第16話 蓮の秘密と音楽祭 1



 翌日も気分は落ち込んでいた。

 でも蓮が心配しているのも分かっていたから、情けなくてしょうもない自分を引きずってなんとか登校した。


 一声も発さずに午前中が過ぎ、昼休みに校庭の隅のベンチに向かうと、蓮がちょこっと座って待っていてくれた。


「よ」

「よ」


 蓮の言葉を繰り返すと、ちょっとだけ心が温まった。

「昨日ごめんな」

 ベンチに座って直ぐに謝った。謝罪はスピードが命だと父さんが言っていた。一晩経ってるけど。

「ううん、俺こそごめんね」

「え、なにが?」

 蓮からの謝罪は想定していなくて、俺はあとに続けるつもりだった言葉をすっかり忘れてしまった。

「俺があんな風に、催促するみたいにしたから……」

 そう言って悲しい表情で俯いてしまった蓮に、俺は大慌てで蓮の視界に入って首を振って見せた。

「そんなのいいんだ! すごく嬉しかった!」

「……本当に?」

「本当に!」

 俺が繰り返すと、蓮はほんの微かに顔を揺らした。


 びっくりした。あまりに驚いて鳥肌が立ってしまった。まさか蓮が自分を責めていたなんて。

 そりゃあちょっとエッチな感じで誘ってくれたのはかなり盛り上がったけど、俺が蓮のために弾きたいと思ったんだ。今だって思ってる。


 白いワンピースの蓮の中にいる最中も、石鹸を何度も落っことして笑いながら身体を洗い合う間も、ずっとピアノが俺を待っていた。蓋を開けた瞬間だって。

 それなのに、ぴたりと動かなくなって震え始めた自分の指を見て、どうしてなのか全然わからなかった。


「良」


 蓮の指が俺の左手の小指を握った。頬に笑窪もなく、心配そうに俺を見ている。

 違うだろ、こんな顔させたいんじゃないだろ。蓮は笑顔が凄く可愛いんだからさ。しっかりしろよ彼氏!


「髪、切ったの?」

 伸びていた髪がいつもの形に戻っている。

「うん、昨日あれから」

「そっか、いいね」

 丁度いい長さに戻った髪に手を差し込むと、相変わらずふわふわと柔らかい。

「やたらと早く帰しちゃったもんな」

 しまった、話題を変えて気分を上げるつもりが、簡単にみっともない気持ちがぶり返してしまった。


「あの——」

「あ、そうだ!」


 お互いの言葉がぶつかって、二人で顔を見合わせた。

「ごめん、なに?」

「ううん、良が言って!」

 蓮の言葉の続きが気になったけど、取り合えずこの空気を何とかしたくて、お昼を入れた保冷袋に手を突っ込んだ。

「はい」

 赤く四角い箱を取り出して、うやうやしく蓮の手のひらに乗せた。

「これなに?」

 蓮の視線が箱に描かれた動物のサーカス団をなぞっている。

「チョコレートだよ。昨日、蓮と入れ違いに母さんが帰ってきてさ、これを買ってきてくれたんだ」

「俺に?」

「そう」

「嬉しい! 開けていい?」

「うん。是非食べて」 

 蓮の頬に笑窪が浮いた。嬉しがる下唇を八重歯で抑えながら、わくわくした目が箱を開ける手元を見守る。

 俺は昨日食べた。見た目はオーソドックスな四角いプラリネチョコレートで、全てフルーツのフレーバーだった。

「美味しそう!」

 口に入れる前から幸せそうな蓮に、昨日蓮が買ってきたオペラを嬉しそうに食べていた母さんの姿を思い出した。

「いただきます!」

 むにむにと動く唇の向こうで、チョコレートが割れる音がする。

「何味だった?」

「柚子味! 美味しい!」

 本当に全部食べていいのかと確認する蓮に「いいんだよ」と勧めて、蓮が買ってきてくれたケーキをみんなが喜んで食べたことも報告した。

 父さんには会ってないけど、姉さんは朝食にイチジクのタルトを食べて、「これが私の今日のハイライトね」と呟いて出勤していった。仕事がつまらないのかしらと母さんが心配していた。

