第24話 二度目の雷雨
ゴールデンウィークが明け、何事もなかったかのように日常は再開した。
誰一人、俺がしでかしたことなんて知らない。夏を前に日に焼けた肌を晒して、連休中に何をしたかという話で盛り上がっている。
家族で北海道に行っていた人もいて、ドキッとした俺は耳をそばだてたが、行ったのは小樽だったようだ。
みんな語りたがりで、誰も俺の連休がどうだったかなんて訊かなかった。
家出をしたと言えば、きっとクラス中の注目を集められるだろう。そして帰宅してからの罰を聞かせれば、誰も家出なんてしようと思わないだろう。
澤田さんとたくさん話したお陰か、クラスメイトにも積極的に話しかけられるようになった。
澤田さんに勧められたような、時々無神経なことを言っちゃうやつとして生きる勇気はないけど、頭の中で考えていることの半分くらいは口に出すようになった。
ある程度自分の情報を開示したほうが、黙ってじっとしているよりも周りの注意を引かないようだと今更学んだ。
両親の視線にはあれからずっと戸惑いが混じっている。
当然だろう、ずっと大切に育てていた息子があんなことをしたんだから。
俺は反省を示すため、毎日を静かに過ごした。
おばあちゃんの隣の部屋で勉強をして、おばあちゃんの鼻歌を聞いて、頭の中でハミングした。
友達はいいものだ。特に何もない俺にとっては。
みんながスマホで楽しいことを見つけては共有し合う。光の速さで更新され続ける世界中のトレンドを追いかけて、ただ過ぎ去っていく俺の毎日をエンタメで彩ってくれる。
俺がスマホを持っていないことでいじめられたかというと、そんなことはなかった。
今時厳しい親なんだねなんて同情されて、親が教師だと言うとさらに何かを察したように、「あー」と頷かれた。
本当は自業自得なんだけど、情報は詳細にしない方がいい時もある。
みんなのスマホの画面には大抵短い動画が流れていて、終わりはないようだった。
「気が付いたら二時間経ってたー」なんてあるある話を聞きながら、自分がスマホを持っていた時にはそんなことは一度もなかったなと思って、自分の変を再確認したりした。
こんな俺もちゃんと中学生らしくなっていく。
顔がペタペタと脂ぎって、体毛が濃くなっている。身体はきちんとみんなと同じタイミングで成長をしてるらしい。
ホルモンも分泌されているようで、反省中の俺にとって、この時期特有の全方位に向けられる苛立ちをやり過ごすのはなかなか苦労した。
周りの誰もが勉強を面倒くさがり、ニキビに悩まされ、家族の愚痴を言う。
俺は勉強が好きで、ニキビはもちろん憎くて、家族に文句はない。
色んなことがみんなと一緒でみんなと違う。俺はそれをあまり深く考えないようにした。
自分が変だと認めてしまえばそれで全てが片付いた。
――大人になったら好きに生きられるから、もうちょっと頑張んな。
毎日澤田さんの言葉を唱えた。
一日が終わるたびに大人が近付く。大人になって、それでも上手くいかなかったらまた旅に出ればいい。
ある時から、関田に協力してもらって散髪代に貰うお金を貯め始めた。どうしてか分からないけど、そうしなきゃいけないような気がした。
いざという時にはお金がないといけない。そのいざが何なのかはハッキリと言えないけど、そんな日が必ずくるという胸騒ぎに似た確信があった。
時々は友達と中学生らしいことをした。
言えば両親は遊びに行くためのお金をくれたけど、くださいと言うのが嫌で着服したお金を使った。でもそれが減ると不安になるから、お金のかかる遊びは断るようになった。
月に一度は関田に誘われてマックに行って、三ヵ月に一度はラーメン屋に一人で入った。ラーメンは美味しい。
思春期らしく鬱々とした気持ちにとりつかれることもあったけど、そんなときは図書館に行って北海道の本を眺めた。
結局キタキツネを見ることはできなかった。澤田さんが冬毛の狐はふかふかで可愛いけど、夏毛の狐はみすぼらしいと言っていた。
本に載る選ばれし夏毛のキタキツネは、ほっそりとはしているが、みすぼらしくはない。みすぼらしいキタキツネを検索したかったけど、スマホは取り上げられていた。
