第21話 蓮の旅 2
翌朝、見崎さんのお母さんがほかほかのご飯にたっぷりのいくらを乗っけてくれた。
俺は幸せでたまらない気持ちでいくらご飯を頬張りながら、連休中にこんな見ず知らずの中学生を上司に任されて、澤田さんはきっとうんざりしているだろうなと覚悟した。
ところが九時前に現れた澤田さんは、豪快な寝ぐせが付いたちょっとふくよかな男性で、「知床久しぶりだなあ」とのんびりと言った。
「悪いな急に」
「いいっすよ」
二人のやり取りになんと口を挟んで良いか分からず、リュックを抱えて居た堪れない。
「気を付けて行ってこいよ」と、俺の頭をくしゃくしゃと混ぜた見崎さんは、澤田さんに「頼むな」と封筒を渡した。
恐らくお金が入っているだろうそれを見た俺は飛び上がった。
「あ、いやそれは自分が! 見崎さんにもお世話になってしまって!」
俺が今朝用意したお金を渡そうとすると、見崎さんは大声で笑い出し、「中学生からそんなもん受け取れるかよ! あ、あとお前、お金は分散してしまっておけよ」と唐突に旅のアドバイスをくれた。
「え、あの、でも」
まごつく俺を澤田さんが、「いいからいいから」と引っ張って、俺は大きな黒い車の助手席に押し込まれた。
窓から顔を出すと、見崎さんはにこにこと笑って、「またおいで、蓮」と手を振った。お母さんもエプロンで拭った手を振ってくれた。
俺はなんだか鼻の付け根の辺りがむずむずとして、澤田さんが、「危ないよ」と言うまで窓から二人に手を振り続けた。
澤田さんは知床に向かう前に、釧路湿原を見渡せる展望台に連れて行ってくれた。
駐車場で車を降りた澤田さんは、後部座席にあった毛玉だらけのニット帽で寝癖頭を隠していたけど、くたびれたニット帽と豪快な寝癖は、正直みっともなさではいい勝負だった。
「あれは何ですか?」
道路脇に、もこっと丸い枯れ草の塊が幾つかあった。何かの動物の巣だろうか。
「やちぼうずだよ」
「やちぼうず?」
「草だよ」
「草」
詳細を知らないのか語るほどでもないものなのか、澤田さんはそれ以上の説明をしなかった。
「なにもないだろ」
『釧路湿原』と書かれた記念撮影用の看板が設置されたデッキの上で、うーんと伸びた澤田さんは、ついでに大きな欠伸をしてから柵の向こうを望んだ。
日差しは暖かかったけど空気はまだ冷えていて、日の当たる部分がきらきらと濡れている。
「なにもない景色を見に来たので」
答えて、すうっと朝の空気を吸い込んだ。
美味しい水を飲んだ時のように、澄んだ空気を取り込んだ身体が少しだけ浄化される気がする。入れ替わりに、胸にあった気掛かりを吐き出した。
「なんで?」
心が身体に向いていたせいで、澤田さんの問いについ事実が溢れた。
「自分に何もないから」
澤田さんの視線を頬に感じながら、まだ枯草色の湿原を視界いっぱいに収めた。
帯広の展望台から見た十勝平野は、農地がずっと遠くまで広がっていたけど、釧路湿原はどこまでも自然が広がっている。人間の俺にはなんだか少し心もとない景色だけど、恐らくあの中でたくさんの生き物たちが暮らしている。
雪が解けて春が来て、緑の萌え出す気配にみんなきっとうきうきとしているはずだ。
ひと月も掛からず青々とするだろう湿原を思い浮かべながら、また少し鼻の奥がむずむずとするのを感じた。
「タンチョウだよ」
澤田さんに言われて空を見上げると、高いところを三羽のタンチョウヅルが連なって飛んでいた。
「わあ!」
「そこらでよくうろうろしてるけど、飛んでるの見るのは俺も久しぶりだな」
「そうなんですか?」
そこら辺でうろうろしているのも是非見たいと思いつつ、遠く見えなくなるまで悠々と羽ばたくその姿を追い続けた。
夜にストーブを付けるだけあって、道東は季節が少し遅れているようだ。
釧路より更に東にある知床峠は、今日は凍結していて封鎖されているようだった。
路肩で車を停めた澤田さんは、「どうしようかなあ」とスマホを見ながら迷っていたが、「やっぱあっちがいいか」と自分で納得してまた車を走らせた。
「あの今更ですけど、おやすみ中にすみませんでした」
「いいよ、予定があったわけじゃないし。車洗おうかなーって思ってたくらい」
澤田さんはやっぱりのんびりと言って、暖かくなってきたのかハンドルを握りながらもぞもぞと上着を脱いだ。
