第26話 幸せという罪
良がパティシエになると言い出した時、内心では大笑いした。
俺の事を思って将来をイメージしてくれたことが嬉しかった。でも梨沙ちゃんの顔を見て我に返った。
俺が小学校の先生になろうと決めたのは、俺にとっての優しい大人はみんな教師だったからだ。一番周りに迷惑を掛けていた小学生の時に、ああしてホッとできる存在があったことは俺の人生にとって幸いだったと思うし、自分も誰かのそんな存在になれたら恩返しにもなるんじゃないかと考えたからだ。
他の人たちがどんな風にして将来を決めるのかは分からない。ただ自然と聞こえてくる話を集めた限りでは、自分の得意な教科をヒントに進学先を選ぶ人が多かった。
良は頭が悪いわけではない。むしろ記憶力は異常に良いし、一緒にテスト勉強をしたらすぐに成果が出た。
良は俺の教え方がいいと盛り上げてくれたけど、多分身を入れて勉強をしていなかっただけだと思う。
本音を言えば、俺と一緒の大学はどう? と言いたかった。でも梨沙ちゃんもいた手前つい大人ぶって、「自分自身を基準に将来を考えて?」なんて言ってしまった。
それからは良から将来についての話題は持ち上がらず、学校祭の準備期間が始まった。
まさか二年生がメインで三年生は補佐だなんて思ってもいなかった。
実行委員の仕事は想像以上にやることが多くて、放課後も良とは一緒に居られなくなった。
良は普段よりもたくさん連絡をくれたし、相変わらず素直に、「会いたい」と言ってくれた。電話くらいしたかったけど、おばあちゃんと襖一枚の自室では話せないし、帰ってからもやることが残っていたりして、俺は思春期並みに苛々が募って、実行委員を決めるじゃんけんでチョキを出した自分を呪った。
会えなくなってから、良の指が動いていたことを思い出した。
本人は気が付いていないようだったけど、思考の途中や会話の最中に、あの大きな手が蜘蛛の足のように動いていることがあった。
良の部屋に入ると、いつも一番にピアノが目に入る。大きな生き物に似た気配さえ感じることがあって、あんなのは良にだって無視できる瞬間はないはずだ。
きっとあれが良にとってのピアノなんだと思う。日常で覆い隠しているけれど、心の中にはいつもそこに在る。
大好きな良の立ち入ることのできない場所、それがピアノだ。
初めこそ、「燃料が切れた」と笑いながら話してくれたけど、それ以降会話にピアノの話が出てくることはなかった。流行の音楽に詳しくない俺からきっかけを振ることもなかったし、クラシックに至っては完全に教養外だ。
将来の話という重大な場面でピアノのことを持ち出す勇気は出なかったけど、それでもあの手の動きを見れば、今も良の中に音楽があるのは想像がついた。
――将来か。
上がってきた思考の入り口を無視しようと次々と振られる仕事をこなしていると、気持ちはますます重たくなっていった。
やることは終わらない。今日も良には会えない。
ため息を吐いて、しょうがなく思考の扉を開いた。
良が別の大学に行くとして、会う時間は今よりもさらに減ることになる。
俺は一人暮らしをするつもいだし、生活のためにアルバイトもするだろう。
毎日連絡を取り合って、近くなら毎週会えるかもしれないけど、場所によっては月に一度くらいになるかもしれない。それが四年? 長いな。
愛されている自覚はある。俺だって良が大好き。でも、だからこそ会えない寂しさは大きい。そんな四年をどうやって過ごすのか想像もできない。
でも、うまくいかないとは限らない。遠距離恋愛なんて珍しくもないんだし、四年を凌いで就職を機に一緒に住んだりできたら、そしたら――。
その先に何かがあるような気がするのに、真っ白に霞んでいる。
無理なのかな。いやそんなことない、考えろ、大人になった良との幸せな毎日。
学校祭のプログラムを三つ折りにしながら、今までの良との思い出を繋ぎ合わせてイメージを作り上げる。
