第18話 蓮の秘密と音楽祭 3
家に帰ると母さんは出掛けていた。
階段を上がって部屋に入り、荷物を下ろしてようやく蓮と向かい合った。
何日ぶりだっけ。
学校祭の時は会えなくてあんなに苛々したのに、自分でいっぱいになったらこんなことになるのか。すげー勝手な奴だな俺。
集中したいから一人にしてなんて、俺ごときがなにをシリアスぶってたんだ。集中するどころかふらふらして、結局まだピアノは弾けてない。
それにしても、好きって凄いな。
女の子を可愛いと思って十数年生きてきたのに、今はこのなんにも手が掛かってない男子が一番可愛い。唇は乾いてちょっと皮がめくれてるし、ヒゲは生えてくるし、髪は関田が切っている。でも可愛い。なんじゃそりゃ。
「良?」
子犬みたいに首を傾げる蓮が誰より一番愛しい。そうだ、だからいつまでもモヤモヤしたままではいられない。はっきりきっぱり聞くしかないんだ。
「この前、関田と話してるの聞いちゃったんだけどさ、蓮は関田に髪を切ってもらってんの?」
蓮の唇は動かなかったけど、表情からそれが事実だと分かった。
「どうしてか聞いてもいい?」
俺を見る茶色い瞳がいくつか揺れたあと、蓮は視線を落として表情を暗くした。
「言いたくないの?」
「ううん、言う」
消えてしまいそうなほどの小さな声に、俺の勢いは簡単に削がれた。
「無理に言わなくてもいいよ?」
「でも言わなかったら俺を信用できないでしょ?」
「いやそんなことないけど……」
「でももう十日も会ってなかった!」
声を大きくして顔を上げた蓮が、悲しそうに眉間に皺を作っていた。
マジか、十日も経ってたんだ。でも、でもそれは動揺してたからで、信用できなくなったとかじゃなくて、伴奏のこともあってずっとテンションが落ちてて、みっともない自分を見せたくなかったからで――。
つらつらと頭の中で言い訳を並べて、黙ったままの自分に驚いた。
なにを良くない方に変わろうとしてるんだ俺は。素直が一番って母さんが教えてくれたのに。
ゆっくりと息を吐いて、みっともないままの自分で蓮の手を取った。
あったかい。触るのも十日ぶり? 嘘だろ。
「蓮のことは信用してる。関田のことだって信用してるんだ。でも、二人の間に俺の知らないことがあるのは嫌だ。関田のことは初めはライバルみたいに思っちゃってたからさ。俺よりも蓮を知ってるから」
「昔馴染みなだけだよ」
「分かってるんだけど、やっぱり良い気持ちはしない」
「そうだよね」
うんうんと蓮の髪が揺れた。
「月に一回、関田に髪を切ってもらってる」
ぶわっと嫉妬心が膨張して、抱きつきたいのを堪えた。
「どうして?」
「お金が欲しかったから」
「お、お金?」
思いもしない答えが返ってきて、意表を突かれたようになった。
「中学生の頃から散髪代を着服してるんだ」
着服なんて言葉を使われて、俺の心はさらにぐらぐらと揺れた。
「えっと、な、なんで?」
「親がお金をくれないから」
「…………」
言葉がなにも浮かばなかった。
蓮の右手が胸を隠すように左腕を握り、視線が下へと向けられて、言いにくいことを言おうとしてるのが分かった。
「言えばくれるんだよ? 必要なものがあるとか、友達と買い物に行くとか、理由があれば。欲しいものだって買ってくれる。高いスニーカーだって、どうしてもって言えば買ってくれると思う。でも、目的を言わないと現金はくれない」
「……どうして?」
「俺が、中学の時に家出したから」
黙る俺を蓮が見た。ほんの少しだけ微笑んで。
「貯金全部下ろして、一人で飛行機に乗って北海道に行っちゃったんだ」
「ほっかいどう?」
うの口のまま二の句を継げない俺に、蓮が頬に笑窪を作った。
「俺は家出したつもりはなかったんだよ? ちゃんと帰るつもりだった。無事を知らせるために絵葉書も送った。でもスマホは置いていったから親はパニックになっちゃったみたいで。三日目に家に電話したら、今すぐ帰って来ないと警察に行くって言われた」
「警察」
「たった三日の家出。それでも帯広に行って釧路に行って、知床も見てきたんだよ」
「それは……すごいね」
乾いた口でなんとか単語以外の言葉を絞り出した。
