第15話 雨の月曜日
せっかくの振替休日だというのに、月曜日は雨だった。
気温も下がって、引き出しから生地の厚い服を引っ張り出した。
母さんは今朝になって急に、「お友達の家に遊びに行ってくる」と言って、蓮が来る時間を待たずに雨の中を出かけていった。
元来母さんは気が向いたらすぐの腰の軽いタイプだし、言われた時は気付かなかったけど、掃き出し窓の前でぼーっと歯を磨きながら庭を見ていたら、もしかして気を遣ってくれたのかなと思い至った。
最近ずっと蓮と会えないと不貞腐れていた。
母親に惚気ともとれる愚痴を聞いてもらって、久しぶりに会えると喜んでいたら二人きりにしてもらって、年頃の男としては中々どうかしている。
身近な人の心配りをすぐに察することができないのは、まだ俺が子どもだからかな。
「……ふう」
春よりもずっと色の濃いバラが、雨に打たれて揺れている。
俺がピアノを再開したら、父さんと母さんは喜ぶかな。まあ、喜んでくれるんだろうな。
蓮の親はどうかな。せめて特技くらいはあった方が気に入ってくれる可能性が……関係ないかな。
弟の藍に会ってから、蓮の家族のことが気になっている。この思いは複雑で、弟の言動で知りたい欲求は高まったけど、彼氏としてのプライドから、関田に訊ねるのは腹立たしい。それに、蓮のことは蓮の口から聞くべきだとも思う。なんたって彼氏なんだから。
でも、この先も紹介はしてもらえないかもしれない。それはやっぱり俺が蓮の恋人だからだ。
親へのカミングアウトが簡単じゃないのは、エスパーな姉を持つ俺にも想像はつく。友達だと嘘を言わせてでも会いたいかと言われると、頷くことはできない。
せめてもう少し、今の自分に胸を張れるところがあればな。
インターホンが鳴ってドアを開けると、蓮が傘を閉じているところだった。
「いらっしゃい」
「あ、おはよ!」
笑窪と八重歯の覗く笑顔が、秋雨模様だった心をカラリと晴らしていく。
「おはよう蓮! 会いたかったよ! 傘はそこね!」
いきなりテンションが高い俺を笑いながら、蓮が傘を傘立てに収めた。
「どこも濡れてない? 今日はちょっと寒いな! それケーキ?」
リビングに誘導しつつ、気が浮ついて質問が多くなる。蓮はまだ笑っている。
「濡れてないよ。そこのケーキ屋さんに寄ってきたんだ。朝一番だったから全種類あってときめいたー」
目を閉じて胸に手を当てた蓮は、ケーキでいっぱいのショーケースを思い浮かべているのか、幸せそうな顔をしている。
俺は本当にパティシエの道を諦めていいんだろうか、ちょっと迷う。
「あれ? お母さんは?」
「あー出かけた」
「えっ、一緒にケーキ食べたかったのに」
がっくりと肩を落とす蓮を慰めて、電気ケトルにスイッチを入れた。
母さんと蓮の仲が良くて嬉しい。パティシエとはいかなくても、この二人を喜ばせるために、得意な焼き菓子の一つくらいあってもいいかもしれない。
「多分、気を利かせて出かけたんだと思うよ」
「お母さん?」
「うん。俺が蓮に会えないーってむくれてたからさ」
「むくれてたんだ」
「まあね、欲求不満ってやつ?」
「欲求不満って……」
眉を寄せた蓮に、首を竦めて見せた。
性的な意味ももちろん含むけど、間違いなくここ最近の俺には蓮が不足していた。
「な、ケーキ見ていい?」
「うん……」
箱を開けると、美味しそうなケーキが五つ並んでいた。
母さんの好きなオペラが二つと、スライスされたイチジクがバラのように飾られたタルト、色目の爽やかなマスカットのショートケーキに、オランジェットが刺さった、グラサージュの艶やかなチョコレートケーキ。
「迷うな、蓮はオペラ?」
「……うん」
俺の問いに頷いてはいるが、蓮の思考が別のところにあるのが目線で分かった。
「なにか気になる?」
蓮の視線の先に顔を置くと、ちょこっと動いた黒目がもじもじと俺の顔の上を彷徨う。
「お母さんって、どこまで知ってるのかなって」
「なにを?」
