第25話 初恋



 澤田さんは俺の性を呼び起こすきっかけにはなったけど、初恋は誰かと問われたら、紛うことなく良が俺の初恋だ。



 大人っぽく見えていた良は付き合ってみると甘えん坊だった。

 隙があればキスをしてきて、抱きしめて離してくれない。俺のことが大好きなんだってことを少しも隠さない。

 恋人との距離感に慣れていない俺はいちいち戸惑うけど、俺のまごつくスピードよりも速く良の欲求が降りかかってくる。

 はっきりと心地いいそれは、ずっと乾いた湿原のようだった俺の心を艶やかな蒼に濡らしていった。


 中に入れたいと言われた時は驚いたけど、嫌だとは思わなかった。

 噂にだけ聞いていた男女の性行為は、女性の身体に受け入れるための機能がきちんと備わっていた。けれども俺が調べる限り男の体はそうはできていない。

 正直そんなことが可能なのかとトイレに籠って考えた。でもまあ自分がそうだというのはもう疑いようもないし、良に興味があるように、自分にだって興味があった。

 スマホが解禁されていて良かった。どうしたらいいのかなんて想像もできない。




 良の家族が留守にする週末の三日間。丁度うちの家族もおばあちゃんを連れて親戚のところへ行く予定になり、家には珍しく俺と藍だけが残されることになった。

 さてどうしようかと思っていると、挨拶もなく引き戸を開けて部屋に入ってきた藍が先に口火を切った。


「蓮って友達いるの?」

「え」


 藍は開けられたままのおばあちゃんの部屋を覗き、いないことを確認して襖を閉めた。

 おばあちゃんはお風呂だよ、と心の中で呟きつつ、いつの間にか身長があまり変わらなくなった藍を座ったまま見上げた。

 それにしても、俺は友達がいないと思われていたのか。

「いるけど、なんで?」

 俺を慕ってくれていた頃の面影の残る眼差しが、小さな舌打ちと共に細められる。

 そんなにうっとおしそうに見られても、ここまでの会話で何かを察するのは不可能なんだけど。

「週末うちに友達呼びたいんだけど」

 言葉を発するのも面倒臭いとばかりに言われてようやく理解した。俺が邪魔だということか。

「分かった、関田のとこへでも行くよ」

 読んでいた本に目を戻し、思わぬ朗報にニヤつきそうになるのを奥歯を噛んで堪えた。これで連休中に親から家に連絡があっても藍がうまく言うだろう。

「また関ちゃんかよ、やっぱ友達いないんだ」

 馴染みの名前を聞いた藍からの嘲笑もちっとも気にならない。だってこれで気兼ねなく良と初体験ができる。

 藍の『お友達』が女の子という可能性が薄っすらと浮かんだけど、見ないふりができるくらいに俺は浮かれていた。




 ゲイにとっての初体験がどの時点を言うのかは分からないけど、物理的に繋がるという点ではこれが俺の初体験だった。

 ネットの情報により、かなりリアルに想像はしていたけど、赤裸々な体験談をうやむやにしてしまうほど良は優しかった。

 なんだかこっちがもどかしく感じるくらい慎重で、でもよく考えると良も初めてなのだから当たり前だ。

 色々といかがわしいアイテムを買い揃えてきた良に最初はぎょっとしたけど、どれも良を受け入れるよりは容易く出来ていて、一つ進むたびに心配そうに窺われて、愛しい気持ちと嬉しい気持ちでじわじわと心が痺れた。



 初体験が済むと毎週末が待ち遠しくなった。

 正直こんなに気持ちがいいと思っていなかった。自分でするのとは全然違う。

 俺だけを見てくれる瞳。唇も大きな手も、いつも大切に触れてくれて、滴るほど汗を掻いた良の体がくっついて俺を離さない。

 言葉にならない声がお互いの口から零れて、自分の体が良に快感を与えている事実に眩暈がするほどだった。

 そして終わった後に良がくれるたくさんの感謝と気遣いが、体中を味わったことの無い幸福感で満たした。


 誰にも言いたくないのに、何よりも素晴らしい体験。

 これが学校で彼女の愚痴を言っている友人たちが語らない密事か。良かった、何も知らないくせに、「そんなに文句があるなら別れれば?」なんて言わなくて。あんなのは恋人がいない奴らへの謙遜行為だ。



