第17話 蓮の秘密と音楽祭 2
楽譜を貰っても、やっぱりピアノに向かうことはできなかった。
みんなにはまだ覚えてないと言い訳をして音源で練習してもらった。
そんな日が三日、四日と続いて、一週間が過ぎた。
「大丈夫か?」と実行委員の上林は心配したが、「大丈夫だよ」と誤魔化した。
まあ本当のことを言えば大丈夫じゃなかった。
始めから大丈夫じゃなかったのに、蓮と関田のあの会話のお陰で、さらに全くこれっぽっちも大丈夫じゃなかった。
あの日、蓮とトトールに寄った。そこで俺が、「合唱の伴奏を引き受けた」と言うと、みるみる目を丸くした蓮は、「え」と言ったきり固まって、何と言っていいのか全然思い付かないみたいだった。
蓮の気持ちは理解できた。俺だって同じくらい、「なんで関田が蓮の髪を切るのか」について、なんて聞けばいいかわからなかった。
だからつい、「ちょっと集中したいから、音楽祭が終わるまでは一人にさせて」なんて言ってしまった。
問題を一つ先送りにした。よりにもよって蓮とのことを。
蓮は一瞬悲しそうな顔をしたけど、「わかった」と言って笑顔を作った。笑窪が浮かばないほどささやかな微笑みだった。
それから俺は一人でいる。お昼も放課後も、蓮なしの一人きり。
乾いた風に乗って、学校中に合唱曲の真っすぐな言葉が抜けていく。
愛とか、夢とか、希望とか。いつかとか、いつまでもとか。僕とか、君とか、絆とか。夜汽車もある。
かけがえのないだとか、失ってもだとか、百億年とか、明日とか。
そんな言葉たちが、動き出せない俺の背中を避けて空へと溶けていく。
ピアノも蓮もなかったら俺はどうなるんだっけ?
いや二年ちょいそれで生きてただろ。なに言ってんだよ、へーきだよ。
のらりくらりとしているうちに音楽祭の週末が迫ってきていた。
みんな歌うのが楽しいようで、一向に伴奏を始めない俺のことなど気にしていなかったけど、唯一上林が難しい顔で俺を窺っていた。俺はそれを見ないようにして、今日もパート練習をしているみんなの間をすり抜けて、開け放たれた音楽室を出た。
学校ってこんなにピアノがあったんだな。
音楽祭のためなのか、ちょっとした広さの部屋には必ずピアノか電子ピアノが置いてあった。それがあちこちで鳴っている。
ピアノが弾けるやつもこんなにいたんだ。
何も特別なんかじゃない、むしろ弾けないくせに伴奏を引き受けたことが特別にアホだ。
行く当てもなく教室に戻ってくると、自分の机に腰を掛け、開いていた窓から外を眺めた。
来年にはもう一階上がって、そのあとは、どこでどんな景色を見てるんだろうな。
蓮はなにを見てるだろう。
「上岡ってなんでピアノ辞めたの?」
顔を向けると、桜田さんが教室の入り口にいた。
「あれ、練習は?」
「あたしが先に聞いてんだけど?」
桜田さんはスタスタと俺のところまでやってきて、一つ前の堺の机にお尻を乗せた。そして俺が見ていた何かを探すように黄色がかった空を見上げた。
そのとき、風に乗ってふわっと甘い香りが漂った。
空を見上げるカラコンの入った瞳。上がったまつ毛とピンク色の唇。栗色に染められた胸まである髪がさらさらと肩から落ちて、磨かれた爪とスカートから伸びるつるっとした脚、薄汚れていない上靴。
学校祭でよく分かったけど、女の子って手が掛かっている。そのぶん男よりも自分を見つめる時間が多いんじゃないかと思う。
大切なことを二つも先送りにしている今の俺が鏡に写る自分を見続けたら、うんざりして現実逃避を始めるかもしれない。
それともヘアスタイルを変えたり新しい趣味を見つけたりして、自分を変えようとするのかな。
姉さんは辺見に何を言ったんだろう。
つい辺見なんかを思い出してしまって溜め息が出た。