「俺たちの、関係の深さっていうか……」
気まずそうに消えていく語尾に、俺はケーキから顔を背けて噴き出した。
「欲求不満だなんて母さんには言ってないよ」
「でもほら、お姉さんが……」
「ああー、姉さんはね」
エスパーな姉はもちろん全て分かっているだろう。
「でもさすがに言ってないと思うよ、詳細は」
姉にもそれくらいのデリカシーはある。ただ——。
「でもまあ親も大人だし? 察してるかもね~」
俺たちは性に多感な男子高校生カップルだ。清い交際なわけないだろと胸を張って言いたい。
「ん~」
蓮が顔を赤くして困っている。可愛い。
「今更そんなこと気にしてるんだ」
夏中あんなに盛り上がったのに。
「今更もなにもないよ! 気を利かせて二人にしてくれたなんて!」
キッと睨まれて笑ってしまった。
「そうだよなー、どう考えても気兼ねなくイチャついてーってことだよな。母さん気が利くね~」
俺がおどけると、蓮の頬はますます赤くなって、そのむくれた唇に素早くキスすると、蓮の喉から変な声が漏れた。
「あれ、部屋片づけたの?」
戸口で立ち止まった蓮の視線が、露になったピアノに注がれている。
「まあね、ちょっとその気になったっていうか」
「それ、ピアノが弾きたくなったってこと!?」
驚きの中に喜びが混じっているのが分かって、さっそく背中がこそばゆい。
俺はケーキの乗ったトレーをテーブルに置き、よいしょとベッドに腰を下ろした。
「実はさ、蓮と花火を見た後、音楽室のピアノを弾いたんだ」
「えっ……」
小さく息を呑んだ蓮は、無言のまま俺の隣にきて腰を下ろした。
ベッドが柔らかくたわんで、二人の体が支え合うように寄り添う。
「そうだったんだ」
「ま、言っても一音だけね。でも、姉さんは始まりのソだって」
「始まりのソ?」
興味深い顔をしている蓮の横で、少し気が逸っているのを感じる。
今のところ何かが始まったわけじゃない。あの一音だけ。でも、姉さんが始まったと言ったんだから始まったのだ。
「だから、準備をしようと思って片付けたんだ」
真っすぐに向けられる眼差しと向き合い、膝にあった右手を握ると、「そっか」と呟いた蓮がもう一つの手を重ねて、またおばあちゃんみたいに小さく揺すった。
「良のピアノ、学校にあるのよりもきれいだね」
「そうだね」
二人でピアノを眺めると、脳天の辺りで多幸感のあふれる和音が鳴った。
まるで目の前のピアノが勝手に鳴り出したのかと思うほどはっきりとした和音は、明るい音色を選んで音階を下っていき、蓮と触れ合って潤う俺の胸の中に、次々と波紋を作っていく。
「蓮と一緒にいるとさ、音が鳴り出すんだ」
「音?」
「そう、頭の中で。今も」
人差し指がつついた俺の額を蓮の茶色い瞳が追った。
「小さい頃に弾いたエチュードとか、大作曲家の超有名曲とかがさ、俺の気持ちを高ぶらせるみたいにかかるんだ」
「映画みたい」
「そう、映画みたいに」
顔をぱっと開いて驚く蓮に、俺は残っていた手をさらに重ねた。
「蓮といるとさ、小さい頃に胸に詰まってたのと同じのが湧き出してくる感じがするんだ。なんでもできるんじゃないかって思えるような、前向きな感情っていうのかな、だからきっと——」
蓮の手が俺の顎に触れ、引き寄せられるままに唇を合わせた。
重なったまつ毛の束を見ながら、むにと押し付けられた唇を押し返す。
「だからきっと?」
吐息が唇にかかってくすぐったい。
「蓮のおかげで、ピアノが弾きたくなったんだと思う」
キスをくれた唇から視線を逸らせずそう返すと、がばっと押し倒されてしまった。
「おわっ!」
揺れるベッドの上で再び蓮にキスを仕掛けられて、俺は何故か戸惑った。
「蓮、ケーキ食べないの?」
「今日はしないってこと?」
鼻先で口を尖らせた蓮が、服越しに俺の乳首を摘まんだ。
「わっ!」
ビクッとしてから、そうだったと目が開いた。
蓮は何かを口にしたあとは絶対にしてくれない。ほんの数週間空いただけでそんなことも忘れてしまったのか俺は!