帰ってきてから一度、学校の公衆電話から澤田さんの番号に掛けた。ワンコールで直ぐに切った。検索すれば場所が分かるから、俺からだと気付いてくれるだろう。
時々澤田さんの声を聞きたくなったけど、電話は掛けなかった。
今の状態を罰として受け入れているからには、なんとなくしてはいけない気がした。それに澤田さんは俺にくれたカメラに何が写っていたかが気になっているはずだ。取り上げられたとは言いたくなかった。
電話が来ないならなんとかうまくやってるんだろうと、きっとそう思ってくれるはずだ。
お菓子を食べ、ラーメンを食べ、マックを食べ。
自分の思春期が食い意地一辺倒で笑ってしまう。
俺は早朝にランニングを始めた。この食いっぷりではあっという間に太ってしまうんじゃないかと思ったのと、おばあちゃんにつられて早く目が覚めるからだ。
それに、最近は家に居ると少し息苦しく感じる。
自分のせいだと分かっていたけど、何か理由を付けてでも外に行きたかった。ランニングを咎められることはない。
目が覚めて走りに行き、シャワーを浴びて朝食を食べて学校に行く。
学校では中学生らしく過ごし、放課後は自習室や図書館で勉強をして、または友達と遊んで、時々一人で当てもなくぶらぶらと道草をして、帰宅時間ちょうどに家に帰った。
俺の膝が治っていると分かっている藍が、時々パス相手になってくれとせがんだ。けど、俺はいつもそれを断った。
藍は、「なんで? もう痛くないでしょ?」と不貞腐れたけど、どうしてもボールには触れたくなかった。理由はつまらないプライドだ。
自分に構わなくなった俺を藍は嫌いになっていったと思う。家では無口なままの俺に、「辛気臭い」と言うこともあった。その通りだから何も言わない。するとますます鬱陶しい目を向けてきて、そのうちまるで居ないもののように視界にも入れられなくなった。
そうして、『一番かっこいいお兄ちゃん』は跡形もなくこの世から消え去った。
情緒が自覚できるほど落ち着いて、一瞬出来た彼女に襲われかけて直ぐに別れた中学三年生のある時、自室で受験勉強の息抜きに歴史漫画を読んでいたら、リビングで両親に突っかかる藍の声が聞こえてきた。
俺は隣の部屋のおばあちゃんと顔を見合わせてから、そっと戸口からリビングを覗いた。
内容は分からない。冷静に諭す両親に、藍の表情はみるみる間に険しくなって、ついに、「蓮は北海道に行っただろ!!」と怒鳴った。
俺は出し抜けに自分の名前が出てきたことに驚いて、そばにあったゴミ箱にぶつかってしまった。
倒れていくゴミ箱がスローに見えるほど最悪のタイミングだ。
音を立て転がったゴミ箱が中身を散らかして、三人が俺を見つけた。藍はギリッとこちらを睨みつけて、床を鳴らして二階に上がってしまった。
「ごめん、何かあったの?」
俺がなにか藍の悪い見本になったようだった。あまり詳細は聞きたくなかったけど、ゴミをそのままにして部屋に引き返すことはできない。
父さんが椅子から立ち上がって一緒にゴミを拾ってくれた。
「友達と泊りがけで遊びに行きたいんだと」
「泊まり? 卒業旅行にってこと?」
「まあそうね」
母さんも立ち上がって、途中だったらしい食器洗いを再開した。
「大人が同伴してならいいと言ったんだけど、それは嫌みたいでな」
「反対してるのはうちだけだって言うんだけど、みんな家でそう言ってるみたい」
母さんは笑って食器を水切りラックに重ねた。
それで俺が引き合いに出されたのか。
「なんかごめんなさい」
ごめんなさい。こんな言葉もすぐに出るようになった、思春期の夜明けぜよ。
「蓮は今も家を出たくなることはあるか?」
読んでいた歴史漫画に釣られて脳内で軽口を叩いた途端、急に矛先が自分に向いて息が止まった。
思春期は明けても俺の罰は終わらない。
「ないよ、安心して」
俺の答えに父さんは小さく頷いて、ゴミ箱を壁に寄せた。
「次はちゃんと相談してから家出してくれよ?」
「え? うん」
それじゃあ家出じゃないと思ったけど、まあつまりそういうことが言いたいんだろう。