「知床まではどうやって?」
移動手段を今訊ねるべきなのかは分からなかったが、知床は遠い。中学生が一人で行くにはかなり勇気が必要な距離だ。いや、まず北海道が遠いんだけど。いやそれも違うな、そもそもどうして家出なんか――。
「最初は電車と高速バスで行く予定だったんだけど、親切な人がいてね、ほとんど乗っけてもらった」
「そんな危ないことしちゃダメだよ!!」
突然声を上げた俺に、蓮はぴゃっと飛び上がった。
「ごめんつい……」
自分でも驚いて、しゅんとなった俺を蓮は笑った。
「親にも同じように怒られた。いい人ばかりじゃないし、俺が自分から乗っても、乗せた人が罪に問われるんだって」
「そうなんだ、知らなかった」
「俺も」
蓮はちょこっと首を竦めた。
「このまま一生怒られてんのかなーってくらい怒られて、一時期はGPSも付けられてたんだ」
「GPS?」
「そ、スマホのアプリじゃなくて、小さい子が腕につけるようなやつ」
蓮の両親は相当驚いたんだろう。今の俺の比じゃないくらいに。
「ちょっとした息抜きのつもりだった。色々と気持ちがグズついてたし、色んなことをきっぱり諦めるきっかけになればいいやって」
それで北海道へ一人旅。
中学生の蓮には膝の怪我以外にどんな悩みがあったんだろう。それはきっと関田も知らないんだろう。
「それで、息抜きにはなったの?」
聞くと、また蓮の唇が嬉しそうに上がって、頭が小さく縦に揺れた。
「北海道って大きいから、胸がすっとしそうだなってくらいのイメージで行ったんだけど。実際は想像以上だったよ。五月だったけど山にはまだ雪が残ってて、景色がすごく綺麗だった。たくさん鹿も見たし、タンチョウヅルもそこら辺を歩いてた。飛んでるのも見たよ、おっきかった」
蓮の口ぶりや表情から、それがいい思い出なんだと分かった。でも、そのせいで今も親は蓮を信用していない。
弟が蓮を変だと言ったのも、このことのせいなのかな。
――落ち着きがなくて、突発的で、人に迷惑を掛ける。
親はそう思っていると蓮は言った。小学生の頃が原因のように言っていたけど、中学生の蓮は、きちんと親に了承を取らずに家を出て、見知らぬ人の車に乗った。家出のつもりじゃなかったって言ったけど、スマホを置いて行ったのはどうしてだろう。
親はきっとその印象を深めただろう。だから蓮がまた遠くへ行ってしまえないように先立つものを制限している。
「言えばなんでも買ってくれるのに、どうしてお金を着服してんの?」
蓮とベッドに腰を下ろして、俺はつい大人のような気持ちで聞いてしまった。
「だってさ、友達とどっか行くときって突発的でしょ? このあとゲーセン行こうぜとか、腹減ったしファミレス行くかーとかさ」
確かにそうだ。いちいち家に帰ってそのお金をもらうなんてことはできない。蓮の両親は働いている。
つまりは遊ぶ金欲しさの犯行か。いや、普通の学生らしい交際費だ。
「病気になった友達にお見舞いのプリンだって買いたいし、それに、彼氏とデートもしたいしさ」
「蓮……」
そっと身体を寄せられて、さっきまで動揺していた俺の心臓は一瞬でときめきに包まれてしまった。苦しくてキュンと鳴いている。
「デート代なんて俺に全部出させとけばいいのに」
「出してくれてるでしょ? 俺が払ってるのは交通費だけだよ」
「それくらい――」
「それにね、ケーキも買いたかった」
「ケーキ?」
明るい調子で語っていた蓮は、一瞬泣いてしまうんじゃないかと思うほど顔を歪めた。
「いつもよくしてくれる良のお母さんにオペラを買いたかったし、自分でも食べてみたかった。お姉さんはイチジクが好きだって言ってたし、お父さんはマスカットが好きだって」
「そんなこと言ってた?」
「言ってたよ、良が」
一瞬歪められた表情は、ぽこっと浮き出た笑窪に紛れて分からなくなった。
全員のリサーチができたからケーキを買ってきてくれたのか。確かに俺は酸味のあるフルーツとチョコレートの組み合わせが好きだ。
「恋人が出来たって言えば、俺の親もデート代くらいくれたと思うよ」
でも、と俯いた蓮が飲み込んだ言葉が胸の中で響いた。
「良ごめんね、嫌な気持ちにさせて」