良の部屋にあるのと同じダブルベッドで目を覚まして、一緒に朝食を食べる。良の家はパンが出てくるけど、うちはご飯党だ。どっちも好きだし、毎日交互がいいかな。良は器用だから料理もできるはず。
仕事着はなんだろう。俺はほぼ私服になるけど、良はスーツだったらいいな。背が高いから見栄えがいいだろうな。
スーツ姿の良といってらっしゃいのキスをして仕事に行く。一日せっせと働いて、帰ってきた良がスーツを脱ぐのを眺めて、その日の出来事を話しながら夕食を食べる。一緒にお風呂に浸かって、そういうことをしたりしなかったりしてから、また同じベッドでくっついて眠る。
うん、イメージできた。かなり楽しい。
休日にはちょっと遠出をして、美味しい物を食べに行きたい。誕生日やクリスマスを一緒に祝って、良と一緒に北海道にも行きたい。楽しいだろうな。
天へ続く道を最後まで行って、網走と旭川と札幌にも行って、ヒグマとキタキツネを見て、また一緒に温泉に入りたい。
年末年始にはお互いの実家に顔を出して——。
「…………」
手が止まっていた俺に、平川さんが「どうしたの?」と肩をつついた。
「え? いや、なんでもない」
「あれえ? 疲れてるのー?」
からかうように俺を笑った平川さんに苦笑いを返したけど、見てもくれなかった。
学校祭が始まるとさらに忙しかった。
でも周りの人たちが(平川さん以外)、俺が予定外の仕事をしているのに気が付くと素早くフォローしてくれた。それで随分助かったけど、どう考えても学校祭の三日間、俺に自由時間はなさそうだった。
一番忙しくない一日目が終わって取り合えずホッとしていたら、平川さんが俺と関田を呼び止めて、「入り口のアーチの文字がズレてるみたい」と言って、「じゃあよろしくね」と去っていった。
彼女はああして上手く仕事を割り振っているつもりなんだろう。大きなため息が出そうになったけど、なんとか飲み込んで関田と脚立の置いてある準備室に向かった。
「あまぴ大丈夫?」
「何が?」
後ろから付いてくる関田を振り返る気力もなく返事だけを返す。
「忙しそうだから」
「うん、でももうあと二日だしね。みんなも手伝ってくれるから平気だよ」
「そう?」
「うん」
階段を下りながら、湿度と汗の不快感に、いっそ雨に打たれたいような気持ちがする。
上半身がかなり汗っぽくて、腋がぺたぺたする。毛がないからかな。
それにしても良がいないとこんなに俺の人生はつまらなかったのか。俺を笑わせてくれるのは良からのメッセージだけだ。まあ俺だって面白いことを言う人間じゃないんだけど。
今まで毎日何を考えて生きていたんだっけ? あの甘いキスもハグも無しに。
――大人になったら好きに生きられるから、もうちょっと頑張んな。
階段を下り切ったところで、春まで唱えていた澤田さんの言葉が降ってきた。
するともう一つ重要なことも思い出された。
そうだ、俺は今、罰を受けている最中だった。
スマホは返してもらったけど、使いみちを委ねられたお金は与えられない。中学三年間を静かに過ごしてみたけど、まだ反省は十分じゃないようで、俺の罰は五年目に突入している。
良に会うまで俺はただじっと大人になる日を待っていた。これ以上親に心配をかけないよう、また信頼してもらえるよう毎日を送っていた。
そんな自分が少しずつ両親の中で積みあがっていけば、これから来る人生の節目の、例えば高校を卒業した時や、大学入学、成人、社会人になったときに、昔とは違う立派な大人になったとイメージを改めてもらえるかもしれない、そう思って。
そのためにあの熊の鈴だって関田に預けたんだ。
でも良に出会った。
家族の誰も、俺が今人生で一番幸せなことを知らない。俺もそうだとは振舞わない。北海道から帰ってきたあの時のまま、無口で過ごしている。
朝起きて家を出るまでと、帰宅して眠るまでの罰を受けている自分。外に出て学校に行き、良と別れるまでの幸福な自分。
どちらが俺の正しい人生なんだろう。どちらかは間違い?