「やる気がなくなったんだよ、コンクールの全国のステージで弾いてる途中で」
俺のピアノの最期を告げると、桜田さんはうわっと声を上げて地獄を見たような顔をした。
「途中でって、途中で?」
「そ、ぱたっと手が止まった。中二の冬から弾いてない。ソ、一音以外」
「なんでやるなんて言っちゃったのよ」
まるで寒気がしているみたいに自分を抱きしめる桜田さんに、俺は軽く首を竦めて見せた。
「また弾けそうな気がしたんだよ、恋人が出来てさ。聴かせたいって思った」
「なにそれいい話」
目の色を変えて食いついてきた桜田さんから目を逸らす。
「どっちも暗譜はできてるよ。頭の中ではもう完璧」
自虐的に完璧を強調すると、「へえ」と言った桜田さんは、机から降りて窓枠に両手を置いた。黙って見ていると、ふいに動きだした指がトコトコと音を鳴らし始めた。すぐに自由曲の伴奏だとわかって、桜田さんの隣に並んで指を揃えた。
「ほんとだ、できてる」
「桜田さんも練習してたんだ」
「うん。上岡、なんか変だったからさ」
二人でトコトコ『心の瞳』を弾いた。
狭くて腕がぶつかって、肩でお互いを邪魔にしながら大袈裟な動きで伴奏を続けた。桜田さんがけらけらと笑い出して、つられて俺も笑った。
「やっぱ変だったか」
「これくらいの曲、全国行くやつはすぐ弾けるでしょ」
「まあね」
変だよな、だから蓮もそっとしておいてくれてるんだろう。
一人で集中すると告げた日の別れ際、「大丈夫だから」って言った時の蓮の顔を思い出す。
きっと全く大丈夫そうには見えなかったんだろう。とても心配そうだった。それで俺は、そんな目で見られるのが辛かった。
「桜田さん、なんで今年は弾かないの?」
トコトコ演奏が終わって、俺は気になっていた疑問を投げかけた。
再び堺の机に座った桜田さんは、自分の右手の爪を親指でキュッキュと撫でながら、少しむっとした顔になった。
「課題曲のバンドグループのキーボードの女が私の推しと熱愛報道されたから」
「へ」
一息に言われて、理解に一拍を要した。
「なんっだそれ!」
つよつよで呆れた俺に、桜田さんが「おっ」と目を細める。
「恋人が出来たからってだけで弾ける気がしたやつー?」
「はあーい」
俺は素直に右手を上げた。
桜田さんはまたけらけらと笑って、「まあいいじゃん」と前向きな声色で眉を上げた。
「そういうことならやる価値あるじゃん。一応音源も用意してもらってさ、自由曲は私も準備しておくから、気楽にやってみなよ」
「課題曲は絶対に弾かないんだ」
「それは譲らない」
ツンとした桜田さんに笑って、「ありがとう」と頭を下げた。
「いいってことよ!」
ビシッと親指を立てた男前な桜田さんに、心の中で百万回いいねを押した。
翌日、桜田さんに事情を聞いたらしい上林が俺の背中をどんと叩き、「頑張ってね!!」と励ましてくれた。
桜田さんは噴き出していたけど、周りは意味が分かっていなかったし、俺は苦笑いするしかなかった。
伴奏が何とかなるとなれば、俺の頭に浮かぶのは蓮と関田のことだけだった。
音楽祭が終わるまで先送りにしようとしていたが、もう無理だ。
そしてこれは、本人に確認するしか解決するすべがない。
音楽祭の前日、蓮に『会いたい』と連絡を入れた。すぐに『もちろんいいよ』と返ってきて、俺は授業中に「あー」と声を上げて山田先生に睨まれた。
放課後、蓮をトトールに誘ったけど、家に行きたいと言うのでバスに乗った。
吊り革に掴まって揺られながら、隣に立つ蓮の髪がまた丁度いい長さになっているのに気が付いて、一言も言葉が出てこなかった。
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