第13話 学校祭 3



 学校祭二日目。

 昨日の夜には雨も上がり、今日はすきっとした空で暖かい。夜の花火も上げられそうだとアナウンスがあって、学校中が歓声を上げた。


 今日は体育館でのイベントが幾つかあって、店は昨日よりも随分空いている。

 堺は相変わらずゲームをしていたが、クラスのやつらの幾人かはステージで歌ったり踊ったりするらしく、コントを披露する部活もあって、見物人も含めて、ボディコン野郎も女子も少ない。

 特に興味が湧かなかった俺は居残り組に手を上げて、退屈しのぎにぼんやりと窓から前庭を見下ろした。


 吹いてくる風が丁度いい温度だ。教室では聴き覚えのある男性ヴォーカルの曲がかかっている。

 昨日はやかましいディスコミュージックがかかっていたけど、イケイケのあの時代に生きていない俺たちは直ぐに頭痛を起こし、早々に現代の曲に変えられていた。


「体育館には行かないの?」

 声を掛けてきたのは高瀬先生だった。三つ連なったいちご飴を持って、四つあったんだろう先端の一つをもぐもぐと食んでいる。

「美味しそうなもん食べてるね、それどこのクラス?」

「三年B組だよ」

 お、利久のクラスだ。

「あとで行こ」

「うん」


 先生に椅子を勧めて並んで座った。

 実に平和だ。お客もクラスメイトも穏やかに談笑モード。先生の口から聞こえる薄張りの飴が砕ける音が心地いい。

 壁に寄り掛かり、何の気なしに両脚を前に伸ばすと、むき出しの脛の先で薄汚い上履きが男子高校生である証のように並んでいる。


「恋人とは仲良くやってる?」

 先生の小さい声ですぐに蓮の姿が浮かんだ。抑えられず口角が上がる。

「うん。昨日キスした」

「なんだって?」

 先生がぎょっとしてこっちを見た。

「最近向こうが忙しくて会えてなくてさー、ちょっとネガってたんだ。ついつい将来のことまで考えちゃって」

「ねがってた?」

「ネガティブになってたってこと」

「ああ」

 隣から理解したらしい声が上がり、またパリパリと音が鳴る。

「将来のことは考えていいと思うけどね」

 押しつけがましくない先生の口ぶりに笑ってしまいながら、振り出しに戻った俺の進路を思い出した。

「確かにそうなんだけどさ、あんまりいいイメージになんなくて」

「そうか」

 先生が次のいちごを口に入れた。

 甘い匂いが漂って、それを外からの風がさらっていく。


「夢ってさ、あるべきなのかな」


 去っていくいちごの香りを追いかけるように、口から気がかりがこぼれた。


「なくてもいいよ」


 あっさりと言われて顔を向けると、先生はいつも通り優しく笑っていた。

「なくてもいい。なんとなく生きてても、ちゃんとなるようになるよ」

「本当?」

 先生は最後のいちごを口に入れてうんうんと頷いているが、教師が言っていいセリフには思えない。

「それ、俺の成績がそこそこだから言える言葉?」

 怪しむ俺に、先生は喉を鳴らすように笑って、ほんのり赤く染まった竹串を魔法使いの杖のようにくるくると回した。


「人は思いがけないきっかけでやる気を出す生き物だし、それに——まあそうだね、こうという目標がなくても、そこそこの成績のための努力ができるなら、十分責任感のある社会人になれるって俺は思うよ」