あーどうしよう、泣いちゃいそうだ。
関田が髪を切る理由は分かったけど、そうなるに至った原因は蓮の若気の至りだった。
蓮の親は蓮を守るためにお金を持たせない。蓮もそれをわかっているから小遣いが欲しいと言えないんだろう。蓮の親は交際は禁止してなくて、蓮が女の子と付き合っていたら、うちの親のようにデート代をくれたんだ。でも蓮は男の俺と付き合っていて、俺も蓮が大好きで……ああどうしたらいいのかな。
「あれはただの嫉妬、言いにくいこと言わせてごめん」
「ううん、全部自分のせいだから」
返す言葉を選びきれずに蓮の後頭部に手を差し込むと、記憶通りの温かくて柔らかい感触と匂いが香った。
キスの予感を察知して、蓮の顎が上がる。
「関田ってさ、どこまで知ってるの?」
蓮が驚いた顔になった後、ふふっと鼻の先で笑った。
「なにも知らないよ、俺たちのことは」
「朝走ってるってのも聞いた」
「朝? あー、体力作りにね」
「それも蓮から聞きたかった」
口を尖らす俺に、蓮の目がぱちぱちと瞬いた。
「……言うほどのことじゃないと思って。ごめん」
「いいけど……」
両手で蓮の顔を包み、久しぶりの手触りを確認する。蓮は目を瞑って俺のされるがままになった。
「関田、髪切るの上手だな」
「もう何年もだから。最初はぱっつんだったよ」
「そうなの?」
「うん。なんか動画とか見て勉強してくれたんだよね」
「いいやつだもんな、関田」
関田は蓮の家出のことも知っていたんだ。そして今は蓮のために散髪代の着服を手伝っている。何年も。
やっぱり関田は蓮の特別な存在だ。特別な、友達。
「関田に頼むのやめて欲しい?」
唇に息が掛かる距離で、俺はじっと考えた。
二人の交際費を俺が全部出せば、きっと蓮は心苦しく思うだろう。俺の機嫌のために友人との交流までできなくなるのも嬉しくはない。
正しさを言うなら着服はいけないことだ。もしばれたら、次はどんな風に両親は蓮を教育するだろう。
でも、きっと大学生になれば規制は緩むはずだ。それまではたったの一年と少し。
俺が蓮の髪を切るという選択肢もあるけど、慣れないハサミ捌きの俺にこけしカットにされるのは可哀想だ。
「関田美容室に任せる」
言うと、蓮が飛びつくように俺の唇に吸い付いた。
慌てて抱き留めて、押し倒されそうなほどの執拗なキスに抗って、蓮をベッドに押し倒した。
久しぶりのキスに眩暈を感じながら、俺はそのまま蓮だけを裸にした。蓮には何もさせないで、手と口だけで蓮を好きにした。
蓮はいつもよりたくさん声を上げて、俺を止めなかった。
布団に包んだ裸の蓮を抱きかかえていると、「音楽祭、弾けそうなの?」と小さな声が俺を窺った。
「どうかな、でも保険は掛けてあるから大丈夫。取り合えず椅子に座ってみるよ」
「そっか」
ドアの向こうで微かに音がして、母さんが帰ってきたと分かった。
抱えた布団がほんの少し小さくなった。
――そして音楽祭当日。
取り合えずなんて言っておいて、俺は椅子に座ることができなかった。
ピアノを前に立ち尽くす俺。
進行が途切れて、体育館がざわざわとし始めていた。
耳の中が痛いくらいに熱い。
「音源にする?」
いつの間にかすぐそばにいた上林が顔を覗き込んできた。
「ん、ああ、いや……」
不明瞭な返事をする俺に、「え、マジで大丈夫かよ」と戸惑っている。
「良」
顔を上げると蓮がいた。高瀬先生も来てくれている。
「大丈夫?」
茶色い瞳が俺を覗き込む。頬には笑窪が浮かび、「無理しなくていいんだよ」と背中に温もりが押された。
「……うん」
情けねえなーと遠くで俺が嘆いていたが、上林も高瀬先生も、優しく俺に頷いた。
また無理なのか俺。
後ろ向きな気持ちなのに、とくとくと心地良い何かが注がれていく音も聴こえる。
何が俺をこんなにためらわせてるんだろう。もう準備はできてるのに。
「りょーち!!」
突然大声で呼ばれて顔を向けると、ステージに並んだクラスのやつらが俺を見て笑っていた。
なぜかみんな両手や指でハートを作ってこちらに向けている。
困惑していると、桜田さんがにやりと笑って親指を立てていた。
――あ、さては恋人の話ばらしたな!?
