第23話 旅の終わり



 目が覚めた時、澤田さんの分厚い手はまだ俺の右手を握っていた。

 車内はまだ暗い。そっと手を外して澤田さんのスマホの画面をタッチした。

 時刻は二時を過ぎたところで、幾つかの通知が溜まっている。一番上の通知に、『ミホも知床連れてけよタコ』と書かれていて笑ってしまった。恐らくこれは澤田さんの妹のミホさんだ。


 トイレに行きたくなって助手席から外に出た。

 靴下を重ね履きをしたせいで靴がキツい。

 何台かの車が間隔を取って止まっている。キャンピングカーもあって、きっと車中泊仲間なんだろうと思った。

 霧が出ているのか街灯がぼんやりと霞んでいる。ぶるっと身体が震えて、上着を着てくればよかったと後悔した。


 早足にトイレに向かっていると遠くで変な音が鳴った。

 鳥の声だろうか、それにしては変わった音色だ。


 高音が「ピー」、間が空いてまた「ピー」、もう一度「ピー」と鳴って、次は少し音が上がって「ピー」。

 それが最初に戻って三回同じ音が続き、そして四度目にはまた音が上がってピーと鳴った。


 鳥なのかな、金属音のようにも聞こえる。

 俺は急にぞわぞわとして明るいトイレに駆け込んだ。



 用を済ませて手を洗い、ペーパータオルを捨てて戸口に向かおうとしたところで、そこに男が立っていた。


「わっ!」


 男は若く、十代の終わりか二十代になったばかりという風貌だ。


「なんだよ」


 男は飛び上がった俺をむっとしたように睨んだ。

「ごめんなさい、びっくりして」

 さっきの謎の音もあって、すぐに心臓がドキドキと早鳴った。

「お前いくつ」

 男は入り口を塞ぐように立ったまま、俺を値踏みするように頭からつま先までを視線でなぞった。

「中一です」

「一人?」

「いえ、知り合いのお兄さんと」

「ふーん」

 聞いておいて男はつまらなそうに鼻から息を吐いた。

 なんだろう、嫌な感じがする。

 男は眠っていたような見た目ではない。黒のジャケットとブラックデニム。ブーツも黒で、ポケットから黒いレザーグローブの指先が飛び出ている。

 ふとそこで耳がエンジン音を聞きつけた。ドッドッドッという特徴的なバイクの音がしている。一台ではなくて何台かあるようだ。

「コージ!」

 外で誰かが叫んで、男が舌打ちをした。

「金」

「え?」

「金くれよ」


 ――ああ。


 ああとしか言いようがない。北海道に来て三日目に見知らぬバイク男に金を集られるとは。

 しょうがないか、いい出会いもあれば悪い出会いもある。幸い見崎さんに言われた通りお金は分散してあった。見崎さんありがとう。

 ポケットから財布を出して男に渡した。

 素直に言うことを聞く俺に、「お」と嬉しそうに口角を上げ、コージと呼ばれた男は財布を開いた。

「コージ!!」

「うるせえな今行くよ」

 呼ばれた声に悪態を吐いて、コージは俺の財布から一万円を抜き取った。

 これでなんとか引いてもらおう。万札が入っていて良かった。千円だったら少なすぎると殴られたかもしれない。


「サンキュー」


「なにがサンキュー?」


 ハッとした俺と男の後ろに澤田さんが立っていた。

「あ」と俺が声を上げるのと同時に、男が澤田さんに向かって猛然と突進した。

 不意を突かれた寝起きの澤田さんは、どうっと後ろに倒れた。

 男は倒れた澤田さんを飛び越えて姿を消し、バイクの音がけたたましく鳴って走り去っていった。


「澤田さん!!」


 俺は閉まりかけたドアを押しのけて、ほとんど転ぶように澤田さんのそばにしゃがみ込んだ。

「いってぇ」

「大丈夫ですか!?」

「大丈夫、尻をぶつけただけ」

 のっそりと上半身を起こした澤田さんは腰のあたりを押さえている。

「ほんと? ほんとに!?」

 俺の身体は今頃になってガタガタと震え始めた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 どうしよう俺のせいだ。俺に付いてきたから。