「どれも美味しい!」

 蓮が嬉しそうにチョコレートを口に入れるたびに自分の機嫌も良くなって、良くなるたびに、この笑顔は自分ではなく母とチョコレートの力なんだと落ち込んだ。






 陰気な気分はその日以降もしばらく続いた。俺にはかなり珍しいことだった。

 蓮とトトールでベーグルサンドを半分こにしても、話題の映画を一緒に見ても、ベッドの上で舌を絡めながらお互いのを扱き合っても、どこか気持ちが盛り上がり切らない。

 まあちゃんと気持ちがいいしイッちゃうんだけど、それもどうなんだよと思っちゃう。

 こんな状態でも音楽はかかっている。最近はドヴォルザークがよく鳴っている。ヴぉ。


 悪いことは重なるものだという。人生にはよくあることなんだろう。俺も例外ではなかった。

 球技大会を目前に、俺は足首をねん挫した。



 高瀬先生がうちの高校の生徒だった頃、球技大会は夏休み明けすぐにやっていたらしい。すごく暑かったから十月に動かしたんだろうと言っていたけど、その日は少し寒くて、きっとストレッチが足りなかったんだと思う。

 俺の足首は周りが笑って崩れ落ちる程にぐにゃっと曲がっていたらしい。

 クラスのやつらは大笑いしたし、関田は心配してくれたけど、俺は自分にがっかりした。

 幸い酷くはなかったけど、俺は球技大会の見学を余儀なくされた。


 たった一度しかない高二の球技大会だったのに。蓮に球技は得意な方だとか散々言っていたのに。練習中にねん挫とか、運動が得意じゃないやつがやるやつでしかない。

 当然落ち込んだけど、俺のメンタルはすでにそこそこの低位置にいたから、あんまり気分の落差はなかった。

 人生というのは良いことと悪いことが両方やってくる。今をただ受け入れて生き続けるしかないんだと、普段使わない思考域で自分を納得させた。



 ねん挫をしていいこともあった。蓮の試合を全て観戦できたことだ。

 素人の俺が見ても蓮はサッカーが上手かった。未経験者ばかりとはいえあまりにも差がある。

 俺はさすがに不思議に思った。

 伸び盛りに身に付けたテクニックはともかく、俺のピアノよりもブランクが長いんだから体力は落ちているはずだ。試合時間が短いとはいえ、蓮は膝に手を置くこともなく俊敏に走り続けた。クラスにいるサッカー部の中尾というやつと一緒にキーマンになって試合を優位に運び、順当に勝利を重ねた。


「関田」

 蓮の試合を見ようと言って引っ張ってきた関田に声を掛ける。

「んー?」

「蓮って、サッカー上手かった?」

 俺は初めて関田に蓮のことを訊ねてみた。するとすぐに嬉しそうな声が返ってきた。

「上手かったよ! よく走るセンターフォワードで、シュートもフリーキックも上手だった」

 ふーん。

「じゃあどうして辞めちゃったんだろ、膝の手術は上手くいったんだろ?」

 今度は返事がなかった。見ると関田は、いつもほんのりと浮かべている人の良さそうな笑顔を失くして、遠い視線を蓮のいる方へ向けていた。


「俺にもちゃんとは教えてくれなかった。もういいんだって、そう言って」

「そっか……」

「あまぴ、今も走ってるんだよ」

「え?」

「雨の日以外は、朝に」

「へえ……」

 そっか、だから今もああして走れるのか。そんなこと聞いたことがなかった。

「体力作りだって言ってたけどね、将来小学生を相手するからって」

「ああ、なるほどな」

 なるほど、なるほどな。それであと幾つ関田が知っていて俺が知らないことがあるんだろう。

 キスやセックスなんかよりも、将来のためにこつこつとランニングを続けていると知っている関田の方がずっと特別な存在に思えてしまうのは、俺が今落ち込んでるせいなのかな。


 湧いてしまった嫉妬心が溢れてこないように、ぎゅっと膝を抱えて試合に目を戻した。

 蓮はサッカー部が四人いる利久のクラスに惜敗して、二位で三日間の球技大会を終えた。




 秋は色々とイベントが多い。

 球技大会が終わったと思ったら、次は音楽祭だ。


「俺が高校生の時はなかったな」

 高瀬先生が課題曲を黒板に書きながら言った。

「えーなかったんだ」

「合唱やんなかったってこと?」

「うん。俺が卒業してから出来たのかな」

「ほーん」

「ほーんじゃなくて! 自由曲どれにする!」

 先生に文字を書かせて、実行委員で指揮者に手を上げた上林が教卓を叩いた。

「課題曲がつよつよだから、バラードがいいんじゃない?」

 ももちゃんが言って、みんなも頷いた。

 曲調を変えるのはピアノのコンクールでもよくやる手法だ。

 歌は歌えるが合唱曲には詳しくない俺は、ぼへーっと机に肘を突いて成り行きを見守った。


 先生が言った通り最近できたイベントだからか、課題曲は流行のJPOPで、自由曲に合唱曲を歌う。なんなら逆の方が盛り上がるんじゃないかと思ったけど、生徒に選ばせると自由になりすぎる気はする。特にうちのクラスは。