「あー、くっそ」
全力で俺をからかうクラスメイトに気が付いて笑ってしまった。
ところが笑った途端、詰まっていた耳の熱が消え、塞がっていた胸にすうっと空気が通っていった。
あーやってやるよ。そうだ、もう一音弾いたんだった。
「できるわ、上林行って」
「え、本当?」
疑う上林を追いやり、楽譜も開かず椅子に座った。
「蓮」
俺が呼ぶと、蓮はチラっとそばにいた高瀬先生を見た。
先生は蓮に微笑んで、俺の隣を視線で勧めた。
椅子に並んだ蓮と身体が触れ合って、もう一度息を吸い込む。
またとくとくと音がしている。これは俺の心臓の音だ。
上林と目配せをして、両手をセットした。
中二の冬以来のグランドピアノは少し重たかった。でも俺はそれを弾き返すほどに浮かれていた。
腑抜けた十指を叩き起こして、蓮の隣で最高に調子に乗って鍵盤を打った。
上へ上へと膨らませて、自分の音を思い出すために完全に歌の伴奏であることを無視した。
アレンジと言うにはちょっと改悪が過ぎるかもしれない。音の多いポップスに、さらに音を付け加えて、課題曲の雰囲気を明らかに変貌させてしまった。
蓮が隣で、「指揮者が困った顔してる」と言って、俺は笑いながら弾いた。
上林には申し訳ないことをしたけど、ノリのいいクラスメイトはちゃんとついてきてくれた。練習よりも声が大きい。バカでかいと言っていい。
俺の強すぎるピアノに負けじと、みんな腹の底から声を張っている。
ああ最高だ。一人で弾くよりもずっと気持ちがいいな。
そうだ、前だって姉さんと弾くのが好きだった。発表会の連弾やアンサンブルが好きだった。
今、姉さんにも届いているはずだ。俺のこの寒気がするほどの情熱が。
「蓮、来てくれてありがとう」
「うん」
サビが転調して繰り返され、曲が終わった。
二曲目は真面目にやった。
繊細なイントロできちんと空気を落ち着かせ、温めた指で、ただ静かにピアノを鳴らす喜びを嚙み締めた。
上林が推してたとおりいい曲だ。
俺が弾きながら歌い出すと、隣で蓮が笑って、近くにいた生徒も笑った。
いいじゃん、俺だって歌いたい。
なあ蓮、俺は変わるよ。
これまでよりも、きっと少しはかっこよくなるはずだよ。
蓮に相応しくなれるといいんだけど。
ずっとずっと未来まで、好きでいてもらえるといいんだけど。
退場する時、関田が不思議そうな顔で並んで立つ俺と蓮を見ていた。
気が高ぶっていた俺は、しゃっちょこばって関田を見送って、指揮者に続いて蓮と退場した。
蓮と離れる前に、「キスしたい」と耳打ちをすると、蓮は笑って、「それじゃ足りない」と俺の右手の指先に指を絡めて戻っていった。
席に戻りながらみんなに背中を叩かれて賞賛を受けたけど、椅子に座った俺は、視線を上げて天井に挟まってる幾つかのバレーボールを順番に目で追った。
そうして無心にならないと勃起してしまいそうだった。
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