 良の恋人という特等席は、北海道へ飛び出しても見つけることができなかった自分の価値を感じさせてくれた。

 多分、俺はそういう欲求が人一番強いんだと思う。理由は考える必要もない。

 腋の毛を剃り、ついでにひょろひょろと生えていたすね毛も剃った。

 毎晩早く朝が来て欲しかった。早く学校に行って良に会いたかった。ランニングはスピードが上がって、距離を二キロ延ばした。

 とめどなく湧き上がる好きの気持ちが、良をいい気持ちにさせたいと自分を突き動かす。良が快感に集中できるよう自分も積極的に振る舞って、自分の上で、または下で、すぐ後ろで、良の体が震える瞬間をうっとりと味わった。


 関田に嫉妬して体育祭を飛び出した良が、セックスばかりだったことを反省して、これからはもっとたくさんデートがしたいと言ってくれた時、俺は完全にセックスに溺れていた自分を恥じた。

 もちろんデートが増えることは嬉しかった。セックスと同じように、良は俺に初体験をいくつもくれた。初めて映画館に行った時も、良の手がずっと俺のを握っていて、正直内容よりもそっちの印象が強い。

 ふとした瞬間、良の視線が俺を引き留めて、たった今、彼の関心が自分にしか向けられていないと示される喜びは、今にも涙が出てきそうなほど感動してしまう。


 好意を向けてもらったことは前にもあった。でも明らかにあの時と違うのは、相手が男だからではなくて、俺も良が好きだからだ。

 恋という現象は、色々とある関心事の中の輝く一つではなくて、自分の全てが良を思う気持ちの中に包み込まれてしまうことだった。



 良は俺にデート代を殆ど出させなかったけど、なんとか交通費だけは自分で払った。コツコツと溜め込んだお金がここで役に立った。

 そして夏休みに入ると二人の思い出はさらに増えた。


 炎天下の屋外プール、浮かんだ夏野菜みたいにただ流されているだけで楽しかった。

 初めて二人で見る海、波打ち際で水を掛け合いながら繋がれたままの手。帰りの電車で肩にもたれる良の髪の潮の香。

 動物園や博物館に行って、たくさんの子どもに交じってスタンプを集めて、プラネタリウムを見た後には、夜の公園の遊具の影で夢中になってキスをした。


 今にも胸がクラッカーみたいに弾けそうだった。

 世の恋人同士が経験するときめきと、幼少期に満喫し損ねた無邪気な体験を同時に味わって、感性という感性が刺激にまみれた。全てが色濃く記憶に焼き付いていって、思い返すといつでも感情が高ぶった。