「でも、急に知らない子どもなんか任されて迷惑ですよね」
自分も上着の前を開けながら、改めて気まずい気持ちが湧いてくる。
「全然迷惑じゃないけどさ、君、家出してきたんじゃないよね?」
「へえっ?」
唐突な質問に素っ頓狂な声が出た。
澤田さんは俺の声に笑って、「一人旅の観光なら、もっと色々調べてくるだろうって見崎さんが気にしてたからさ」と続けた。
「そ、そうですか」
やっぱり俺の言動は不審に映っていたのか。
思えば見崎さんは最初は色々と俺に質問をしたけど、途中からは自分の話ばかりしていた。俺に事情があるのかと気遣ってくれたのかもしれないな。
察しの悪い自分に呆れるけど、それでも先を進めさせてくれたのは何故なんだろう。俺が家出してきた中学生なら、二人には迷惑が掛かるかもしれないのに。
「あと無口だとも言ってたな」
「え?」
澤田さんの横顔がふふっと笑って、「乗せてくれって言ったくせに、静かに外ばっかり見てたって」
言われた意味を考えていると、にわかに顔面がぞわぞわと痒くなった。
「もしかして、車に乗せてもらった時は会話をするべきなんですか?」
「まあ見ず知らずの人間を乗せるんだし? 黙ってたら怖いかな」
くすくすと笑われて、恥ずかしくなって頬を掻いた。
「そうですか……」
そうか、そういうものなんだ。
乗せてもらった俺があれこれ聞くのも失礼かと思って聞かれたことにしか答えていなかったけど、俺の方から無害な人間アピールをしないといけなかったのか。
「あの、死ぬつもりとかはないので!」
あ、家出を否定するべきだった。
でも言葉に嘘はない。何があってもしょうがないとは思っているけど、積極的に死ににきたわけではない。
「じゃあペラペラのテントと寝袋は、北海道の五月を舐めてただけ?」
「そうです」
きちんと情報が引き継がれていると分かって俺が身を縮めると、澤田さんはくっくっと肩を揺らした。
「怪しいと思ったのに、どうして見崎さんは俺を行かせたんでしょうか」
訊いてから、澤田さんにバトンタッチしたとも言えるのかなと思った。
「まあ君が訳ありだったとして? そのまま家に帰しても、なにも解決しないって思うからじゃない」
「解決?」
「死にたいほどじゃないにせよ、スマホも持たずに一人で北海道まで来てるんだから、多少は何かを思いつめてるんだろ?」
澤田さんは電波の途切れ始めたラジオを切って、ほんの少し窓を開けた。
思いつめているか? どうだろう。全くそんなことはないと言うことはできないんだから、そうだってことかな。
窓から入った外気が車内の空気と混ざり合って、俺の胸の内とも混ざり合った。
「……そうですね、区切りを付けたい気持ちはあります」
「何に?」
「今までの自分に」
「変わろうと思ってるんだ」
変わろうと? いや俺は変われない。
「いいえ、この自分でやっていかなきゃいけないんだっていう覚悟を持つためです」
「ふーん、なるほどね」
自分で言った言葉に気持ちを塞がれそうになった時、ふいに車が速度を落とした。
身体が前にのめって何事かと驚いたけど、澤田さんは何も言わず、同じく速度を落とした前の車の様子を見ながらゆっくりと進んだ。
すると道路脇に一頭の鹿がいるのが見えた。今にも道路に出てきそうで、前の車がそうっと距離を取って追い越していく。
「エゾシカ!」
「そうだよ、まだ見てなかったの?」
「はい! 小柄ですね、雌ですか?」
俺は嬉しくなってダッシュボードに身を乗り出した。
「あれは子どもだよ」
澤田さんが笑うのを聞きながら、茂みへと戻っていった姿を追った。
奥に何頭かの大人のエゾシカがいて、確かにあれは子どもだと分かった。
「全部雌だな、雄はもっと大きいよ」
「はー」
窓に張り付いてエゾシカを見送りながら、また車がスピードを上げた。
それからも、澤田さんが指を差す先にエゾシカがいた。
「めちゃくちゃいるだろ」
「めちゃくちゃいますね!」
最初の感動がなんのこっちゃと思うほど、エゾシカはたくさんいた。
「俺、これの前は軽自動車に乗ってたんだけどさ、鹿にぶつかって廃車になったさ」
「えっ!」
「死ぬかと思ったからデカい車に変えたんだ」
「そうなんですか」