 ふーん。それはなかなか前向きになれる励ましだ。


「でも先生はなんとなく教師になったわけじゃないだろ?」

 つんとしてショルダーアタックをしたが、先生の体はびくともしなかった。

 おお、と思ったそのとき、先生がこそっと秘密を打ち明けた。


「俺、好きな人が教師だったから自分も教師になったんだ」


「…………」


「無言はちょっと気まずいんだけど」

 困った顔の先生に、停止していた脳がバチッと音を立てて機能を復活させた。

「びっくりし過ぎてフリーズした!」

 くつくつ笑う先生に、「結構衝撃なんだけど!」と言いつつ、なんと返していいのか分からない。

「高校の時の先生が好きだったの?」

「ううん、高校生になってから中学校の時の先生を好きになった」

「なにその時間差」

「ま、色々あってさ、気が付くのが遅れたっていうか」

 先生は、「ははは」と照れ隠しのように軽く笑った。


 好きって恋愛対象ってことかな。でも同じ教師を目指すという着地点から考えて、憧れって感じがしっくりくる気もする。そして先生は中学じゃなくて高校教師を選んでいる。


「その人どんな人?」

「んー、悩んでた俺をいつも励ましてくれた」

「重たい悩みがあったの?」

「どうかな、今となれば落ち着いて思い返せる程度だよ」

 先生は笑って言ったけど、「どんな?」とさらに訊ねることはできなかった。


 俺たちの年頃には誰にでも悩みはある。思春期ってやつだ。俺の思春期はというと、親に反抗したわけじゃないし、誰かと殴り合いの喧嘩をしたわけでもない。彼女が二人できて振られたけど、落ち込むこともなかった。だから自分には思春期なんてなかったなーなんて思っていた。

 でももしかすると、ピアノへの情熱を失ったあの日こそが俺の思春期の頂点だったんじゃないのかな。


「…………」


 突然答えに行きついたようになって驚いた。多分、先生の秘密の告白のせいだ。

 ここ最近、蓮の存在があの頃を思い起こさせた。ピアノへの情熱があった日々。

 そして将来を考える今もまた、ぽつりぽつりとピアノのことを思い出している。

 あともう少しマップが開きそうな気配があったけど、ふと別の考えが浮かんで気がそちらに向いた。


「じゃああのとき俺に教育学部を勧めたのって」

「半分は本気だったよ? 好きな人に影響されたって構わない。だって俺がこうだからね」

「てっきり俺の目を覚まさせるためかと」

「そんなことはしないよ。あれは上岡くんが思ってたから出た答えだよ」

「そっかな」

「上岡君は、きちんと自分で答えを見つけられる人間だよ」

 先生に言われると素直にそうなのかなって思える。不思議だ。

「きっと大丈夫だから、落ち着いてよく考えてみて」

 俺は先生の言葉に従って、呼吸を落ち着けて自分の心に向き合った。







 店番の交代をして、野郎四人で校内を回った。珍しく堺もゲームを止めて付いてきた。

 ボディコン衣装の俺たちは、指を差されたり笑われたり、時々写真をせがまれたりしながら、焼きそばを食べ、アメリカンドッグを食べ、綿あめを食べ、各教室のコンセプトをバブル衣装でぶち壊しながら、ようやく三年生の階までたどり着いた。


「お、りょーち!」

 利久が丁度店の前に立っていて、俺を見て手を上げた。

「なにその格好」

 利久はスカート丈の短いセーラー服を着ていた。サッカー部の逞しい脚が恐ろしい凶器のように二本伸びていて、黄色いビニール紐で作った雑な三つ編みをしている。

「お前たちこそ噂通りすげえな!」

 手を叩いて笑う利久に、俺はなんとなく勝ったような気持ちになって、いやいや何を張り合っているんだと冷静になった。

「さ、女子高生輪投げ喫茶へようこそ!」

「女子高生輪投げ喫茶?」

 ボディコン四人衆は声を揃えて繰り返した。



 女子高生輪投げ喫茶は、立ったり座ったりしている女子高生にフラフープを三投して、掛かった数でグレードの変わる茶菓子が提供されるというシンプルなルールだった。ただ、利久を見て分かるように全て男の女子高生だ。


