第14話 姉と弟
学校祭最終日は快晴。一般解放で大混雑になった。
昨日家に帰って見てみたら、ワンピースの脇の下がほつれていた。母さんが直ぐに縫ってくれたけど、関田の分だった赤のがあったことを思い出して、最終日はそっちを着ることにした。
ただの筒状の布としか思えない真っ赤なベアトップミニ。それがバブル然としてよかったのか、いつの間にかウェーブヘアーにされていた水色のウィッグがよかったのか、突如俺は店のナンバーワンに躍り出た。
「上岡! 次こっち!」
「はいはい」
「次はこっちねー」
「はいはい」
「ウィッグズレてる! ちょっときて!」
「はいはい」
なんだこの忙しさは! 衣装一つでこんなにも需要は変わるもんなのか! だからなんだよ写真撮影って!! 喫茶店とは!!!
色々と言いたいことが喉元まで出かかったが、今日で終わりなので耐えた。
女装をして三日、肩を抱かれたり、二人でハートを作らされるくらいならノリノリでやってやるが、太ももを執拗に撫でられたり、ベアトップの中を覗かれるのはなぜだか異常に腹が立った。もちろん相手はふざけているだけなのだが。
ふざけているからなのかな。見世物みたいに扱われているから? いやそもそもそういう目的で女装させられているわけだしな。
別に今までは触られても見られても構わない場所だったのに、どうしてだろうな。
「うーむ……」
父さんも『付き合い』で女の子がいるお店に飲みに行くと聞いたことがある。父さんがあんな風に女の子の腰を抱いて酒を飲んでいたら……んー結構きもいな!!
突然父さんにとばっちりが行ったところで、俺は大人になっても絶対女の子が隣に座る飲み屋には足を踏み入れない! と密かに誓ってみたが、それがボディコンを着たからというのは、なんとも変なきっかけだ。
「あー暑いなー今日」
つい声に出してだらしない体勢でテーブルに寄りかかる。気温もお客も色々と暑苦しい。
「はい、うちわあげる」
高田さんに渡されたのは、今年の夏の甲子園で二回戦まで健闘した県内の高校の記念うちわだった。
「ありがと……」
日焼けした男たちの眩しい笑顔に暑さが増したが、しょうがなくそれで顔を煽った。
「良一、その服学校祭が終わったら俺にくれ」
「へ?」
唐突に現れた辺見は、どうも真面目に言っているようだった。
言ってやりたいことは色々とあったが、俺は自分がナンバーワンを取った服が、辺見の変態の一部になることをよしとできなかった。
「記念に取っとくからヤダ」
「そ、そうか」
辺見はショックを受けていたが、案外素直に引き下がった。千円で買えることを思い出したのかもしれない。そろそろ誰かが辺見を止めないといけない気がしてきた。
「良一!」
覚えのある声に呼ばれて振り返ると、梨沙だった。
「お、来たか」
すると梨沙の後ろから姉さんも登場して、思わず「おお」と声が出た。
姉さんはいつも通り、音楽鑑賞にでも行くような黒いロングワンピースに、誕生石のガーネットのネックレスをして、透けたカーディガンを羽織っている。長身なこともあるだろうけど、我が姉ながら特異なオーラを放っている。
教室が一瞬静まって、注目を浴びた二人がこっちに来る。
理由が明らかとは言え、クラスメイトの視線が自分の身内に刺さっているのを見るのはなんとも言えない気持ちだ。
「姉さんも来てくれたんだ」
「うん、ちょっとね」
うん、ちょっとね?
なにか気になることがあるんだろうか、俺まで気になっちゃう。
学校に宝でも埋まっているんだろうか。もしくは良くないことが起こるとか?
