第22話 蓮の旅 3
知床国立公園に着いた時、ここが旅の終わりだと分かった。
今までで一番美しい風景だったせいかもしれないし、家族が帰ってくるだろう時間が迫って、気持ちが萎えたのかもしれない。
「どうした?」
蛇行して続く高架木道をぽくぽくと鳴らして歩きながら、黙ったままの俺を澤田さんが覗き込んだ。
「いえ、凄くきれいで」
咄嗟に笑顔を作って、四方に広がる自然風景に目を移した。
釧路と同じく枯草色をした大地は弱く起伏があり、大抵が笹に覆われている。
雪解け水なのか、沼のように浸っている場所もあって、思い出したようにぽつっと木が生えていたりするけれど、まだ葉は芽吹いていない。
前方はオホーツク海が、後方には知床連山が雪を頂いて、足元をちょろちょろする人間など目に入っていないかのように海の彼方に面差しを向けている。
世界自然遺産に登録された知床は、生態系や環境にも多くの魅力があるんだろうけれど、無知な子どもの俺をも圧倒するほどの美しさがあった。
そしてその力強さ故に、ここが旅のクライマックスなんだろうと感じてしまった。
この木道を突き当たりまで進んだら、折り返す道は旅の帰路となる気がした。
両親と弟のキャンプへ行く計画を知った瞬間に突如湧きあがった旅への熱意がすっかりと消え失せて、この先の人生を歩むために不可欠だと思ったあの決意も、いつもの俺の特異性が発揮された無鉄砲のような気がしている。
俺はさりげなく澤田さんの後ろについて、作った笑顔をしまいこんだ。
観光客は日本人ばかりだった。最近はどこの観光地も外国人で溢れているけど、すれ違う二人組や家族連れは、みんな俺の理解できる言葉で語らいながらすれ違っていく。
道中に設置された記念撮影場所でパチッと風景を切り取ると、不意に既視感に襲われた。
「見崎さんの家にもここで写した写真がありました」
呟く俺の横で澤田さんが、「あったか?」と周囲を見回す。
俺は新しい記憶の引き出しから、夕べ眠った和室の壁にあった2Lサイズの写真を取り出し、指で撫でるように写る人たちを一人一人頭に浮かべた。
「奥さんとお子さんたち、ご両親も一緒だった。山には雪が無かったけど」
「そうか……」
呟いて視線を落とした澤田さんに、俺はついその訳を知りたくなってしまった。
「澤田さんは見崎さんのご家族のことを知ってるんですか?」
黙ったまま、澤田さんの視線がチラと俺を見た。
「あ、聞きたいわけじゃないんですけど!」
俺が慌てて手を振ると、澤田さんはポケットに片手を突っ込んで、トントントンと短い階段を降りていった。
「俺も会ったことはないよ、でも話は聞いたことがある。酔っ払った見崎さんからとか、会社の人から、ところどころ」
「そうですか」
「気になるか?」
俯いた視界の先で澤田さんが俺を見上げた。その後ろを小鳥がひと笛鳴きながら過ぎていった。
出会ったばかりの俺が直接見崎さんに訊ねる勇気は出なかった。でも、もちろん気にはなった。
「写真に写る人たちはみんな幸せそうだったから、どうしてなんだろうって」
曖昧な角度で首を傾けた俺に、「うん」と返事が返されて、その会話はそこで途切れた。
澤田さんが話そうか迷っているのか、それとも話す気がないのか、俺は黙ることでどちらの可能性も残すことにした。とは言え、聞いたところで明るい気持ちになれる話ではないだろう。俺が一方的にお世話になった見崎さんのプライベートをこれからも同じ会社で働く澤田さんが勝手に話していいものかは、内容の分からない俺には判断できない。だからやっぱり黙るしかなかった。
会話が失われても俺と澤田さんの空気は気まずくならなかった。これがたくさん会話をすることで得られる信頼感ってものなのかな。