「蓮のせいじゃないよ」

「ごめんなさい澤田さん……」

「蓮、大丈夫」

 微笑んだ顔が俺を覗き込んで、分厚い手が震える肩を撫でてくれる。

「ほんと?」

「ほんと。それより、お金取られたのか?」

 よいしょと起き上がった澤田さんが、男が捨てていった俺の財布を拾った。

「一万円だけ。見崎さんに言われた通り分けておいたから」

「通報するか? 監視カメラあるぞ?」

 澤田さんの視線の先にカメラを見つけて、首を振った。

「いい」

「本当に?」

 小銭が鳴るお財布を受け取ってポケットにしまった。

「澤田さんに迷惑掛けたくない」


 澤田さんの服の汚れを払って一緒に車に戻った。

 変な音はまだ鳴っていて、澤田さんがトラツグミだと教えてくれた。

 靴を脱いでトランクのドアから乗り込み、マットレスの上でほーっと息を吐いた。


「怖かったか?」

「少し」

 男と対峙した時はガッカリした気持ちだったけど、澤田さんが突き飛ばされた時は怖かった。

「熊じゃなくて良かったな」

 確かに、戸口にいたのが熊だったら澤田さんの助けは間に合わなかっただろう。

 澤田さんの軽口にようやく頬が緩んだ。

 室内灯がゆっくりと落ちて、車内が暗転した。

「澤田さん、本当に怪我してない?」

 暗闇で手を伸ばすと、澤田さんの丸い膝に触れた。

「大丈夫だよ、俺は身体が分厚いからな」

「よかった……」

 ほっとして、でも申し訳なくて、やっぱり少し怖くて、俺は膝に触れた手のひらを頼りに澤田さんの胸に頭を寄せた。

 戸惑った気配の後、温かい手が俺の背中を摩ってくれる。

「冷えてるな」

 ガサガサと寝袋が引っ張られ、俺の身体を包み込んだ。

「俺はすぐ人に迷惑をかける。いつもこう」


 北海道に向かう飛行機に乗ってからずっと高い位置にあったテンションが、ついに浮力を失って落ちていく。暖かく包み込まれて安心して、いつもの定位置へと戻っていく。冷たく暗い、井戸の底のような所まで。