「嫌だ、する! 親もいないし大声出してする!」
「なに言ってんだよ!」
笑い出した蓮をひっくり返して、厚手の服を脱ぎ捨てた。
久しぶりで怪我が怖かった俺は、初めての時に用意した、いかがわしいおもちゃだの潤滑剤だのを引っ張り出して丹念に準備をした。
仕掛けてきたくせに恥ずかしそうにする蓮を可愛く思いながら、ふと思いついて、あの日と同じ、『雨の日に合うBGM』を再生した。
「なんか懐かしい」
されるがままになっている蓮がため息交じりに感想を漏らす。
「今日のこれもいつか懐かしくなるかな」
言いながら、鳥肌が立っている蓮の素肌にタオルケットを掛けた。
あの頃は初夏だった。今はもう秋だ。冬休みは何をしよう。
気の早いことを考えながら、首を伸ばしてキスをしてもらう。
蓮はキスが好きなんだと思う。任せると俺なんかよりもずっと上手で、ついつい手が止まって夢中になってしまう。
お陰で股間がむくむくとなって、音楽室で辞退した、『ガレージのお返し』をしてもらった。
「まだ早かった?」
俺の上に跨って、苦しそうな声を出しながら控えめに動く蓮の太腿を撫でる。
「大丈夫」
そうは言うものの、自身の前を隠すように蓮の両手が俺のお腹に置かれていて、結合部がよく見えない。俺は隙間に手を入れて、繋がっているところを指先で確かめた。
ほとんど全部飲み込まれている。
「こんなに奥まで入れて苦しくないの?」
心配して蓮の前髪を掻き上げると、猫みたいに手にすり寄ってきて可愛い。
「苦しいよ? でも奥までいっぱいで嬉しい」
笑った唇から八重歯が覗いて、胸が詰まった。
「聞かなきゃよかった。エロ過ぎてすぐいっちゃいそう」
「バカ」
蓮がくすくすと笑う度に絶妙な刺激がきて眉間に力が入る。
「蓮ありがとう、奥まで入って気持ちいいよ」
「やめてよ!」
ぽこっと胸を叩かれた。自分で言ったくせに照れられても。
蓮を下に寝かせて、久しぶりの傷痕を親指で摩った。
「あ、ちょっと!」
文句を無視して舌を伸ばすと、ぎゅうっと性器が締め付けられる。
「良! くすぐったい!」
「うん」
「うんじゃなくて!」
「我慢して」
「もう!」
手術のお陰で性感帯が出来たね、なんて引くほどデリカシーのないことはもちろん口にしないけど、凄く締まるし、先も濡れてる。言わないけど。
声を上げる蓮を見ながら愛撫を続けていると、急かすように腰が揺らされた。
俺は膝を攻めるのを切り上げて、吐息交じりの声を頼りに先を進めた。
「痛くない?」
「大丈夫、ありがとう」
動き続けていると、肌寒かった部屋が心地よく感じられるくらいに体温が上がってきた。
蓮と繋がったまま、この丁度いい快感を一日中味わっていたい。
「これは好き?」
「うん、好き」
赤い顔に笑窪が出来て、堪らなく愛おしい。
くたっとしてきた蓮のを手のひらですくって、むにむにと揉むと、「こら」と抗議が上がる。
「なに?」
直ぐに弾力が出たのが自分でも分かっているのか、蓮はそれ以上何も言わない。
手淫に合わせて自分のを中へ押し込んで、想像するしかない蓮の違和感と、想像の易い快感を混ぜ合わせていく。