いや、今日会ったばかりでなにを言ってるんだ。恐らく澤田さんは俺を家出少年だと思っているのに。
ふと目をやった高架木道のすぐ先にワイヤーが張られていた。注意書きによるとそれは電気柵で、ヒグマが木道をよじ登ってきた時のためのものらしい。安心する反面、この高さでも登って来るのかという恐怖も植え付けられる。
――と、前を行く家族連れが足を止めた。
彼らの視線の先を追うと、下の茂みで一頭の雌の鹿が草を食んでいた。
毛に覆われた耳をレーダーのようにあちこちに向けながら、一心に草を咀嚼している。
人が危害を加えないと知っているんだろう。そして騒がしいここならヒグマの危険も少ないと分かっているのかもしれない。
女性が優しい声で幼い男の子に鹿の存在を教えている。横では父親が立派なカメラを下方へ向けて構えた。
俺はもう興奮することはなかった。だってエゾシカはめちゃくちゃいるから。
ついさっき野付半島で一緒に写真に収まったくせにと自分に突っ込みながら、まるで地元民のような気持ちで彼らとすれ違った。
俺と澤田さんの沈黙は、木道の終わりの絶景が破った。
「わぁー!」
「俺たちの日頃の行いが良いみたいだな」
澤田さんの軽口に笑って、小走りで駆け寄った柵から身を乗り出す。
静かな湖の水面に、抜けるような青空と連なる山々がハッキリと映っていた。
「天気もいいし風もない。いい日に来れたな」
「はい!」
やっぱりここはまだ初春だ。日陰には雪も残っていた。でも日差しを含んだ風は暖かく、乾いた草木を励ますように吹き渡っていく。俺も髪を乱されて、その優しい心地に目を閉じた。
瞼の向こうに太陽の光を感じる。胸がほんのりと暖かくなって、鼻がむずむずとする。じっと長い寒さに耐えて、ようやく巡ってきた春を知る芽の気持ちはこんな風だろうかと想像する。
「キレー!」
隣で上がった感嘆の声に目が開いた。見ると若い女性がスマートフォンを掲げている。
そうだと思って、俺もポケットからカメラを出した。
ファインダーを覗き、完璧な一枚を切り取る。
パチッ
「あら懐かしい、インスタントカメラ?」
振り返ると中年の女性の視線が俺の手元に注目している。
「そうです」
「貸して、撮ってあげる!」
「あ、ありがとうございます!」
半ば奪われるようにカメラを渡し、看板の後ろに澤田さんと並んだ。
「はい、撮りまーす!」
元気のいい掛け声のあとパチッと音がして、おばさんがくすくすと笑いながら澤田さんを見る。
「ああこれこれ、この巻くのが楽しいのよね」
「自分もそう思います」
カメラを寄こしたおばさんの爪は、動く度に色を変える不思議なネイルが塗られている。
「ありがとう、それじゃあね」
おばさんは俺たちに手を振って、待たせていた家族と一緒に木道を戻っていった。
「……おばさん、笑ってましたね」
なんとなく予感がして澤田さんを窺う。
「俺が思いっきり変顔したからな」
「どうしてそんなことしたんですか?」
ぷっと笑って問い詰めると、澤田さんは、「いやー」と後頭部を掻いた。
「そのカメラでなに写したか全然思い出せなくてさ、現像してすげー変な写真ばっかりだったら、今お前と澄ました顔で写るのが恥ずかしいような気がしたんだよ」
「なにそれ」
分かるような分からないような理由だ。
俺はまだその変顔を見ていないのに、どうしようもなく笑いが込み上げて止まらなくなった。
澤田さんはツボに入っている俺を無視して、「そっちの柵の向こうの散策路は行くか? 熊が出るかもしれないけど」と、黒く厳ついゲージを指した。
俺はなおも笑いながら、熊に会うのは嫌だなと思って首を横に振る。