良のお母さんの言葉が俺の思考を立ち止まらせる。
俺が幸せなら両親はそれでいい? いやまさか。
身体の先がひんやりしている。
良と幸せな時間を過ごすたびに胸がいっぱいになる。そして家に帰ると、浮き上がりそうだった胸は中身が別のものに変わってしまったかようにずっしりと重たくなる。その重たいものの正体は、恐らく罪悪感だ。
押し隠した反抗心から着服してきたお金でデートをして、外泊するときは関田の家に行くと言い、遊ぶときはクラスの友達だと言う。どこへ行こうと、どんな楽しいことがあろうと、家のドアを開けた瞬間全てが罪に変わる。
キスをしてセックスをして大好きと囁き合って、自分に価値があるような気になって幸せを感じながら、親への嘘が増えていく。
俺がしていることは、両親への新たな裏切り行為なのかな。
ちゃんとした大人になったと安心してもらうまでは、好きに生きられるまでは、手を出してはいけないものだったのかな。
「だめだあまぴ、小さい脚立しかない」
「……うん、どこかのクラスが使ってるのかな」
また手間が増えると溜息を吐いたその時、準備室の青いドアが開いた。
「蓮!」
振り向くよりも前に良が俺を呼んだ。
「あ、良!」
胸が大きく膨らむ。同じだけ罪悪感も膨らむ。
でも良が大好きだから、我慢なんてできない。
***
音楽祭をきっかけに良がピアノを再開し、今までは小さなローテーブルの横かベッドの上だった俺たちの定位置は、グランドピアノのベンチタイプの椅子に変わった。
良は小さい頃の教科書を出してきて、思い出話と一緒に可愛らしいワルツや耳馴染みのある童謡を弾いてくれた。
大好きな大きな手が、まるでステップを踏むように鍵盤の上を淀みなく踊っていく。
なんでもオープンに話す良が唯一語ってこなかった日々がいよいよ開示されて、俺は嬉しくて堪らなかった。
良も弾くのが楽しくてしょうがないようで、時々気持ちが溢れたように声を上げて、俺の頬や耳や首筋に唇を押し付けたり弱く噛み付いたりしてくる。俺はくすぐったくて笑いながら、幸せでますます胸をいっぱいにする。
寒い日が少しずつ増えて、学校でのお昼は、良が担任の高瀬先生に教えてもらったレクリエーションルームになった。
絨毯敷きのそこは天気が良ければ日差しが入って温かく、雨の日でも暖房機のスイッチを入れればすぐに温風が室内を暖めてくれる。
そしてそこには電子ピアノがあった。
「ピアノばっか弾いててうっとおしいだろ」
良は俺に背を向けたまま、ちょっと気まずそうに身を竦めた。
少し高さの足りない木の丸椅子に腰かけて、雨模様に合わせてか、物憂げな曲を弾いている。音量はごく小さい。
「そんなことないよ、初めて気付いたけど、ピアノを弾く男の人ってかなりかっこいい」
俺が褒めると、縮こまっていた良の背筋がすっと伸びた。
「えー? そうかなー、そっかー、かっこいいかあー」とかなんとか言いながら、嬉しそうに上体を揺らしている。面白い。
もちろん嘘じゃない。音楽祭で初めて良のピアノを聴いたとき、俺の全身はつま先から頭のてっぺんまで完全に感動に支配されて、文字通り震えた。
『蓮のおかげで、ピアノが弾きたくなったんだと思う』
あの言葉がどれほど俺を喜ばせたか。
自分の存在が良の前向きなきっかけになった。北海道で見崎さんを通り過ぎた俺の後悔が、良の言葉で大きく救われた。ついもっと喜ばせようとワンピースを身に付けてセックスに誘ってみたりして、思い出すのも恥ずかしい。
「俺さ、前に通ってたピアノの先生のところにまた行くことにしたんだ」
「そうなの?!」
俺は驚いておにぎりを落っことしそうになった。
「なんて先生?」
「松井恵美子先生だよ」
「松井先生か。それで行くのは何曜日?」
ピアノって毎日どれくらいの練習が必要なんだろうと考えていると、丸椅子の上でクルッとこっちを向いた良は、あまり嬉しそうじゃない顔をしていた。
「ほとんど毎日」
予想にない答えに、思わずぽかんとなった。
「あ、でも行くのは夜の七時以降だから! 蓮とは今まで通り会えるからね!」
良が両方の手の平をこちらに向けて宣言した。
「う、うん……」
うんと言ったものの、毎日のレッスンが普通じゃないことは分かる。でも前にどこかで、『ピアノを一日休むと取り戻すのに三日掛かる』という話を聞いたことがある。一週間だったかもしれない。