目を細めて姉さんの様子を窺うと、ほんの少し楽しそうにしている。それも珍しいことだったけど、悪いことは起きないようだとホッとした。
「りょーち! 誰だよ紹介しろ!」
気合の入ったメイクにされていることを忘れたコンシャスな格好の男たちが俺の後ろに並んだ。
「幼馴染と俺の姉さん」
「お前こんな美人二人に囲まれてるからいつも余裕ぶっこいてんのかよ!」
「幼馴染と姉さんだって」
「幼馴染とか、響きだけで震えるな!」
赤城が両腕で自分を抱きしめた。
「震えるな。こいつは俺にとってほぼほぼ男だ」
「うっさいな!」
梨沙は俺をどついたが、男たちはそれすら羨ましがった。
知り合いを見つけた梨沙が、「ちょっとここにいて」と姉を置いて廊下でぎゃあぎゃあと再会の儀をやっている。
俺は男たちを蹴散らして、「なんか食べる?」と姉さんにメニューを勧めた。
「飲み物もらえる?」
「もちろん」
俺はカウンターで紙パックのグレープジュースを貰って、ストローを指して姉さんに渡した。
マットな赤い唇がストローをそっと咥える。
ストローに全く色が付かないのをきっと前なら魔法のように感じただろうけど、今はティントリップという存在を知ったから驚かない。
音もなく何口かを飲み込んだ後、姉さんの唇が微笑みの形になった。
「昨日、ソが聞こえた」
「え?」
「G4よ」
昨日の音楽室のグランドピアノが脳内で音を鳴らした。
実の姉だ、ゾッとしたりはしない。もうすっかり慣れているし、むしろ俺とっては愛だ。
俺は感情が高ぶって、姉さんの頬に唇を押し付けた。
くすくすと笑う声がして、離れると姉さんはゆったりと左右に揺れた。
「ごめん、グロスついた」
すぐそこにあったティッシュを引き抜いて渡そうとすると、姉さんは首を振ってそれを固辞した。
「いい、このままで」
「結構ちゃんと付いてるよ?」
「弟がまたピアノを弾いた。素敵な記念のキスマーク」
「一つ弾いただけだよ」
姉さんは喜んでくれているが、俺はちょっと照れくさい。
姉さんは、「ううん」と喉を鳴らして首を左右に振った。
「一つで済むはずがない、再開のG4よ」
「……」
姉さんが言うなら、そうなんだろう。
姉さんは昔からあまりいいことは予言しなかった。一度どうしてか聞くと、いいことはそのままでいいけど、悪いことは防ぎたいでしょ? と至極当たり前のことを言われた。
いいことも予言したほうが周りはもっと姉さんのことを大切にするんじゃないかと思ったけど、そうしない理由もきっと至極当たり前のようにあるんだろうと分かった。
彼女が何もかもを知っているわけではないと頭では理解しているけれど、俺にとっては実在する神様のような存在だ。その姉さんが、恐らくそういった運命を全て忘れて浸れるのがバイオリンで、音楽だった。だから幼少期に、「良一はピアノがいい」と姉さんに言われたときも、それが俺との純粋な遊びのために勧めたんだと分かったし、子ども心にとても嬉しかったのを覚えている。
だから、ピアノが弾けなくなって、一番は姉さんに罪悪感を抱いた。彼女の純粋な人としての部分に寄り添い続けられなかった自分に腹が立った。
そうだ、腹が立っていた。やっぱりあれが俺の思春期で、反抗期だったんだ。
「これからもずっと、良一は私の一番大切な弟」
「……え?」
顔を上げた先の、微笑む赤い唇を眺めた。
――ああそうか、姉さんは分かっている。
だから黙って待っていたんだ。運命が変わってしまわないように。
俺にはそんなエスパーな姉さんがいて、蓮がいて、そしてどうやらピアノもあるらしい。
「うん」
持っていたティッシュをちょっぴり濡れた目じりに押し付けた。
「良一のお姉さん」
「ん?」
声を掛けてきたのは再び辺見だった。
俺は鼻をすすって横に立った辺見を見上げた。
「そうよ」
姉さんが辺見に頷く。
「是非俺に校内の案内をさせていただけませんか?」
「は?」
唐突な辺見の提案に、俺は驚いて、「は」の口が開いたままになった。
姉さんは無言で辺見に身体ごと向き直ると、いつも初見の相手にするように丁寧に辺見の全身を上から下へ視線で往復した。
姉さんは何かを感じたようで、うんうんと頷き、「面白い人ね、好奇心の強い人は好きよ」と、目を細めた。
「嬉しいです!」
「えっ!?」
俺の口は、「え」の形に変わった。
「なしたのー? うるさいよ」
ちょうど戻ってきた梨沙が俺の頭にチョップを決めた。
「梨沙ちゃん、ちょっと面白そうだから、私この人と行ってみるわね」
「え? うん、いいけど……」
梨沙も驚いた声を上げたが、椅子から立ち上がる姉さんを止めることはしない。
「え」の口のまま硬直した俺の脳内では、『アナルセックス』『彼女の下着を履いてオナニー』という、血縁に結びついたら気がどうにかなりそうな言葉がキューで撞かれたビリヤードの玉のように勢いよく脳内で弾けまわった。
いやアナルセックスは俺もしてるか。
いやそういうことじゃない!! 姉さんが!! ああっ!!