「さっきのは蓮のせいじゃないだろ?」

「そうかな、なんだかもう運命みたいに感じる。人に迷惑かけてばかり」

「俺は尻もちだけど、お前は一万円だぞ?」

「それだって見崎さんのおかげで一万円で済んだ。俺は見崎さんのなんのきっかけにもなれなかったのに」

「そんな風に思うな、あれはあの人の問題だ」

 そうかな、俺が普通の子どもなら、何か奇跡的な化学反応が起こってたんじゃないのかな。

 また家族に会いに行こうと思えるような、見崎さんの人生を変えるような。

「あんまり落ち込むな、俺は励ますのは得意じゃないんだ」

 大きな手が黙る俺の後頭部を優しく押さえた。

 やっぱり澤田さんはあったかい。

 目を閉じると澤田さんの心音が聞こえた。

「ここに死にに来たんじゃないんです。ただちょっとの間、消えちゃいたいたかった」

「そういうこと言うなって」

「ごめんなさい」


 俺は消えてしまいたかった。

 家族がキャンプに行って帰ってくる二日間だけ。その間だけなら俺がこの世から消えても家族は幸せでいられる。

 こんな俺が死んでも両親は悲しむから死んだりはできない。だから遠くへ行ってみようと思った。せめて海を超えて、景色のいいところへ。目的は達成できた。


「明日家に連絡します」

「それで良いのか?」

「うん。家族以外の人に迷惑を掛けたら、結局家族にも迷惑になるから」

 心配してるだろうか。葉書が届いてるといいけど。


「大人になったら」


 顔を上げたすぐ先に澤田さんの顔があった。

 唇がそっと微笑みかけてくれる。


「大人になったら好きに生きられるから、もうちょっと頑張んな」

「俺でも生きていけるかな」

「何とでもなる。資格とれ、どこでも使えるやつ」

「どこでも? なんだろう」

「勉強は好きか?」

「うん」

「いいぞ、選び放題だ」

 手が髪を撫でてくれる。気持ちが良くて目を閉じて、また澤田さんの胸にもたれる。

 勉強は好きだ。褒めてもらえる数少ないチャンスだから。

「資格か、どんなところでも就職先があるのはなにかな」

「考える時間はいっぱいある」

「……うん」

「眠いか?」

 言われると少し眠いかもしれない。

「うん」

「寒くないか?」

「少し」

 澤田さんは袋からスウェットを取り出して俺に着せた。

「ぶかぶかだな」

 寝転んだ俺を覗き込む影が笑った。

「澤田さんの匂いがする」

 大き過ぎて余っている袖に鼻を押し付けると、柔軟剤だろうか、優しい香りがする。

「ちゃんと洗ってある」

「うん、いい匂い」

「ほんとか?」

 ああそうだ、言葉を足さなきゃ。

「あったかい、太陽みたいな匂いがする」

 また鼻の奥がむずむずする。太陽を思い出してくしゃみがしたくなったのかな。

「おやすみ蓮」

「おやすみなさい」

 澤田さんの匂いに包まれて、ゆっくりと呼吸をして、でも吸い込む時は少し震えた。

 





「もしもし、母さん?」

「蓮!! あなた今どこにいるの!!」

「知床」

「何ですって!? なんで知床になんかいるの!!」

 母さんの声に怒気が含まれている。まだ帯広で出したハガキが届いてないのかな。

「ちょっと世界遺産が見たくって」

 向かいで澤田さんがからかうように肩を上げた。

「はっ!? あなたっ何を言って――」

 珍しく母さんが言葉に詰まっている。

 俺はと言うと意外にも晴れやかな気持ちだった。無事は知らせたし、ものは試しだと思って最初に決めていたプランを遂行していいか聞いてみることにした。

「もしいいなら、このまま網走と旭川と札幌も見てきたいんだけど」


「今すぐ帰ってこないと警察に捜索願い出すわよ!!」


 やっぱり駄目だったか。


「分かった。飛行機がそっちについたらまた連絡する」

「すぐに帰ってくるのよ!!」

「うん」

 電話を切ると澤田さんが噴き出した。

「めちゃくちゃ怒ってるのによく旅を続けようとしたな」

「聞くだけ聞いてみようと思って」

「ダメだって?」

「今すぐ帰らないと捜索願い出すって」

「あーあ」

 澤田さんは笑って公衆電話にもたれかかった。




 中標津空港に向かう途中、澤田さんが天に続く道というところを通ってくれた。

「天国に続く道?」

「天だよ。死ぬな」

 始めは、「はあ確かに真っすぐだ」なんて思っていたけど、それはただの直線道路で、そこを右に曲がると思わず「あーっ!」と声が出た。



 下りながら真っ直ぐに伸びていく道、その終わりは遥か遠く、空に溶けている。



「あの先はどうなってるんですか!?」

「普通の分かれ道だったはずだぞ」

「えっ、海に突き当たってるとかじゃないの?」

「いいや」

「ええーーっ!!」


 前のめりで大騒ぎする俺に、澤田さんは可笑しそうに肩を揺らした。しかも澤田さんは無慈悲にも、道の半ばで左折した。


「え、まだ続いてるのに!! ちょっと澤田さん!!」

 カメラを構えていた俺は怒ったけれど、澤田さんは、「空港に行くんだろ」と知らん顔をしている。

「えええーーーーーっ!!」

「うるせえなあ」

 テンションが上がっていた。寂しかったからだ。

  