次第に蓮の声が止まらなくなって、手の中の張りも、可愛い顔には似つかわしくないほど硬くて熱い。
快感が高まって、ついつい激しく動いてしまいたくなるけど、なんとか理性をひっ掴まえて、乱暴にならないように気を付ける。
「良」
蓮の右手が伸びてきて、指を絡めて握った。蓮がいい時の合図だ。
蓮の声が上ずって、揺らす度に音階上がっていく。左手が口を覆ってまた少し低くなる。
あれ、G4ってもしかして、いやいや今は考えるな。
雑にならないように、リズムを感じて、丁寧に繰り返し。
こんなことを考えながらしてるって言ったら、蓮は大笑いするだろうな。
「蓮、大好きだよ」
「俺も、良が大好き」
「そういえば関田から画像が送られてきたよ。ナンバーワンとって」
冷めたコーヒーと美味しいケーキでお腹を満たして、ベッドで横になりながら渡されたスマホを見ると、関田の膝に乗っかって、首に腕を回しているボディコンシャスな俺だった。
あの野郎!! なんてもん蓮に送りつけてんだよ!!
「これって浮気に入る?」
真顔で聞くと蓮は大声で笑った。
「関田とさっきみたいのがしたいの?」
「ぜんっぜん」
「じゃあならない」
俺はホッとして再び天井を見上げた。
BGMはいつの間にかバッハに変わっていた。バッハ父さんは今日も俺の性的な行為を回避する。
「この服って捨てたの?」
「一応取っといてあるよ、着て見せようか」
俺はしゅばっと立ち上がってクローゼットを開けた。
「いやそれはいいけど」
「そう?」
断られたけれど、一応出して見せた。
「なんで二着あるの?」
「関田の分。余るから、俺が二着とも貰ってきた」
「あ、そうなんだ」
「関田忙しそうだったし、実際着る暇なかったな」
「その服で力仕事してたら、指以外も怪我してたかもね」
くすくすと笑う蓮に、赤い方を自分の前に当てて、「お陰で俺はナンバーワン取れたけど」と、ツンと気取って見せた。
「うん、赤が似合ってる。白も似合ってたけど」
「そう? 蓮は赤より白かな」
ベッドに腰掛ける下着姿の蓮に、二着を交互に合わせてみる。
赤い方は派手過ぎていまいちだ。白い方なら光沢もあって、蓮の笑顔が映えるだろう。
「どれどれ」
興が乗ったのか、蓮が立ち上がって白いワンピースを受け取った。
「これどうやって着るの?」
「伸びる生地だから、脚からでも頭からでもいけると思う」
俺は内心驚きつつ、蓮が白いワンピースに脚を通すのを見守った。
「どうかな」
「おお……」
俺が着て布地が伸びたのか、服と肌の間に隙間があるのがかえっていやらしい。
「君がナンバーワンだ!!」
「別に嬉しくないんだけど」
蓮の両手が白い布の上を滑っていく様に、少し股間が疼く。
さっき素っ裸でくっ付いていたところなのに、タイトな布で隠されて、返っていやらしさを感じる。
「またしたくなってきたかも」
「ええ?」
「だってさ――」
蓮が揺らすスカートに手を伸ばしかけて、ふと躊躇って薄い腰を抱き寄せた。
うーん危ない。
あのとき野郎どもに胸を覗かれて腹が立ったのに、こうも簡単にスカートを捲りたくなるなんて、恐ろしい。
「むらむらするの?」
「……する」
「女の子みたいだから?」
ん?