そう考えると、丸三年くらいはブランクのある良が元の力を取り戻すにはそれくらいのレッスンが必要なのかもしれない。でもそんなに急いでどうして? コンクールにまた出るんだろうか。
「今まで通りって言うけど、練習はしなくて大丈夫なの?」
「練習は朝にやってるから大丈夫! いやー、なんか分かんないけど先生が張りきっちゃっててさー」
良は再びこちらに背をむけて鍵盤に指を走らせながら、ピアノを再開したいと伝えた先生が、それはもう大喜びをしてくれたという話をしている。
良かった、嬉しい。良のピアノは大好きだ。
そう思う気持ちに嘘はない。なのに頭皮がむずむずと痒い。
「それくらい才能があるってことなんだね、俺には詳しいことは分からないけど、ピアノを弾く良は凄くかっこいいもんね」
かっこいい、すごい、そんな言葉しか言えない自分が空しい。なのにパッと笑顔になった良が俺のところに飛んでくる。
「いやー嬉しいっすね!」
変な口調の良にペットボトルのお茶を勧められる。
「飲んで欲しいの?」
「うん、キスしたいから早くおにぎり飲み込んで?」
そういうことかと笑ってしまいながら、言われた通りお茶でおにぎりを流し込む。
良が待てをしている犬みたいにわくわくした目でこちらを見てきて笑いが堪えられない。結局待てなかった良にお茶を奪われて、そのまま押し倒されて口いっぱいに良の舌が入ってきた。
「今日もするの?」
「鍵は掛けたよ。ドアの窓にはカーテンも付いてる。ここ最高だね」
「んん、良重たい」
「静かに」
ここに場所を移してから、毎日こんなことをしている。
誰かに見られたらどうするんだろ。
まるで他人事のように考えながら、隙なく閉じられたカーテンを確認すると、良の首に両腕を掛けて深いキスに応える。
激しくなるキスの音が絨毯に吸い取られていく。ここは広くてやけに静かだ。
これは幸せかな? 罪に近い気もする。
自分の眼差しや両手が良を誘っている。良は優しく微笑んで、俺の望むままに舌と唾液と酸素を奪って、俺の思考を緩慢に変えていく。両足で良の腰にしがみついてお互いを押し付け合うと、すでに硬くなっていて嬉しくて堪らない。
「蓮、ティッシュある?」
「うん」
「よかった、赤城に持っていかれちゃって」
「赤城君、鼻風邪でもひいてるの?」
「さあね、隠れて俺たちと同じことしてるのかもな」
くすくすと笑いながら唇を甘噛みし合って、互いのベルトを外してチャックを下す。
いけないことをしている。
「ね、あと十分しかない」
「じゃあ本気出して?」
「本気ってなに」
鼻先で牽制し合い、下半身を露出してお互いに触り合う。
「んん……」
呼吸が乱れて息苦しいのに、唇に吸い付くのを止められない。興奮して手が速まって、でも良の手は大きいから俺の方が部が悪い。
「あっ、良……」
両手で包み込まれて、手に意識が回らなくなってしまった。
「声抑えて」
「だって」
くすくすと笑われながら、なんとか手を動かす。形を指先でなぞって、ゆっくり根元まで良の好きな強さで擦る。
「蓮、それいい」
「うん、俺も気持ちいい」
見つめあって言葉にならない音を聞かせ合う。吐息を混ぜあって、噛み締める唇は吸われすぎてもう熱い。
タイムリミットが迫っている。良がくれる快感に集中して、何度も繰り返した終わりのルートに感情を乗せる。
「良、キスして」
「いっちゃいそう?」
「うん」
せっかく良がピアノを始めたのに、こんなことしてていいのかな。
でも良は俺がいると音楽が鳴るって言ってくれた。俺がいたからって。
「あーそのまま」
目を閉じて手を動かして、同時に下腹部に集まっていく何かに意識を集中する。
衣擦れ、手元で立つ濡れた音、堪えられない声、吐息。
音だけで学校でするべきじゃないことをしていると分かる。まだ俺は家に帰っていないのに、胸がちょっとだけ重たい。
どうしよう、でも今は躊躇う時間はない。
「良、ああっ!」
「蓮!」
強張る身体を支え合って、唾を飲みこんで呼吸を整えていくと、ついさっきまで性欲に支配されていた思考がいつもの場所にゆっくりと落ちてくる。
どうしよう。
「蓮」
「ん?」
気持ちよかったと微笑まれると、やっぱり胸がいっぱいになった。
どうしよう。
手から零れ落ちた滴りが、レクリエーションルームの絨毯に染みを作った。
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