乱暴な口を利いても、藍はちゃんと親の了解を得ようとした。あれがこの両親に育てられた子どもの普通の思春期の姿だ。
「いつの間にか口が悪くなったね、藍」
「まあどこもあんなもんみたいだよ」
父さんは笑ってテーブルに戻ると、閉じていたノートパソコンを立ち上げた。
「……そうなんだ」
俺はあんな風に誰かを罵りたいとは思ったことはないけど。まあこれもいつものことだ。それに、家出で迷惑を掛けた長男が弟をとやかくいうことはできない。
「良いのよ、思春期に我慢し過ぎるとかえってよくないから」
濡れた手をタオルで拭いながら母さんが笑った。
二日間は気付かないふりが出来たけど、母さんの言葉は俺の心に棘のように刺さっていた。
だって俺は罰を受けているから。
いや違う、そもそも俺は変なんだ、藍のように普通ではない。だから夜明けを迎えた自分の思春期が一般的に『かえってよくなかった』としても、それが当然だ。
俺を押し倒した女の子から逃げ出したことも大した問題だとは思わなかった。多くの中学生女子は早熟で、男子はびびりだった。焦れた女子にファーストキスを奪われた男は何人かいた。
でも時々夢に澤田さんが出てきた。車中泊をした夜の夢だ。
夢の中で俺はあの分厚い身体に包まれて眠っていた。
あったかくて、守られているようで、とても幸せ。
夜が明けると二人で天に続く道を走った。
あの道の終わりを知らない俺は、夢の中でいつまでもわくわくした気持ちのまま、真っ直ぐ続く道の終わりを見つめ続けた。
家出をした後も、関田だけは変わらなかった。
マックとサッカー以外に興味を向けない関田は、それでも平均程度の学力があった。俺は散髪のお礼と、あまり家に居たくないのもあって、連休や長期休暇には時々関田の家に行って勉強を教えた。
案の定、理解力は全く問題なかった。虫食いのようにできないところがあって、きっと寝てたんだろうと思った。
相変わらずのオチのない話を聞きながら、関田と一緒に中学の復習をした。
同じ高校を受験すると言われた時はちょっと泣きそうなほど嬉しかった。
受かった時は関田の家族全員に胴上げされそうなほど喜ばれた。関田のおばあちゃんは泣いていた。
関田は一緒にサッカー部に入らないかと誘ってくれたけど、その頃にはもうサッカーは弟のものだったし、興味も薄れていた。
同じクラスにはなれなかったけど、同じ学校に関田がいるのは嬉しかった。いや、嬉しいというよりはなんだが可笑しい。
偶然出くわしては手を振り合ったりして、関田は相変わらず俺を昔のあだ名で呼ぶもんだから友達には笑われた。
そして、それまであまり変化のなかった関田の身体が高校生になってからみるみる逞しくなっていった。
大きめだった制服があっという間に丁度良くなり、二年になる頃には少し丈が足りなくなっていた。
安くない制服代に、買い換えようかどうしようかと関田のお母さんは頭を抱えていたけど、部活の先輩がお下がりをくれたらしく、なんとか丁度いい格好になった。
時々胸がざわっとすることがあった。
俺に触れる関田の太い腕や、分厚い胴回りに憧れのような気持ちが湧いた。
ひねくれた思春期に捨てたサッカーに未練があるのかと思ったけど、ある夜、澤田さんといやらしいことをする夢を見て大汗をかいた朝、そうじゃないのかもしれないと初めて思った。
とても生々しい夢だった。
いつもの車中泊、俺を包む腕が解けて、どうしたのかと見上げる唇に分厚い舌が分け入ってきた。
訳も分からず必死でその舌に吸い付いていると、おもむろに下着の中に手が入ってきて、大きな手に扱かれてあっという間にいってしまった。
いつの間にか目が覚めて、薄闇の中でじっとしている吊り照明を見つめていた。
早鳴る心臓の音、汗だくの自分に気が付いて慌てて着替えた。
下着は捨てる羽目になった。
そっと襖を開けると、おばあちゃんはまだ口を開けて寝ていた。
ホッとすると夢のことが思い出された。
もう一度眠ったら夢の続きが見られるんじゃないかと考えて、そんなことを考えた自分に心底驚いて、薄暗い中をランニングに飛び出した。