 毎日声を上げて笑うのは生まれて初めてだった。

 聞き慣れない自分の声がくすぐったい。そして俺が笑うたび、良が嬉しそうに俺の頬に浮かぶ笑窪に触れた。




 夏休み、良のお母さんの車に乗せてもらって恵森湖畔に日帰り旅行に行った。

 サップのせいか、温泉から上がってもうはや身体が痛いという良がマッサージチェアを始めて、俺とお母さんでコーヒーを飲んだ。

 心地いい疲労感と、湯上りのゆったりとした雰囲気に任せて、お母さんに思い切って気になっていたことを訊ねてみた。


「俺たちのこと、本当にいいんですか?」

「いいって?」

「その、男同士で」

 お母さんは良によく似たとぼけた顔をして、「いいわよ、好きなんでしょう?」と首を傾げた。

「はい、俺はそうです」

 好意を認める照れくささにもじもじしながら頷くと、お母さんは眉間に皺を寄せて笑った。それも良によく似ている。

「あの子もあなたが好きよ、初恋って言ってもいいと思う」

「初恋?」

 俺が驚いた声を上げると、お母さんはにやっと歯を見せて、「それくらいハマってる」とウインクをくれた。

「そ、そうでしょうか」

「私が言うんだから間違いない。あの子がこんなに夢中になるのはピアノ以来」

 お母さんは大きなソファーから体を起こしてコーヒーカップの湯気をふうっと吹いた。

 良は前にも恋人がいたし、初恋なんてことはないんじゃないかな、なんて思いつつ、お母さんにそう言われるとやっぱり頬が緩む。

「ピアノを弾いてる時の良は知らないですけど、嬉しいです」

 お母さんは、「本当よ!」と念押しして、それからごくさらっとした調子で、「何か不安?」と俺に訊ねた。


 不安? とは違うけど、気になってはいた。


「こんなによくしてもらってるのに疑うなんて失礼だとは思うんですが、そんなに簡単に受け入れられるものかなって思ってしまって」

 良の幼馴染の梨沙ちゃんといい、あまりにも簡単に俺たちのことが当然のもののように扱われて、時々よく分からない気持ちになることがあった。夢なんじゃないかな、というような。


「蓮くんのご両親は難しそう?」

「え?」


 予想していなかった流れになって、俺は言葉に詰まってしまった。

 お母さんはそんな俺に優しく微笑んでくれ、視線をコーヒーへ移してゆっくりと一口含む。俺はそれを見ながらそっと息をして、聞かれたことについて考えた。


 いつかは両親に自分がゲイだと話さなければならない。でもそれはずっとずっと遠い先の話だと感じていた。でも、じゃあ良とのこともずっと先まで話さずにいるのかと言われると、そんなのは正しくない気持ちがする。

 幸せな毎日に現を抜かして、大切なことを先送りにしている現実に気が付いてしまった。それに、親に話せていないことを良に申し訳ないと思うことはあったけど、良の親がどう思うかは考えていなかった。


「分かりません。いい両親なんですけど」


 ひどく気まずい気持ちがしてコーヒーを啜った。さっき散々食べたくせに甘いものが欲しい。


「一過性のものかもって、一瞬も思わなかったとは言わない」

「え?」

 良のお母さんがちょこっと唇の端っこを持ち上げた。

「でもね、知ってるでしょ? あの子の姉はエスパーなの」

「はい」

「色々あったのよ、小さい子は口さがないから」


 正直に言えば、良のお姉さんのことは話半分くらいに考えていた。まだ面と向かってちゃんと会話したこともない。

 でもお母さんの表情を目の当たりにすると、事実なんだろうと素直に思えた。


「本人は良かれと思って言うのよ? でも身内がもうすぐ死ぬなんて言われていい気持ちはしないし、実際に亡くなってしまったら、それはそれで恐ろしい目で見られちゃう」

 そんなにはっきりとしたことまで見えるのか。

「小さい頃は内容も可愛らしいことだったし、当たる確率も五分五分だったの」

「五分五分」

「そう。だから、いわゆる子どものキャラ設定みたいなものだと思った」

「キャラ設定」

 聞き返すばかりの俺に、お母さんは笑顔を向けてくれる。 

「オリジナルの魔法の呪文を唱えてみたり、妖精さんと喋ってみたり、そんな感じかなって」

 ああ、なるほど。

「でもだんだん精度があがってきちゃった」

 お母さんは一瞬困った顔をした後、なぜか嬉しそうな顔になってチラッと良の方を見た。

「あの子を守るために色々あった。私たちの知らないところであの子自身も気付くことがあったんでしょうね、小学校の高学年になったら友達も作ろうとしなくなった。自分には良一がいるからいいって言って」