一向に終わらない俺のくすくす笑いに、澤田さんはついに呆れて、「行くぞ」と俺の手を引っ張った。
俺は澤田さんに手を引かれ、来た道をぽくぽくと歩いた。
「ふふっ」
「笑いすぎ」
「写真見るの楽しみ」
「俺は少し怖い」
「ふふふっ」
俺は笑いすぎて喉をひくひくとさせながら、澤田さんのあったかい手に引かれ、自分を取り囲む美しい風景の全てを記憶しようと首を動かし続けた。
「今夜はホテルがいいか? 一応車中泊もできるけど」
コンビニの駐車場に車を停めた澤田さんが、スマホの画面に指を滑らせる。
「つっても空きがあるかなー」
俺はお土産屋さんで買った熊よけの鈴を手の中で転がしながら、車を降りる度に腰を伸ばしていた澤田さんを思い出し、「澤田さんはベッドで寝た方がいいんじゃないですか?」と思ったことを言った。
「別にどっちでもいいよ、そこまでジジイじゃない」
卑屈な口ぶりに、また自分の言い方が悪かったかと顔を上げると、澤田さんは俺を見て微笑んで、「どうする?」ともう一度聞いた。
「じゃあ、車中泊してみたいです」
「いいよ」
ホテル街を抜け、トイレのある広いパーキングエリアで車中泊をすることにした。
澤田さんは後ろの座席を倒すと、慣れたようにエアマットレスを足踏みポンプで膨らました。
マットはフラットになったスペースにピッタリ収まって、ちゃんと寝心地も良さそうだった。車には他に厚い毛布と、俺が持ってきたようなペラペラじゃない寝袋も積まれていて、それがファスナーでオープンになって掛布団に変わった。
「これはなんですか?」
「ポータブル電源」
「ポータブル電源。これは?」
「電気マット」
「電気マット」
いちいち繰り返す俺に、「ま、凍死はしないだろ」と澤田さんが笑った。
「澤田さんはあったかそうですもんね」
俺が言うと澤田さんは一転妙な顔をして、「それはどういう意味?」と首を傾げる。
「手があったかかったから」
何か変だったかと思いつつ答えると、「太ってるからかと思った」と返ってきて、俺は大慌てで否定した。
「お前そうやって時々人の気持ちを妙にするんだな。それで生きにくいんだろ」
「そ、そんなことないです!」
否定したが、つい項垂れた。
「……普段は黙っているので」
そうだ、俺は無口。喋るとこんなことになるんだな。今後も無口なままでいた方がよさそうだ。
俺が新たな学びを得ていると、大きなトートバッグをごそごそとやっている澤田さんが、「それじゃダメだよ」と言った。
「え?」
「どんどん話していけ、それで時々そういう無神経なことを言っちゃうやつとして生きろ」
「えっ」
驚く俺にフリースのベストと厚手の靴下を寄こし、「大丈夫、言葉を足せばいいんだよ」と澤田さんは笑った。
「言葉を足す?」
「そ、お前あったかそうだよな、手があったけーし。そこまで言えばいい」
確かにそれなら誤解は生まれないかもしれない。
「まあもっと仲良くなれば、お前温かそうだよなデブだし、でも許される」
「ほ、ほんとに?」
「友達ってそういうもん」
「そういうもん」
そういうもんか。
確かにドキッとするような強い言葉のやりとりが笑顔で交わされるのを目にすることはあった。サッカーチームでは特に。
俺は絶対に言わなかったし、そういう絡み方をされたこともなかったけど、でもあれが仲良しの目安だとすると、俺が馴染んでいたと思っていたチームメイトとも温度差があったのかな。
部活に誘われなかったのもそのせいだったりして……。
続けるつもりもなかったくせに急に自信が無くなった俺は、車の縁に座って厚手の靴下をのろのろと履いた。
「なに考えてる?」
澤田さんの見透かすような眼差しに、唇がむにむにと動く。