「すぐに成人だ。大学に行くにしたって十年くらいか?」

「うん」

「大人になって、それでも消えたくなったらまた来いよ。こっちは人が少ないから蓮もゆっくりできるかもしれない。俺もいるしな」

 先の見えない俺の未来にも澤田さんは居てくれるらしい。もちろんこれは社交辞令だ。

「これ、俺の番号」

「え?」

 澤田さんは小さなメモ紙を俺の手に握らせた。

「無事着いたら連絡しろ。あとまた悩んだ時でも」

 社交辞令じゃなかった。

 これがどれくらい嬉しいことか、きっと澤田さんは分かっていないだろうな。

「でも、見つかったら迷惑が掛かるかもしれないし」

 両親は怒っていた。きっと帰ったら俺の荷物も改めるだろう。

「じゃあ覚えな」

「え?」

「番号、ほら早く!」

「は、はい!」

 澤田さんに急かされて、俺は慌てて紙を開いた。

「えーと、080の2——」

 澤田さんの電話番号を頭に叩きこんで、お別れの準備を整えた。


「お世話になりました」

「元気でな」

「はい。見崎さんにもお礼を言っておいて下さい」

 サッカークラブで教わった通り、深くビシッと頭を下げる。

「蓮」

 顔を上げた俺の頬に澤田さんの指が触れた。

「お前はもっと笑え、笑うとめんこいよ」

 また鼻の奥がむずむずとしてきた。正直空港に着いてからずっとむずむずしている。

「わかった」

 俺は頷いて、八重歯を剥き出しにして澤田さんに笑って見せた。

 北海道の旅の終わりは、澤田さんの笑顔となった。





 旅は途中で無事に終わった。

 両親は見たことがないほど怒った。初めてこんなに怒られたと思う。正直ちょっと笑ってしまいそうになった。

 良いことと悪いことの区別が付いているはずだと何度も言われた。ついている。そして迷惑を掛けたことは悪かったと思うけど、大抵の旅の終わりがそう締めくくられている通り、行って良かった。

 両親は多分、俺が反省していないと分かったんだと思う。実際は、『反省』はしていたんだけど、『後悔』はしていなかった。

 その日からお小遣いを止められ、お金は必要時に支給となった。

 そして二人は俺からスマートフォンとインスタントカメラも取り上げた。

 スマートフォンは高校生になったら、カメラは成人したら返しますと言われた。

 それは生まれて初めての純然たる罰だった。


 井戸の底に溜まった汚泥に埋まっていくようだった。

 嫌だと、返せと言うべきなのかもしれない。せめて思い出だけは。

 普通の思春期を迎えた中学生なら言えたのかな。でも俺は反省はしていたし、罰を受けるべきだと思った。

 一人部屋も取り上げられ、下の和室の一つを与えられた。そこはおばあちゃんと襖一枚で隔てられた六畳間で、元はおばあちゃんの部屋だった場所だ。


「部屋とっちゃってごめんねおばあちゃん」

 襖の隙間から謝ると、おばあちゃんはそばに座って俺の手を取り、「楽しかったの?」と、こそっと言った。

 俺はおばあちゃんの小さな手を見ながら、澤田さんの分厚い手を思い出した。

「楽しかった」と告白すると、おばあちゃんはうんうんと頷いて、「また大人になったら行っておいで」と頭を撫でてくれた。

 俺は鼻がむずむずっとして、ついにぽろっと涙がこぼれた。するとそれからは止まらなくなって、次から次へと溢れてきて、おばあちゃんがいっぱいティッシュを握らせてくれた。


 俺の記憶にある限りでは、それが人生で初めての涙だった。

 物心がついてからただ泣くこともしなかった自分が、昔も今もどれほど両親にとって奇妙な子どもだったんだろうと思うと、酷く悲しい気持ちになった。


 俺は変な子どもだった。今は変な中学生だ。

 きっとこのまま変な高校生になって、大学生にも多分なる。

 早く何か資格を取って大人になろう。家を出て、両親をこの変な子どもから解放してあげよう。

 だからそれまでは井戸の底に埋まってじっとしていよう。目に焼き付けた、命の盛りを待つ道東の風景と一緒に。

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