確かにこの車なら乗っている人間の身は守られるだろう。鹿の方は死んでしまうかもしれないけど。
「熊はもっと大きいからな」
「外では寝ないようにします」
澤田さんは、「よしよし」と笑った。
俺は見崎さんでの失敗を反省して、澤田さんと会話をすることにした。
澤田さんは俺が頑張っているのに気が付いて、俺の尋問めいた質問に付き合ってくれた。
「下の名前を教えてください」
「かずよし」
「かずよしさん」
「一日一善の一善」
「ああ、わかりました」
「君のフルネームは?」
「天川蓮です。蓮の花の蓮」
「いい名前だ」
「ありがとうございます。澤田さん年齢は?」
「二十八」
「じゃあ、十五歳差だ」
「マジかよそんなに!? 中一ってもう十五も下なのかよ!!」
澤田さんが今日イチの声量で嘆いた。「俺の年よりも差の方が大きいです」と言うと、「あー」と変な声を上げた。
「生まれは?」
「生まれも育ちも釧路」
「一度も別のところに住んだことはないんですか?」
「一時期札幌で働いたけど、人が多過ぎてすぐ帰ってきた」
「そうなんですか」
「札幌で多いなんて言ってたら本当の都会に行ったらぶっ倒れるぞって見崎さんにはからかわれたけどな」
「そうですね、俺も東京とか大阪は住める気がしませんでした」
「本州人でも無理なのかよ。すげーな大都会」
言いながら澤田さんが外に指を向けた。すぐに見やったけれど見つけられない。
「鹿ですか?」
「いやキツネ」
「えっ!」
俺は色めいて身を乗り出したけど、結局キツネの姿は見つけられなかった。
「分かんなかったです」
しょんぼりする俺を澤田さんは笑って、「またいるよ」と俺の腕をポンポンと叩いた。
俺のしょうもない質問にも、澤田さんは飽きずに付き合ってくれた。
好きな色や好きな動物なんていう本当にどうでもいい質問を抜かすと、澤田さんは実家暮らしで、二つ上の姉と五つ下の妹がいて、趣味は釣り。身長は177センチで体重は内緒。お母さん似で、何故かお母さんのお姉さんにもっと似ているらしい。
二年前に飼っていたゴールデン・レトリバーを老衰で亡くしたらしく、見せてくれた写真の「ララ」はとても可愛いかったけど、一緒に写っていた澤田さんが今より随分と痩せていて、俺が無神経にも、「散歩って健康にいいんですね」と言うと、「どういう意味だよ」と笑った。
学生時代はアイスホッケーをやっていたと聞いて、「滑れるんですか!?」と再び失礼な驚き方をした俺に、「こう見えても滑れるんです」と澤田さんは目を細めた。俺は慌てて、「そういう意味じゃなくて!」と、自分も小さい頃に滑ったことがあるけれど、一度も手すりから離れられなかったという思い出話を語って、「滑れるなんて凄いです」と改めて褒めると、「そういうことか」と許してくれた。
時々悪い自分らしさが出てしまったものの、生まれて初めてこんなに人に質問をした。恐らく家族を含めたとしても、澤田さんの情報が一番多いと思う。ちょっと凄い。
俺の質問がネタ切れになってきたのを察知した澤田さんは、俺が食いつく食べ物の話や趣味の釣りの話題で間を持たせながら、今回の旅では寄ることができない場所にある北海道の風景や、遭遇した野生動物の話をしてくれて、あっという間に時が過ぎ、気が付くと市街に入っていた。
「ここはどこですか?」
「中標津町」
澤田さんは、「甘いものが好きなんだって?」と言って、ジェラート屋さんに止まってくれた。俺が買いますと言ったけど、澤田さんは、「いいからいいから」とダブルを二つ頼んだ。
俺は迷って迷って、人気と書かれた塩バニラとチョコチップにした。
一口食べて声が出た。
「しょっぱくてあまい!」
「塩バニラだからな」
「すごい! しょっぱくてあまい!」
「何回言うんだよ」
呆れた眼差しが向けられる。
「だって、澤田さんこれ食べた事あります?」
澤田さんは黒ゴマと抹茶という和風味で攻めている。
「どれ」
澤田さんは俺の塩バニラを一口食べると、「しょっぱくてあまい!」と俺を真似て叫んだ。
俺が堪らず声を上げて笑うと、「ほんとだ」と目を開いた。
「なにがですか?」
「笑うと笑窪がめんこいんだって見崎さんが」
「え、あ……」
確かにそう言われたことを思い出して、俺は照れくさくて俯きながらぱくぱくとジェラートを食べた。
「着いたよ」