 結局自由曲は実行委員で指揮者で吹奏楽部の上林が勧める、『心の瞳』というのに決まった。


「じゃあ次伴奏! ピアノ弾ける人ー!」

 ぎくっと心臓が鳴った。

 いやそりゃそう来るだろ。去年もあったろ。

 俺は自分を落ち着けて、なんとなく身を小さくした。


 昔はいつも伴奏をやっていた。歌も歌いたかったから弾きながら歌った。

 小学生の時は怒られなかったのに、中学の担任は怒った。今思い出しても腹立たしい出来事だ。


「去年って桜田が弾いてたよな?」

 同じクラスだったのか、阿部が桜田さんに声を掛けた。

「ごめん、今年はちょっと弾けないんだよねー」

「ええ? なんでだよ」

「ちょっとね!」

 理由を知っているらしい周りの女子たちが、「ちょっとねえ」と言いながら笑っている。

 なんだよちょっとって。

 それでも両手を合わせて申し訳なさそうに頭を下げられると、誰もそれ以上無理強いすることはできない。

「先生どうすんの?」

「あ、うんと——」

「あれっ? そうや良一弾けんじゃねーの?」

 先生の言葉を遮って赤城がそう言った時、顔面に亀裂が入ったかと思うような痛みが走った。

「えーそうなん? りょーちかっこいいじゃん!」

 宇佐美さんが声を上げた。

「グランドピアノあんだよこいつの部屋ー!」

 赤城、なぜお前が得意げに言うんだ。

 教室中がざわめいて調子のいい声を上げた。前の席の堺が何の騒ぎかと周りを見ている。いいからお前はゲームをしていろ。

 ああ赤城め。いや部屋にグランドピアノがある俺が悪いんだけど。

「でも、もうやめたんだよね?」

 隣で関田がそっと言った。

「……うん」

 硬めの拳で胸の内側がノックされているみたいに心臓が跳ねている。教室のざわめきよりも大きな音で。どうしよう、なんて言えば――。

 

「俺、知ってる」


 辺見が低い声を上げ、ざわめきを静めた。


 辺見は姉さんと学校を回って帰ってきてから謎のテンションが抜け、前のちょっと大人ぶったただの辺見に戻っていた。

「なにを?」

 間を取る辺見に、教卓に立つ上林が続きを促した。

「良一、全国で金賞取ってる」

 教室がさっきよりも大声で溢れた。俺の顔面には再び亀裂が走った。

「お前、なんでそんなこと知ってんだよ」

 俺はぐらつく身体を肘で支えて辺見を睨みつけた。

「前にクラスのやつらの名前でサーチかけた時に見つけた」

 今度は教室中に悲鳴が溢れた。

「パブサじゃんキモ!!」

「趣味悪~」

 本当に趣味が悪い。姉さんに変態を止めてもらっておいて弟の俺に砂かけてきやがった。

 俺は辺見をさらに睨みつけたが、事実であることは間違いない。

「で、どうなん? 良一やれんのか?」

 罵られても涼しい顔をしている辺見から、クラスメイトたちが俺に視線を移す。

「りょーちも無理なら他にいないんだよなあ?」

 三石が言って、みんなが首を竦めたり横に振ったりした。


 あの、と先生がチョークを持った手を上げた。

「ピアノの伴奏はなくてもいいんだよ。アカペラでもいいし、音源を流してもいい。無理に誰かが頑張ることはないよ」

 先生はそう言って、俺に笑ってみせた。


 ああやっぱり先生は好きだ。もう親と並べちゃお。


「でもでもー、生のピアノあった方がいいよねえー」

「まーやっぱりなあ」

「良一どうよ? いけないの?」

 クラスの視線のほとんどが、再び俺に集まった。


 ピアノはもちろんあれから弾くことはできていない。一度触れたG4でさえ、蓮の前で震えてしまった。

 でも、これもきっかけかもしれない。

 ねん挫は直ったし、いい加減ローテンションでいることにも飽きている。始めなくちゃ、始まらない。


「……いいよ」

「おおっ!!」

 ああ、言ってしまった。やってしまった。あああああ!!!