「そうなんですか」

「ええ」


 お姉さんの見える世界がどんなものかは俺には全く想像ができない。でも自分の言動が人を嫌な気持ちにさせると気が付いたことはある。

 本来なら突然やって来る未来を事前に知ることができれば、相手はさぞありがたいはずだと俺だって考えるだろう。でも実際にはお母さんの言うように、普通の人にとってはただの恐ろしいことを言う子どもで、発言が現実になれば、まるでその言葉がきっかけだったと思う人もいる。

 言わなければ自分だけがもどかしくてすむ。だって普通の人たちは未来が見えたりはしないんだから。

 きっと多くを見なくて済むように、お姉さんは人と関わるのをやめたんだろう。俺にはそれも身に覚えがある。


「だからね、あの子がそれでいいと思うならいいかって開き直って育てることにした」

 その当時を再現するように、お母さんが胸を張って凛々しい顔をした。


 俺がエスパーだったら、俺の両親はどうしただろう。良のご両親と同じではなくても、きっと一番いいと思うことをしてくれただろう。俺のためにたくさん考えて。今のように。

「だからね、あなたたちが幸せならそれでいいの。きっと蓮くんのご両親もそうよ」

 お母さんの柔らかな笑顔に、自分もできるだけ同じ笑顔を返した。



 

 良のお母さんの言葉が引っかかって、そのまま帰らずに関田の家に寄った。


「麦茶でいい?」

「ありがとう、ごめん急に寄って」

「いいよ」

 お盆には麦茶と、関田の家から近い和菓子屋の最中が置いてあった。お仏壇にあったんだろう、手に取るとお線香の香りがする。

「随分日に焼けたね、どこかへ出かけた?」

 そう言う関田はもっと日に焼けている。

「うん、今日はちょっと湖に」

「湖? 恵森湖畔とか?」

 ぼうっとしていた俺は、突然関田に行先を当てられて驚いたけれど、まあここから一番有名な湖はあそこだしなと思って、「そうだよ」と肯定した。

 そして、「そっか」と笑った関田は案の定、「誰と?」とは聞かず、自分は朝から部活に行って、その後は近所のお寺がやっている子どものための流しそうめんのイベントを家族総出で手伝いに行ったと話してくれた。


「それって昔俺たちも行ったとこ?」

「そうだよ、覚えてるんだ」

 関田はとぼけたような顔をした。

「もちろん!」

 あの時は食べる側だった。最後におまけの大きなスーパーボールが流れてきて、箸で掴むのは相当難しかった記憶がある。

「スーパーボール流した?」

「みんなお箸からジャンプしてったよ」と関田は笑った。

 お箸を滑走路にあらぬ方へ飛んでいくスーパーボール。

 記憶から映像が思い浮かんで、俺も喉がくっくっと鳴った。


 夏休みに入ってから、良の家に泊まりに行く日は関田にアリバイ工作を頼んだ。関田のところなら親はいちいち確認しない。それに関田も何も聞いてこない。

 関田は俺が良と急に仲良くなったことについても不思議なほど何も聞かなかった。俺はそれに甘えて、こうして中学時代から時々気持ちを整える時間ももらっている。


「ね、あれ見せてもらえる?」

「うん」


 俺が頼むと机の引き出しから熊のベルが出てきて、それを関田は俺の手に置いた。

 ひんやりとした鈴が体温を奪って、魚を咥えた熊がこちらを見ている。


 気持ちが落ち着かないとき、関田に預けたこれを見せてもらう。

 反省を示す日々の中で、時々あの旅が夢だったんじゃないかと思うことがある。これはあの日が確かにあったという証拠だ。そして記憶の鍵のようなものでもある。こうしてこれを手に目を瞑ると、自由だった数日を思い出すことができた。


 遠くまで見渡せる茶色い湿原。きっと今頃は木々や草花が萌え盛っているはずだ。今の俺みたいに。

 それなのに感じる微かな切なさ。

 あんなに楽しかったのに、良の家族は俺を受け入れてくれているのに、どうして俺は今、北海道へ逃避しているんだろう。

 俺は何から逃げたいんだろう? こんなに幸せなのに。

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