「仲良くなるってどうするんですか?」
急に幼稚園児みたいなことを言いだした俺に、澤田さんは大きく噴き出した。
「俺とはどうやって仲良くなったんだっけ?」
「たくさん、話した?」
自信のない回答にまた笑われる。
「そうだな、どうでもいいことでもなんでも話して、お互いを知るのが一番の近道かな」
「わかりました」
くすっと笑う澤田さんの顔は見なかったけど、多分呆れているんだろう。
すっかり夕焼け空になり、縁石に座りながらコンビニで買ったカップラーメンを食べた。
「美味しい!」
「外で食べるとなんでか美味いよな」
微かに潮風が吹いてきて、空には雲はあるものの、綺麗な星も瞬いている。足元にはおしゃれなランプ。気持ちが勝手にうきうきしてしまう。
「俺、カップラーメン初めて食べたんです」
「は!?」
「親が好きじゃなくて」
びっくりしている澤田さんの横で初めての味噌ラーメンを啜る。抜群に美味しい。
「お前、いいとこの子どもなんだな」
「いえ、普通の家庭です」
澤田さんは、「そうかあ?」と疑うような声を上げ、自分のラーメンのスープをまじまじと見ながら啜った。
「カップラーメン食ったことない人間なんて初めて見たわ」
「実はラーメンもあんまり食べたことがなくて、今日のお昼に食べたのが三回目かな。給食では出たけど」
「お前、自分がおかしいみたいに言うけど、お前の家族がおかしいって可能性はないのか?」
「ないと思います。食に関してはかなり薄味な家族だとは思いますけど」
そう言いつつ、コンビニおにぎりも始めて食べると言ったらどれくらい驚かれるだろうと考えた。
「親は大切に育ててくれてます。俺自身が人と違う自分を受け入れきれてなくて」
「それで一人旅なのか」
スープに浮かぶコーンを箸で摘まんで口に入れながら、仲良くなるには話すこと、と心で唱える。
「やることがいちいちうまくいかない感じなんです。昔から。これからもそうかもって思うと、自分なんて居ない方がみんなも楽なんじゃないのかなって」
澤田さんは黙ったまま鍋にペットボトルの水を注ぎ、また火を付けた。
「死にたいわけじゃないんです。でも、ペラペラの寝袋で凍死しても、そういうことでいいかなって」
死んじゃってもいいやは、死にたいとも、死のうとも違うと思っていたけど、口にしてみると何も変わらない気がした。
これじゃあ、死つもりはないって言ったのも嘘になってしまうかな。
そっと息を吐いたところで、ステンレスのカップが小さなテーブルに置かれた。
「見崎さんの娘さんもさ、家出したんだ」
「え?」
「中一のゴールデンウィークに」
「そうなんですか?」
返事をするものの、上手く情緒が働かない。
「だから蓮のこと、なんかの運命かなって言ってたよ。色々話を聞きたいけど、変に刺激もしたくないしって」
「そうだったんですか……」
「うん。それで俺に連絡が来た。一人で行かせたくないって」
家出した、中学一年生の娘さん。
頭の中に、制服姿の澄ました顔の女の子が浮かぶ。彼女のそれ以降の写真は無かった。
「あの、その娘さんって――」
前のめりになった俺に、澤田さんは笑って首を横に振った。
「大事にはなってない、ちゃんと見つかって、今は結婚して子どももいる」
「よかった」
ホッとする俺を笑って、澤田さんは小さな袋を破いてドリップコーヒーを取り出した。豆の香りが漂って、カップの縁に乗せられる。
「でもその時に色々とあって家族仲が拗れちゃったみたいで。そこら辺は詳しく話してくれたことはないけどね」
そういうこともあるのか。
俺が家出をしたせいでうちの家族が壊れちゃうこともあるのかな。それはあんまり想像していなかった。