行こうとする二人にからがら手を伸ばす。
「だ、だめだ……」
「良一?」
掠れた声を絞り出した俺を梨沙が訝しむ。身体がぶるぶる震え始めた。
「姉さん駄目だ、そいつは——」
力の入らない脚で立ち上がった俺に、振り返った姉さんの瞳がキラッと光った。
大丈夫よ。
そう言われたのが分かって、そうだったと自分を落ち着けた。
「どうしたのよ」
梨沙が気持ち悪そうな顔でこちらを見ている。
「……なんでもない。大丈夫だった」
大丈夫、大丈夫だ、俺の姉さんは大丈夫。
ただああいう姉だから、ああいう変わったやつが好みなのかもと、一瞬もの凄く動揺してしまった。
「大丈夫、大丈夫だ……」
「結構今キモいけど?」
梨沙を無視して自分を納得させるために頷き続けた。
「おいりょーち、辺見が姉さん連れて行ったけど色々大丈夫か?」
「……っ」
フランクフルトに齧りつきながらヘラヘラと言ってきた中村を球児うちわでぶん殴った。
利久のクラスへ向かった梨沙を見送ると、入れ替わるように関田がやってきた。
「あれ、休憩?」
訊きながら、関田の左手の薬指と中指に包帯が巻かれているのに気が付いた。
「ちょっと挟んじゃって」
「うわ大丈夫か」
「うん、折れたりはしてない。ただ俺、力仕事担当だったから、お役御免になって」
俺は昨日、関田が校庭でせかせかと働いていた姿を思い出した。
「そっかそっか、でももうほとんどやることもないだろ? 今日で終わりだし」
「いや、この後片づけがあるから、結構申し訳ない」
「いいんだよ、人手はいっぱいあるだろ。なんなら俺が代わりに行くし」
いいかも、蓮もいるし。
「ありがとう良一!」
眉を八の字にした関田を椅子に着かせて、店のナンバーワンからジュースとフランクフルトを驕った。もう店にはそれしかないらしい。
嬉しそうにジュースを啜る関田に、仕事に疲れたサラリーマンを相手するホステスのような気持ちで言葉を掛けると、関田は普段よりも言葉数を増やして準備期間中からのあれこれを吐き出した。
蓮が言っていた通り、関田の話は面白いわけではないが、いたって普通の人間らしい感想だった。
たった三日のお祭りのために色んな準備や近隣住民への根回しが必要なこと、メインで動くのは二年生だったが、先生方や生徒会、経験のある三年生がちゃんとサポートしてくれたこと、そして蓮が大川さんという女子に実際に振り回されていたことや、周りの人間が途中でそれに気付いて、できるだけ蓮の負担が増えすぎないように一致団結したこと。だから最後の最後になって怪我をしてしまったのが申し訳ないと言った関田が、蓮が恩を忘れないでいるに足るいい奴なんだと納得した。
ミラーボールが関田の顔にチラチラと光を当てている。
活きのいい年頃の俺たちは、つい面白さや意外性や爆発力を求めがちだけど、こうして余計なことは言わず、やるべきことを黙々とこなすのが大人というものなんだろう。
関田はとぼけてはいるけど、もしかしたら周りよりも先に大人になってしまっただけなのかもしれない。分かんないけど、そういうことにしておいてもいい。
「関ちゃん!」
声に振り返った関田が、ひょっと背筋を伸ばした。
「あれ、藍」
「らん?」
俺は関田が呼びかけた相手に目をやった。
小走りで関田の元にやってきたのは、中学生くらいの男の子だった。
「よかった会えて!」
にこっと関田に向けた彼の笑顔が、俺の全身の毛を逆立てた。
嬉しそうに関田の肩をポンポンっと叩いた男の子は、恐らく蓮の弟だ。
「あ、良一、蓮の弟の藍だよ」
わあってるわ!!
「初めまして、上岡良一です」
ぺこりと下げた視界に、露な太腿と真っ赤なミニワンピが映った。
初めて蓮の身内に会うってのに、こんな姿なのかよ情けない。
「はあ、どうも」
俺を見る蓮の弟に笑顔はない。微かな愛想すら感じられない。
この格好のせいかな。人見知り?