驚いたけど納得もした。だって女の子に興味が湧かなかった。
高校に入ってすぐに告白された子と付き合ってみたけど、やっぱりそんな気にはなれなかった。
まだ自分が子どもなせいだとその子にも自分にも言い訳したけど、疑問は残った。気になると止まらず、確信を得ようと関田に貸した教科書に電報みたいなメモを挟んで渡した。
関田なら俺が頼めばハグくらいはしてくれるだろう。それを関田の部屋で頼むのはちょっと生々しいような気がして、学校なら軽いノリでしてもらえるんじゃないかとそうした。
今思うとかなり動揺していたんだと思う。結局直ぐに考え直して、ふざけただけということにしようと決めた。
ところが翌日、関田は学校を休んだ。
熱が出て身体がだるいと連絡が来て、メモは見てないんだと分かった。ホッとして教科書を回収しに行ったら、見上げた先に良が立っていた。
「ああ、関田の」
頬がほわっと熱くなったのを覚えている。
ふんわりと五センチほど浮き上がるような感じだった。
今までも関田といる良を見かけたことはあった。関田よりも少し背が高くて、体型はやせ型。制服をこなれたように着こなして、かといってアクセサリーなんかは付けておらず、姿勢がいいところに品の良さを感じた。
「一日に一つくらい良い事しなさいよっていう戒めみたいな名前だよ」
自分の名前をそう説明した良に、澤田さんが「一日一善の一善」と名乗ったのを思い出して笑ってしまった。
俺の笑窪と八重歯が気になると言う良に口元をじろじろと見られて、夢でしたキスを思い出して教科書で顔を隠した。良は隠した俺の顔を両手でひっぱり出そうとしてきて、可笑しくてすぐに降参した。
自分が書いたとは言えない呼び出しの紙に従って、誰も来るはずのない裏階段を並んで見下ろした。
誘われるまま一緒にトトールに行って、半分くれたベーグルサンドはとびきり美味しかった。
初めて会話をするのに少しもよそよそしさがなくて、むしろ安心感があった。
澤田さんが俺の好みであると仮定すると、そういうところに惹かれたんだと思う。
偶然出くわした元カノとのやりとりや、彼女の今の彼に対しての所見もあっさりとしていて、聞いていて心地よかった。関田と違って話に流れやオチがあったし、関田と同じように毒がなかった。
まさか二日目にあんなことになるなんて夢にも思ってなかったけど、俺にとっては最高の初体験だった。
柔らかいベッドの上、お互いからシャンプーの香りがして、凄くドキドキした。
いちいちまごつく俺の手を引くように、一つずつ初めてを奪っていく。
ゲイなのかななんてとぼけた俺に、自分はバイかもと笑って。
良の身体は澤田さんのとは違って厚みはなかったけど、その分大きさがあって、高い体温に包み込まれると眩暈がするほど気持ちが良かった。
すぐそばで笑いかけられると鼻がむずむずした。
男は初めてだというのに、良は一つもためらわずに俺の体中に触れてくれた。
クラシック音楽と室内を照らす稲光。
小学六年生のあの日、磔にされた俺の前向きな心を溶かしつくしたあの雷雨。
同じ天候、そしてベッドの上で、良の舌が膝の手術痕に触れたとき、あの夜の自分を慰めてもらっているような気持ちになった。
雷雨が俺にもたらすネガティブな感動が簡単に裏返った。
戸惑うふりをしていたけど、本当はもっと触れて欲しかった。欲求が今にも溢れてしまいそうだった。
雷も初めてもちっとも怖くなかった。あの大きな手に触れられてさえいれば。
翌朝目覚めた瞬間は夢かと思ったけど、重たい脚が絡んだままだった。
すうすうと寝息を立てる無防備な横顔を眺めていると、微かに髭の伸びた口元に気が付いて、俺は思わず自分の鼻の下に手をやった。
急に不安になった。良は髭の伸びた俺を見て平気だろうかと。
でも大丈夫だった。
目覚めた良は俺に擦り付いて、髭が痛いと笑った。
俺は笑いながらうつ伏せて、なぜか出てきた涙をシーツで拭った。
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