良を恋人として連れて来られるだろうか? もしそれが叶わなくても、良は俺と恋人でいてくれるのかな。でもそれはきっと、誰も幸せじゃないよな。
どうしよう。
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