「じゃあ良一がやりまーす!」

 クラスメイトが大げさに盛り上げて、俺と高瀬先生の視線がしばしの間合う。


 いつでもやめて大丈夫だからね。


 そう聞こえた気がした。

 先生もエスパーなのかな、俺は笑って頷いた。






 トイレ掃除が終わって廊下の洗い場で手を洗っていると、教室の前に蓮が立っていた。久しぶりに関田と話している。

 最近は二人がああして話す姿を見ていなかった。関田も話が溜まっているのかなと思って、なんとなく二人をそのままして教室に戻り、もたもたと帰り支度をした。


 実の所、二人の姿に何かを思うことができないくらいにまだ動揺していた。

 胸の中がうにゃうにゃとして、辺見のことはどつきまわしたかったが、やってみるべきだという自分もいた。

 今からでも伴奏を断ろうかという弱気な自分がいる一方で、でも変わらなきゃいけないし、変わりたいし、姉さんは始まりだって言った。

 それに蓮にだっていいところを見せたい。

 もしかするとこんな不純な動機だから手が止まったのかな。いやいやどんだけ俺のピアノは崇高な存在なんだよ。それよりも蓮だろ! 蓮に特別に思ってもらいたいんだろ!

 ふんっと鼻息と一緒に弱気を吐き出し、勢いよくリュックを背負った。



 開け放たれた戸口の向こうで、廊下の壁にもたれる二人がいた。顔を向け合ってまだ何か喋っている。

 未だに見慣れないよくしゃべる関田と、おばあちゃんみたいに深く頷く蓮。

 縁側に座らせてお茶でも出してやりたいくらいにほのぼのとした雰囲気だ。


 ――と、おもむろに関田の手が蓮の後ろ髪に差し込まれた。


 え、ダメだろそれは。


 心の中で注意して、ムッとして足が止まった。


 後頭部を包み込む関田の指先が後ろ髪から覗いている。

 途端、俺の中にも蓮の暖かい後頭部の丸みや、柔らかな髪の匂いの記憶が具体的に引き出された。

 その後は、大抵キスをする。

 関田を見上げた蓮の頬にふくっと笑窪が浮いて、息が止まった。


 二人までの距離は三メートル。廊下も教室もうるさいのに、二人の会話がはっきりと耳に届いた。



「髪伸びて来たね、近いうち切ろうか?」


「うん、お願い」



 どういう意味かはすぐ理解できたけど、押し寄せてきた疑問が俺を押し流しそうなほどの圧力でさらっていこうとしていた。


 関田が蓮の髪を切る? なんで?

 一回や二回って感じの口調じゃないよな。なんで? いつから?

 関田の家は美容室だっけ? いや普通の会社員と、お母さんは看護師してるって言ってた。妹がいるはずだけど、まだ小学生なはずだ。


 頭の中が混乱とさっきのうにゃうにゃでにわかに渦を巻き始めた。


 前回蓮の髪が短くなったのは、えーと確か、学校祭が終わった振替休日の翌日だ。

 そうだ、俺がピアノが弾けずに情けなくて泣いたうえ、蓮を早くに帰したせいで母さんのチョコを食べさせてやれなかったあの日だ。


「…………」


 フラッシュバックしたのは俺の上に乗る蓮。

 俺を呼ぶ上擦った声。白いワンピースの蓮がピアノにうつ伏せて、肩越しに俺を誘った姿。震える指先、それと、「無理しないで」


 あの後に関田のところに行って髪を切ってもらったのか?

 なんかそれって、なんか……すごく嫌なんだけど。


 いや! でもあんな風になるなんて俺も思ってなかったし、髪を切る予約って事前に入れてるもんだよな! もともとそういう予定だったってことだよな! って、イヤイヤそうじゃなくて……関田は美容師じゃなくて……。


「良?」


 はっとして顔を上げると、戸口に蓮が立っていた。関田は部活に行ったのか、もう姿はなかった。

「お、おう」

「どうしたの?」

「いや」

 蓮の黒目が不思議なものを見るように、小さく動いて俺の表情を読み取ろうとしている。

「帰ろ」

 俺はその瞳から逃れようと、蓮の横をすり抜けた。


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