「蓮だからだよ」
覗き込むと視線が逸らされた。唇が何かをためらうようにむにむにと動いている。
「良は、女の子としたくなる?」
「えっ!?」
驚いて、それから脳内で「うわーーーーっ!!!」と叫んだ。
梨沙の家で蓮との女装プレイを想像した時に、「じゃあ女とやれよ」と捨てられるに至ったことがフラッシュバックした。
「そんなこと蓮と付き合ってから一度も思ってないよ!!!」
しまった、さっさとこんな服捨てればよかった。
「ほんと?」
ちょこっと見上げる蓮に大きく縦に頭を振る。
「一人でする時も蓮しか想像してない!! 蓮のことだけむちゃくちゃにしてる!!」
頼む、この言葉で帳消しになってくれ!!
「むちゃくちゃって……まあいいけど」
「ごめんこんなのすぐ捨てるから!!」
「いいよ、汚れてるわけでもないのに」
「もっててもしょうがないし!!」
「でもむらむらするんでしょ?」
「えっと、いやそのそれは……」
しろどもどろになる俺を蓮は笑って、両腕を俺の肩に乗せた。
「他の子に着せないなら取っておいていいよ」
「ほかのこに?」
意味を理解するのにちょっと間が必要だった。
「それって……」
「まあオプションとして? たまに着てあげてもいいかなって」
「えーーーーーーっ!!!」
「うるさっ」
俺はひしと蓮を抱きしめた。
「よかった」
「なにが?」
「女の子とすればって捨てられたらどうしようかと思った」
俺が正直に告白すると、腕の中で蓮が揺れた。
「そんなこと言わないよ!」
「そう?」
再び蓮の顔を覗き込むと、蓮は笑窪を作ってから、「良を嫌いになったりしない」と嬉しいことを言ってくれた。
ちょいちょいっと頭を撫でられて、俺の胸は愛しさでいっぱいになった。
「蓮、腋舐めていい?」
「は?」
一変して蓮は呆れた顔になって、「ほんと変な性癖」と零しつつ、両腕を上げてくれた。
ちゃんと綺麗にしてくれている。俺のためだと考えるだけで気持ちよくなってしまう。うん、変な性癖だ。
舌を伸ばして皮膚を舐めると、蓮が恥ずかしそうに身を縮めた。
「これほんとに恥ずかしいんだからね!」
「ごめんね、嫌なら我慢するよ」
言うくせに吸い付いて、くすぐったがる蓮の声を聞くと楽しい。
性癖を爆発させながら、じりじりとピアノへ追い詰める。
「あっ、ちょっとピアノが!」
「うん」
曖昧に頷いて、二の腕を舌で上がっていく。
「ねえ、良!」
「うん大丈夫。ケーキ食べたからしないよ」
そうはいいつつも、もちろん勃ってはいる。しょうがない。
「……いいよ、しても」
驚いた俺の前で、蓮は自分でスカートの中に手を入れて下着を脱ぐと、ピアノにうつ伏せて肩越しに振り返った。
「しよ?」
俺の脳天に、落雷の如く衝撃が走った。
「蓮……」
思考が追いつかないまま、後ろからかぶりついた。
ああ、どうしたんだろう。久しぶりだからかな。俺が女の子と浮気しないか心配なのかな。
動揺しつつも、予想もしていなかったシチュエーションでの二回戦に、快感がざんざんと股間に降り注ぐ。
邪魔なワンピースを引き下げて、細い産毛の流れる肩甲骨の間を撫で下した。
白い肌が艶のある黒い天板に映えて綺麗だ。
なあ蓮、俺にもっとどうなって欲しい?