「良一は蓮の友達だよ」
自ら友達だと嘘の申告するのは正直かなりのストレスになるから、今は関田がいてくれてよかった。
「そうだよ!」
愛想に気を付けて肯定する俺を藍は遠慮なく視線で見定めた。見定めて、それでも表情は変わらなかった。
「兄貴に友達なんていたんだ」
「そりゃいるよ!」
関田は笑ったが、俺はむっときた。
「なんでそう思うの? 蓮はいい奴だよ?」
苛立ちを尻の下に隠してにこやかに首を傾ける。
「蓮は変だから」
ふんと鼻を鳴らして明らかに軽んじるトーンで蓮の名前を呼んだ弟に、ついに眉が寄ってしまった。
今にも喉から「ふざけんなよ」と出てしまいそうで、「そんなことないよ」と優しく否定してくれた関田に、もう一度心から感謝した。
それにしてもこの顔、八重歯こそないけど笑窪はしっかりとあって、まるで中学生の蓮を見ているようだ。見たことないけど。つい胸がドキドキしてしまう。
「なんでそんな格好してんの?」
見下げた眼差しもちょっと堪らない。
いやいやおちつけ俺! 中学生だ! いや恋人の弟!!!
「良一はうちの店のナンバーワンだよ!」
なぜか関田が胸を張って俺の背中に手を置く。おうそうだ、そんでお前の兄貴の恋人だ。
「ここおかまバーなの?」
「いいや、バブル喫茶だよ」
「バブル?」
関田がさらに補足したが、全く理解はできていなさそうだ。
「今日は藍一人で来たの?」
関田の質問に俺はハッと背筋が伸びた。まさか親も来ている可能性が!?
「うん一人」
なんだ。
俺の背筋は丸くなった。
「兄の学校祭に来るなんて、なんだかんだ言って蓮が好きなんだね」
俺が笑い掛けると、藍はキッと眉を寄せ、「一応ここも進学先の候補だからだよ」と、うっとおしそうに俺を睨んだ。
藍の態度に腹が立つのと同時に、蓮に冷ややかな目線を送られているようでぐっとくる。変な扉開いちゃいそう。
「ここってなんか食べるところなんだよね?」
藍は明らかに関田に聞いたが、二人の間に頭を突っ込んで、関田よりも早くその質問に答えた。
「うん、食べ物は全くバブルに関係ないけどね」
「バブルに流行ってたもんなんか知らないし!」
「うん、俺も知らない!」
やめろ、蓮に似た顔でジト目になるな。可愛いだろうが。
俺は先輩風を吹かせて藍くんにジュースとフランクフルトを奢った。
「魚肉じゃん。ちゃんとした肉のが食いたい」
うんざりした顔の藍をケチャップではたきたくなったが、年上としてなんとか耐えた。
関田と一緒に校内をまわることにした藍を見送って、俺は蓮のことを考えた。
あまり兄弟仲は良いようではない。
――蓮は変だから。
思春期の弟の言うことだ、気にするものではないのかもしれない。でも、実際に変わってるからって俺は姉さんのことをそんな風に言ったりしない。今まで一度だって。それは俺が姉さんのことが好きだからだ。
彼は蓮が好きじゃないのかな。前に蓮が言っていた、昔の落ち着きのなかった蓮の印象が良くないものとして刻み込まれているのかな。
実際のところ蓮の私生活は今も謎だった。蓮がいい奴であることは疑っていないし、俺は蓮が大好きだし、できたら一生恋人でいたい。
高校生のそんな言葉に微塵も信頼性がないのは分かっている。それに俺にはまだ蓮の知らない部分が多くある。でも、普段の姿とそう大きく違うとは思えない。付き合いの長い関田といるのを見ていてもそうだ。
関田はあの弟とも仲がいいみたいだし、親同士の交流もあると言っていた。関田が否定したのに、なんで藍は蓮を変だなんて言うんだろう。
「関ちゃん、だってさ」
曖昧なままになっている蓮の家での姿と、その蓮を知っているんだろう関田への複雑な感情が混ざり合って、頭の中はちっともまとまらなかった。
でも明日は一緒にいられる。
久しぶりにいちゃつきまくって一緒にシャワーを浴びて、それからアイスを食べよう。
それと、それから――。
ピアノを弾いてみようかな。そしたら蓮も――……いや、そんな風に期待するのはいいことじゃないか。
弟と会ったと話して、蓮が話してもいいことを話してもらおう。
そうだ、それがいい。
そう気持ちを決めると、昨日の音楽室でしがみついてきた蓮の感触が思い出された。
重なった心を信じて、ずっと一緒にいられるように俺は自分に自信をつけよう。変えられるのは自分だけなんだから。
「りょーち! こっちー!」
ああ、まずはこのボディコンを脱ぎ捨てないとね。
「はいはい」
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