着いたよ、と言いつつ車は走り続けた。
「え? ここが知床?」
「いいや、野付半島」
「野付半島」
ぽかんとする俺に、澤田さんが地図を渡してくれた。
助手席で広げてみると、知床よりも下にカマキリの手のような形状の海上に伸びる陸地があって、野付半島と書かれていた。
顔を上げて改めて辺りを見渡すと、左は漁のための建物が点々と並び、その向こうが海で、右は対岸に陸地のある湖のような景色だけれど、地図によると海だった。
「分かった?」
澤田さんの問いにぼんやりと頷きながら、左右両方が海で、その間を走っているんだという事実を脳内で理解しようとした。
「……分かった」
澤田さんの擦るような笑い声が耳の縁をくすぐった。
両側の窓が開いて、車内を海風が抜けていく。
今まで一度だって地図を疑ったことはないけど、こんな風な実感を持ったこともなかった。
手元の地図に描かれたところに確かに自分がいる。ただ水色で塗られた場所は海で、音を立てキラキラと輝いていて、水辺にはサギや小さな鳥がたくさん群れている。
「あ、あれってタンチョウ?」
前方に大きな鳥を見つけて声が出た。
「ん? ああそうだな」
「デカい!! 鶴でかい!!」
サギよりもさらに大きいタンチョウを見つけて騒ぐ俺に、澤田さんは、「あれはオジロかなあ」と反対側を差す。
「オジロワシ!? 天然記念物の!?」
更に興奮する俺に、「落ち着いて」と、右手にあった駐車場に車を停めてくれた。
「あれはオオワシかな」
澤田さんが目を細めた先で、大きな猛禽類がコンクリートの防波堤に止まっている。
「どう違うんですか?」
「肩が白いだろ、あと嘴が派手な黄色」
「へえー」
「あれはタンチョウで間違いないよ」
澤田さんの指が、反対側の水辺に佇む大きな鳥を差す。
「大きいですね!」
「やたら嬉しそうだけど、大きい鳥が好きなの?」
「好きなのかもしれないです!」
俺は興奮したまま二羽を交互に観察した。錆びついた集中力を呼び起こして、なんとか網膜に焼き付けようと頑張る。
パチッ
耳慣れない音がして、ジリジリとねじを巻くような音が続いた。
見ると、澤田さんが手に何かを持っている。
「なんですかそれ」
「インスタントカメラ」
言ってそれを俺にくれた。
まるでおもちゃのように軽い。フラッシュと小さなレンズは付いていたが、全てがプラスチックでできているようだ。
「あげるよ」
「いいんですか?」
「何枚か使ってるけど、なに写したかも覚えてないし、そもそもなんで買ったかも覚えてない」
せっかく来たんだから思い出くらい撮っていきなよ、と優しく肩を叩かれて、もう一度カメラに目を落とした。
俺はもう昔のように見たものを鮮明に記憶することはできなくなっていた。それよりも注意しなければならないことがたくさんあると教わったからだ。
今日のこの風景も、あの頃見たダンゴムシのようには鮮明に思い出すことはできないだろう。
きっとみんなそうだから、こうして記録するためのものが生み出されたんだ。俺はみんなと同じになったのだ。大人たちの努力のおかげで。
「ありがとうございます」
「ここの数字が残りの枚数」
「はい」
使い方を教わった俺は、穴が開いただけのファインダーを覗いた。もちろんズーム機能は無い。
俺は物理的に距離を詰めて、二羽の大きな野鳥を一枚ずつフィルムに収めた。
ジリジリとフィルムを巻く手ごたえが意外と楽しい。
「知床は景色がいいけど、生き物はここの方が見られるかもな」
「こんなところに鳥以外も来るんですか?」
「前来た時はシカもキツネもいたけどな」
「えー見たい! 行きましょう!」
「はいはい」
すっかり図々しくなった俺は、澤田さんの背中を押して再び車に乗り込んだ。
さらに先へ行くとネイチャーセンターがあった。駐車場がほとんど埋まっていて、今が大型連休中なんだと実感した。
「あそこから向こうは歩いていくんだ。あ、ほら鹿」
「本当だ!」
びっくりするほど近くに鹿の群れがいた。のんびりと座り込んで日光浴をしている。観光客がその鹿を背景に写真を撮ろうと、おっかなびっくり距離を測っている。俺も澤田さんに一枚撮ってもらった。
俺はカメラを気に入って、色んな所を切り取ろうとファインダーを覗いた。けれど枚数に制限があると思うと踏ん切りがつかない。いくらでもシャッターが切れるスマートフォンやデジタルカメラのありがたみをこんなところで感じるとは。