「見崎さんは優しい人だし、面倒見もいいんだ。仕事もきっちりしてるしね」
「はい」
不安がもたげたまま相槌を打つ。
もう家では何事かが起こっている時間だ。
「今は普通に連絡も取ってる。孫の写真だって送られてくる。最近はずっとスマホ眺めてるよ」
確かに、まるで若者みたいにスマホを眺めていた。持ってこなかったと言った俺を驚いた目で見て、それから黙ってしまった。
「年賀状だって来てるし、結婚式だって招待されてたんだ。でも何を後悔してるのか、今みんなが幸せならそれでいいって会いに行かないんだ」
沢山の幸せな思い出が見崎さんを囲んでいた。その状況はそれらが失われた背景を想像させ、見崎さんは寂しいんだろうと勝手に考えていたけど、スマホを覗いている見崎さんは楽しそうだった。
でも話を聞けばやっぱり寂しい。中学生が結婚して子どもを産むまでの歳月を、あそこでどんなことを考えて暮らしていたんだろう。
「自分のせいで幸せが壊れちゃうって思うんでしょうか」
「そうかもな」
一体どれほどの後悔だったんだろう。
突然目の前に現れた俺を見て、見崎さんはなにを思っただろう。娘さんが帰らなかったその日を思い出したのかな。
いや、きっと俺が現れなくても思い出していたはずだ。そこへ俺が来た。
訳ありそうな俺を心配して、なにかしてやろうと思ったんじゃないだろうか。
なんらかの運命として俺が見崎さんの前に現れたんだとしたら、俺はどうするべきだったのかな。
思い返すと、見崎さんと出会ってからお別れに手を振るまでの間、俺はたくさんご飯を食べていただけだった。見せてもらった風景につまらない感想を言い、時々振られる話題には答えたけど、自分から話をしようとはしなかった。
エゾシカも見つけられず、ただぼんやりと釧路まで揺られていただけ。
もっと見崎さんと会話したらよかった。あんなに良くしてくれたのに。
なにもしなかったことを後悔したのは初めてだ。
初めての一人旅で最初に出会った人だったのに、笑顔を褒めてくれた優しい人だったのに、ただ通り過ぎてしまった。
沸々と泡を立てるお湯を眺めていると、心がこぼれた。
「なんなんだろ」
「ん?」
「周りの人はみんな俺によくしてくれるのに、俺はいつもそれになれない」
いい香が漂って、澤田さんが重ねた紙コップにコーヒーを分けた。
「もっと話してみな」
渡されたコップを両手で包んで、初めてのコーヒーをそうっと啜った。
「小さい頃は興味にあらがえなかった。そのせいで輪を乱して、周りに迷惑を掛けてました。なんとかそれを自覚してからは、人に迷惑を掛けないようにできるだけ静かにしていようって気を付けてた。でもサッカーを始めて、ゴールを決めたらみんなが喜んでくれた。俺にパスが回るとみんなが期待してくれた。何かしてっていう、そういうわくわくした目。そんな風に見てもらえたのは生まれて初めてだったから、嬉しくてしょうがなかった。でも五年生の時に膝が痛み始めて」
「怪我?」
「生まれつきの形状異常です。手術をしました」
「サッカーもうできないのか」
「いいえ、運動はできます。でも気が付いたんです。サッカーがあってもなくても根本的な自分はなにも変わらないんだって。そしたらなんだか、この先やっていけるのか自信がなくなってしまって」
迷惑を掛けるか掛けないか、俺に出来るのはそれだけだと思っていた。でも人に期待されて、飛び上がって喜ぶ姿を見て心が躍った。
「俺は蓮といて楽しいけどな」
「本当? 楽しいなんて初めて言われた」
「サッカーをしてた時はみんな喜んでくれたんだろ?」
「それはそうだけど」
「小さい頃は知らないけどさ、今はもうそこまで思い詰める必要があるとは思えないよ」