「三回成功すればおまけの一投があって、それも成功すればいちご飴が付くぞ」

 はあ、つまり高瀬先生はおまけの一投まで全て成功したってことか。胸の内で思わず唸った。先生のイメージがまた更新された。

 下級生であるボディコン野郎を前に、男子女子高生たちはライバル意識を剥き出しにして全員が立ち上がり、腕を組んで俺たちを睨みつけた。

「難易度上げないでくださいよ!」

「うるさいぞりょーち!」


 盛り上がるギャラリーのヤジと上級生の圧に負け、俺たちは二投が最高で、堺に至っては一投も入らず、「クソゲーマー!!」と俺たちになじられた。



 本物の女子高生がサービスでくれたいちご飴を食べながら、廊下の窓の桟に並んで体育館から聞こえるバンド演奏に耳を傾けた。はやりのアニメの主題歌だ。


「あれ関田じゃね?」

 腕章を付けた関田と数人がせかせかとグラウンドに段ボールを運んでいる。

「大変そうだなー」

「おん」

 蓮の姿を探したが見当たらない。きっとどこか別のところで忙しく働いているんだろう。


 さっき先生の隣で自分の心に向き合ってみたけど、前向きな将来を思い描くことはできなかった。

 もう一度両手を眺めてもみたけど心は動かなかったし、先生みたいに蓮を追いかけて教師になりたいという根性も見当たらなかったし、このままの自分で魅力ある大人になれるという根拠のない自信さえもなかった。

 取り合えず今は、近い将来完成する俺が、『つまらない男』だという現実から目を逸らさないことだけが唯一のできることに思えた。

 いつか愛想を尽かされてしまう可能性があるのなら、せめて一緒にいられるうちは蓮のいい思い出になりたい。


『会いたい、いつなら一人?』


 蓮にメッセージを打ちながら、また少し落ち込む。

 俺は蓮と学校祭を回りたかったのに、どうして二人きりで会おうとしているんだろう。

 俺たちが一緒にいたって誰の迷惑にもならない。でも絶対キスとかしたくなるし、やっぱり二人がいい。

 少し待ってもメッセージに既読は付かなかった。

 やっぱり忙しいんだろうな、関田の姿だってもう見当たらない。

 ため息をいちご飴と一緒に噛んで砕いた。


「そういやさ、辺見彼女に振られたらしいよ」

「え、まじ?」

 三石の報告に中村が驚いた声を上げた。もちろん俺も驚いたけど、最近の辺見の謎のテンションを考えると腑に落ちるような思いがあった。

「なんで? アナルセックスのせい?」

 中村が三石に訊きながら、最後のいちごを咥えて串から外した。

「なんかー、寝てると思ってた彼女にオナニーしてんの見られたんだって」

「そんくらいで? どぎつい動画でも見てたのか?」

 俺は眉を顰めた。

「彼女のパンツ履いてしこってたんだって」

「ぶっ!」

 中村の口からいちごが飛んでいって、俺と堺の口から出た悪魔のような笑いが三年の廊下に響いた。






 夕方になって、校庭の真ん中に組まれたキャンプファイヤーに火が灯された。

 だいぶ日は傾いていたが、まだ日の入りには早い。


 学校祭実行委員長から今現在の人気店トップスリーが発表された。

 飲食部門では、なんと俺たちのクラスが一位。そして僅差で利久のクラスが二位を獲得していた。両クラスの女装男子の雄叫びがグラウンドに響いた。

 各部門、上位三クラスの担任が前に呼ばれ、明日の一位獲得を目指し互いを睨みつけ合うというひと幕があったが、年配の先生に挟まれた高瀬先生はすぐに笑ってしまっていた。

 最終日に向けた実行委員長の煽り文句が校庭に響いた後、吹奏楽部の伴奏で校歌を熱唱し、その後は大掛かりなビンゴ大会が開催された。




 花火まであと二十分、BGMを聴きながらしばしのご歓談。

 クラスのまとまりが崩れて、みんなそれぞれ好きな場所を陣取り、打ち上げ時刻を待つ。

 毎年恒例の催しに、近隣住民も集まってきていた。小さい子どもの声が普段の学校とは違う雰囲気をもらたしている。


「ちょっと着替えてくるわ」

 白いワンピースじゃ座れないからと俺が言うと、他の男子たちも同意して、みんなで教室に向かうことになった。

「辺見来てないけどいいのか?」

 赤城が言って、俺とさっきの三人が噴き出した。

「いい、あいつはそっとしておけ」

 そっとしておくことで辺見の性癖が曲がっていくことは確実だったが、俺たちは悪ノリのいい男子高校生であって、その可能性を潰すなんてのは絶対にやっていいことではなかった。

 上履きに履き替えているとスマホの通知が鳴って、見てみると蓮からだった。俺は大慌てで通知を開いた。


『花火の間は一人になれるよ』


 なんということだ!!