「この先って海なんですよね?」
「まあまだ結構あるけどな」
「鹿は向こうに帰れるんですかね」
俺は海の向こう側の北海道をファインダーで捉えた。
パチッと音が鳴って、ついカメラに目を落としたけど、どんな風に取れたかは確認できない。
「さあな。こいつらは暮らせれば森だろうが半島だろうが気にしてないだろ」
そういうものか。
でも道路は立派だけど、それなりの嵐が来れば陸地は波がさらってしまいそうにも見える。そんな時はどうするんだろう。身を寄せ合って建物の影に隠れるんだろうか。ひとりぼっちの動物はどうするんだろう。
「昼過ぎたな、なんか食うか?」
うーんと腰を伸ばす澤田さんの服が上がってお腹が見えた。意外と脂肪がない。でもこれは口に出さない方がいいだろう。
「どうする?」
澤田さんのお腹に気を取られていた俺は、ハッとして激しく頷いた。
「食べます!」
「やっぱり解除にならないな」
二人でラーメンを啜っていると、スマホを見ていた澤田さんが呟いた。
「峠ですか?」
「そう。なんなら五湖を見たいし、あっちに回るか」
「あっち」
「そ、あっち」
澤田さんは詳しくは説明しなかったけど、恐らく峠を通って行くあっち側に別ルートで行ってくれるということだろう。
「野付のもっと奥も見たいか? 歩きになるけど」
「いえ、知床に向かいましょう」
俺はきっぱりと首を横に振った。時間が遅くなってしまうし、知床で野宿はできそうにない。
「ここから知床はどれくらいかかりますか?」
「二時間くらいかな」
「じゃあ釧路に戻るのにも結構掛かりますね」
北海道は大きい。みんなかなりスピードを出して走るけど、それでもそれだけ掛かる。
行きにあれだけエゾシカを見たことを思うと、暗い時間に移動するのは危ない気がする。
「心配すんな、今夜は俺も一緒に泊まってやる」
澤田さんはそう言ってコップの水を飲み干した。
「帰らなくていいんですか?」
「明日も休みだしな」
軽く言ってスマホに目をやる澤田さんに、なんと言っていいか分からない。
まだ家出を疑っているんだろうか。ペラペラの寝袋を持ってくるような準備不足のせいだろうか。
「すみません」
「なにが?」
「俺のために二日もお休みを使わせて」
言いながら、この言葉では足りないと分かった。
澤田さんは暇だから付き合ってくれているわけじゃない。準備不足な上、便利な通信機器も持たず、観光と言うくせにカメラ一つ持っていない俺を見守ってくれている。きっと見崎さんも心配してくれてるんだろう。お金はあるだけ持ってきたなんて言ったのも、返って心配を大きくしたんじゃないだろうか。
見知らぬ人が手を差し出してしまうくらい俺は今も子どもだ。
前にそう理解したはずだったのに。藍との歳の差分は子どもなんだって。
視界の端でふっと息が吐かれ、澤田さんが椅子の背もたれに背中を預けた。
「知床は久しぶりだって言ったろ、俺も観光だよ」
目を細めて笑ってくれる澤田さんに、自分もなんとか笑顔を返した。
自分を試すなんて飛び出してきたのに、結局こうして大人に優しい嘘を吐かせている。一人だったのは帯広に着くまでだ。そして今夜も一人じゃないことに、やっぱりホッとしている。
俺は中学生になってもこんな調子だ。情けないけどしょうがない。俺は人よりもゆっくり成長だ。もしかしたら思春期じゃなくて、その手前の反抗期なのかもしれないな。
途中で寄った道の駅で絵葉書を買い、『元気です。心配しないで』と書いて投函した。
「誰に?」
「家に。昨日も帯広から送りました」
元々送るつもりで切手は持ってきていた。昨日送ったハガキが届くのはいつ頃だろう。
まだキャンプから戻る時間じゃない。帰りにどこかに寄るって言ってたし。俺のせいで予定が変わっていないといいけど。
「お前、やっぱり家出だよな?」
澤田さんが顔を覗き込んできて、思わず後ずさった。
「違います、一人旅です」
俺は口を結んで首を横に振った。
「あっそ」
澤田さんは信じてなさそうだったけど、それ以上は何も言わなかった。
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