「失礼なこと何個か言った気がするけど」
澤田さんはくっくっと肩を揺らした。
「あんなの全然大したことじゃない。さっきも言ったけど、もっと相手に自分のことを知ってもらえ、大丈夫だから」
自分を知ってもらう? そんな勇気があるだろうか。
苦くて温かいコーヒーを啜っていると、ふと関田のことを思い出した。
手術をしてクラブに顔を出さなくなってから、毎日のように電話を掛けてきた。多分関田のお母さんが何か言ったんだと思う。
毎日掛けてくるのに大した話題もなくて、無言の時間も多かった。謎の生活音だけが受話器の向こうから聞こえてきたりして、何度か「もうかけてこなくていいよ」って言おうと思ったけど、関田がいつも「また明日」って言うから、なんとなくそのままの日々が続いた。
関田のおばあちゃんの話とか、マックの新作の話とか、俺の知らない学校の人の話とか、一生必要になることがないだろう関田の情報が俺の中に蓄積していった。
そしたらある日、「明日遊べる?」って言っていた。
言った自分に驚いていたら、「いいよ」って返ってきて、その日から時々遊ぶようになって、その代わりに毎日の電話はなくなった。
遊ぶと言っても、当てもなくブラブラとしたり、関田の家で漫画を読んだり、家族の話や学校であったことをぽつぽつ話すくらいなんだけど、電話よりもずっとそっちのほうが間が持つからよかった。
帰ってこの旅のことを話したら、関田はなんて言うかな。
「いっぱい考えてるんだろ?」
「え?」
「頭ん真ん中ではさ」
ランプの温かいオレンジ色の光が澤田さんを照らしている。俺のことも。
「うん」
「それを話して、相手のことも聞いてやるといいよ。仲良くなるって知ることだから」
「はい」
マットレスに座り込んで、横になる澤田さんを見下ろした。
「澤田さん、俺眠くない」
「ええ?」
澤田さんは室内灯が眩しいらしく、目を細めて俺を見上げた。
「コーヒーのせいなのかな」
「俺は眠い」
「まだ十時前ですよ」
「俺は眠いの」
「もう少し俺と話して下さい」
「どこが無口なんだよ見崎さん」
見崎さんに文句を言う澤田さんの肩を揺すったが、「はいはい、おやすみするんだよ」と宥められて、仕方なく横になった。電気マットがぽかぽかと暖かい。
「おやすみ」
ぽんぽんと頭を撫でられて、室内灯が消え、澤田さんの手が寝袋を肩まで引き上げてくれた。
しょうがなく「おやすみなさい」と言うと、「んー」と生返事が聞こえて、すぐにすうすうと寝息が聞こえてきた。
時々通り過ぎる車のライトが車中を明るくするのを見ながら、暗闇に目が慣れるまでじっとその寝息を聞いた。
明日からどうしよう。
どうするのかと澤田さんは聞かなかった。迷ってるって分かってるんだろう。
連絡を入れるまで親は心配し続けるだろうな。
こんなところまで来て見ず知らずの大人に助けられて、俺は何か変わったかな。
ああ、俺はやっぱり変わりたいんだ。
贅沢を言うなら、また誰かを幸せな気持ちにできるようになりたい。時々でいいから。
見崎さんを通り過ぎてしまった俺には難しいことだろうけど。
目が慣れてくると、すぐそこに頭を撫でてくれた澤田さんの大きな手があって、自分の手を重ねた。
大きくてあったかい。
「分厚い手」
「うるせえな」
寝ていたと思った澤田さんが笑って、俺の手を分厚い手で包み込んでしまった。
「寝るんだよ」
「はい」
分厚くてあったかい手に包まれた自分の手を見ながら、俺はなんだかずっとホッとした気持ちになって、すんなりと眠りに落ちた。
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