 俺は飛び上がりそうになった。恋人を一人で花火鑑賞させるわけにはいかない。


『一緒に見るしかない!』


『三階 音楽室』


 前に関田を呼び出したメモ書きみたいな簡潔なメッセージが届いて笑ってしまった。


 先を行くクラスメイトに気付かれないよう、忍び足で階段をさらに上がった。

 電気が消えた三年の廊下を忍者のように覗き込む。ひと気がないのを確認して、反対側突き当りの音楽室のドアをそっと開けた。


 暗い音楽室の窓辺に蓮が立っていた。

「鍵かけて」

「うん……」

 肌がざわざわする。

「こっち」

 微笑む蓮に呼ばれて、さらに奥の部屋に入る。

「蓮」

 我慢できずに後ろからぎゅうっと抱きしめて、蓮の頭頂部に鼻を埋めた。

 ああいい匂いだ。夕方の男の頭からこんなにいい匂いがするなんてことがあるのか? いやない。

 と、蓮が突然噴き出したかと思うと、身体をゆすって笑いだした。

「どうした?」

 抱擁を解いて振り向かせると、両手で顔を覆った蓮が指の間から俺を見る。

「無理、そんな格好の彼氏といちゃつけない」

「え?」

 蓮は俺の水色のウィッグをちょいっと引っ張って、また顔を覆って笑い出した。

 あ……失敗した。着替えてくるのが先だった。

 

 ボディコン男に迫られた蓮の笑いは全然収まりそうになかったけど、俺の股間はすでに半勃ちで、もう着替えに戻れる状態じゃなかった。

 俺はやけになって服を引っ張り脱ぎ捨てた。ぶつぶつっと糸が切れる音がしたが知ったことか。

「良?」

 下着一枚になった俺を見て、ようやく蓮の笑いが止まった。

「こんな状態で戻れない」

 チラッと俺の股間に目をやった蓮をカーテンの掛かった窓に追い詰めて首に吸い付いた。

 せかせかと蓮のシャツのボタンを外して、きちんと着ているインナーを捲り上げる。

「え、うそ、ちょっと!」

「鍵は掛けたよ」

「ここ学校だって!!」

 分かってるよそんなの。

 無視をして口を塞ぎ、ベルトに手をかけたところでひっぺがされた。

 赤い顔の蓮がきゅっと唇を結んで、怒られるのかなと思ったら、指先が俺の股関を摩った。

「俺がする」

「え?」

「ガレージのお返し」

 ちゅっと唇を吸われ、そのまま置いてあって丸椅子に座らされた。

 舌を吸われながら下着を下され手で摩られて、床にしゃがんだ蓮の頭がまたぐらに埋まった。

「うわ……」

 久しぶりの感触にため息が出た。思わず目を閉じて、手さぐりに蓮の柔らかな髪を梳く。

「蓮」

 濡れた音が耳に響いて、腰が浮きそうなほど気持ちがいい。

「気持ちいい?」

「うん」

 気持ちいいよ、すげーいい。

 与えられる快感に身体を揺らしながらふと目を開けると、並んだ管楽器が乗り出すように俺の姿を眺めていた。


 ひやりと寒気が走った。


 忙しくしていた恋人に裸で迫って、口で気持ち良くしてもらってバカな男。

 

 ああ……。

 