体を鍛えた方がいいかな。もっと頼りになる男がいい? どんな大人になったら蓮はずっと俺といたいって思うのかな。
聞きたいけど口にできない。今のままでいいなんて言われたら、きっと嘘だって思ってしまう。
「良、気持ちいい?」
「うん、凄くいい」
「もっと気持ちよくなって?」
「蓮」
「いいからして」
「うん……」
どうしよう、どうしたんだろう。
快感に集中することがマナーだと分かっているけど、いつもと違う姿に、心中はごちゃごちゃとしていた。
「蓮、どうしたの?」
「いやだった?」
「いやなんかじゃないけど、いつもと違うから」
自分の荒い息と蓮の太腿でひらひらと揺れるスカートが、気持ちを言いようのない不安へと傾けていく。
胸を打つ動悸の詳細が曖昧で、顔が見えないせいか蓮の心の内も読めない。
折り重なって、伸びた蓮の柔らかな襟足に鼻を埋めた。
「蓮、教えて、どうした?」
「……いっぱい気持ち良くなったら、弾きたくなるかなって」
ああ、そんなことを思ってこんな風に頑張ってくれてるのか。
「勝手なこと言ってごめん」
「そんなことない、嬉しいよ」
なにやってんだ、早くピアノを弾かなきゃ、こんなに嬉しい気持ちで満たしてくれる恋人のために。ずっとずっと、そばに居たいんだから。
気が散ってしまいそうで目を瞑った。早く達してしまいたくて、揺れながら手のひらで蓮の身体を撫でまわしていると、太腿の筋肉がはっきりと浮いているのに気が付いた。目を開けて、さらにその先で蓮が爪先立ちになっていることに気が付くと、何故か俺の理性は壊れて、最後まで蓮の名前を呼び続けた。
シャワーを浴びて、濡れた髪を適当に拭ってピアノの椅子に座り蓋を開けた。
「良?」
蓮が呼ぶ声を聞きながら埃避けを外し、現れた手垢一つない白と黒の鍵盤を見下ろす。
ひとつ深呼吸をして、蓮を隣に呼んだ。
左に愛しい体温を感じながら、もうひとつ息を吸い込むと、石鹸の香りが大きく膨らんだ胸に充満した。
右手を鍵盤の上に掲げると、蓮の身体が緊張したのが分かった。
二人の視線が、G4に近寄る三番の指先に注がれる。
でも指は鍵盤の上、十五センチで動かなくなり、それ以上近寄ることができなかった。
次第に指先が震え始め、蓮が俺の右手をそっと握って引き取った。
「無理しないで」
なんでだよ。
蓮に何か一つでも特別な俺を見てもらいたいのに。なんでだよ。
摩られる背中が温かい。零れた涙が蓮の胸に染みていく。
さっき期待と石鹸の香りで満たされた俺の胸は、ただ情けなくて、腹が立って、恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。
蓮は俺の髪を乾かしてくれ、ずっとくっ付いていてくれた。
時刻は一時を過ぎたばかりだったけど、窓の外で木々が激しく影を揺らし始め、雲行きが怪しくなってきたからと、蓮に帰るよう促した。
心配そうにする蓮に、「すぐ元気になるから」と笑って見せて、バス停まで見送った。
バスが行ってすぐに雨が降り出して、丁度良かったと走って家に帰ると、母さんがガレージから出てきたところだった。
蓮と入れ違いになったことを知った母さんは、「もう帰っちゃったの?!」と、朝の蓮と同じように肩を落としてがっかりした。
遊びに行った先で評判のいいショコラティエを教えてもらったらしく、蓮と食べようと、車を走らせ買ってきてくれたらしい。
自分のせいで、母さんがせっかく足を延ばして買ってきた美味しいチョコレートを蓮に食べさせてあげられなかったんだ思うと、俺はなんだかもう自分の何もかもが鬱陶しくなって、布団をひっかぶって縮こまった。
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