 先生、本当にこのままで俺の人生上手くいく? なるようになる? 今めちゃくちゃ情けないんだけど。


 鼻の奥がツンと痛んで、眉を掻いた手で蓮の肩をぽんぽんと叩いた。

「蓮、やっぱりいい」

「え?」

 顔を上げた蓮を引っ張り起こして自分の下着も引き上げた。


「どうしたの?」

 不思議そうにする蓮の濡れた唇を拭ってぎゅうっと抱きしめて、詰まった息が震えないように細く細く吐き出した。


「違うんだ、キスしたらついその気になっちゃったけどさ、ただ会いたかったんだ。ちょこっとでいいから蓮と学校祭の思い出が作りたかった」


 そうだ、こんないかがわしい思い出じゃなくて、もっと何度思い出しても幸せな気持ちになれるやつ。

 クラシック音楽みたいに普遍的で、人生の終わりにも思い出せるやつ。

 寄り道をせずにそうできたらよかったのにと涙が滲みかけたけど、かっこ悪すぎるぞと自分を叱って耐えた。

「そっか」

 腕の中の蓮の身体が少し縮んで、背中にあったかい腕が回ってきた。

「準備期間中さ、何回か平川さんにキレそうになった」

「うん?」

 唐突に名前が挙がった平川さんの姿を思い出す。丸メガネに一つ縛りの気の強そうな女子だ。

「蓮がキレそうになったの? それは相当だな」

「なんでも俺に任せるんだよ? 自分は色々言うだけでさ」

「任せたらちゃんとやってくれちゃうからだよ」

「知らないよそんなの! 本当なら実行委員にだって自由時間があったはずなのに」

「そうだったんだ」

 文句を言う蓮は珍しい。背中を摩るとぎゅうっとしがみついてきた。

「俺だって良と一緒に回りたかった!」

「本当?」

 驚いて顔を覗くと、蓮も驚いた顔になった。

「当たり前だろ! 俺だって楽しみにしてた!」

 むっと不貞腐れた顔が可愛くて、目が細くなるほど頬が上がってしまう。

「そっか」

 喜びが胸にじんわりと沁みた。


 その時、蓮のスマホがベルを鳴らした。

「あ、ちょっと待ってね」

 蓮がスマホで何かのメッセージを送った。

「花火始まるよ」

 小窓のカーテンを開けた蓮の横顔に見惚れて、襟足に右手を差し込む。

「髪、伸びてきたな」

「うん、切ってもらわなきゃ」


 ドンッと音が鳴って、蓮の顔が明るく照らされた。

「結構綺麗だねえ」

「うん……」

 頷きながら蓮の顔しか見ていなかった。

 高く打ちあがった花火の輝きが、蓮の頬や鼻先や見上げる瞳に写って、それだけでずっと綺麗だった。

「見てないのかよ」

 俺の視線に気が付いた蓮が鼻先でふふっと笑って、笑窪と八重歯の最強の笑顔を向けてくる。

 俺はついつい吸い寄せられて、目を合わせながら唇を合わせた。


 爆発音を聞きながら寂しかった時間をキスと体温で埋めていく。

 一部の隙もなく心が重なっているのを感じた。重くもなく、軽くもない。

 胸の奥から湧き上がる情熱がとくとくと音を立てて溢れ、全身を満たしていく。

 

 ああ良かった、バッハが鳴っている時に勃起してなくて。


 神様を頼ったことは多分一度もないんだけど、ねえ神様、俺の望む喜びはさ、蓮と一緒に変わっていくことなんだ。

 今のままではいられない。情けなさ過ぎるから。

 こんなに何もない俺なのに、どうしてか蓮といると幸せなんだよ。変わっていかなきゃいけないのにさ。

 どんな俺に変わっても二人の関係は続く?

 この絶妙なバランスで二人の間に挟んだ風船を落とさずにどこまでもいけないかな。

 だって俺には何もないんだ。こんなんじゃ不安なんだよ。




「じゃ、片づけあるから行くね」

「うん、俺は服着てから行く」

 笑って手を振る蓮を見送って、床に落ちた白いワンピースに無理やり体をねじ込んだ。糸が切れた音がしたけど、別にどこも裂けてはいないようだ。


 冷ややかな管楽器を部屋に閉じ込めて、ふうっと息を吐いた先にグランドピアノが鎮座していた。

 両手で重たい蓋を開けた。


 一つ、骨が打った白鍵が、空っぽな俺を震わせた。


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