第9話 夏の思い出 2



 当日、湖に向かいながら、日帰りで行くだけならコテージを押さえる必要はないんじゃね? と思ったが、行ってみると分かった。

 管理人に鍵と一緒に渡された周辺施設が割引になるパスが最強だった。

 天然氷かき氷も予約したサップも、ランチビュッフェも日帰り温泉もみーんな割引が利いた。

 繊細に削られたかき氷は頭が痛くならなかったし、サップは腕と腰が痛くなったし、ホテルのビュッフェでは、母さんと蓮が大興奮でデザートコーナーを食い尽くしそうな勢いだった。俺はステーキを延々と食べて顎が疲れた。

 食休みをして、湖を望む温泉に浸かって、満ち足りた気持ちで帰路に就いた。




「一日遊んじゃったわねー、蓮くん疲れてない?」

 運転席の母さんが、バックミラー越しに蓮に笑いかける。

「いえ、すごく楽しかったです! 本当になにからなにまでお世話なってしまって!」

 前のめりになってお礼を言う蓮のハーフパンツから膝が覗いている。体育祭ぶりに外界に晒されている手術痕をぼんやりとした気持ちで見つめながら、二人のやり取りに耳を傾ける。

「いいのよー、私はサップやってないからまだまだ元気!」

「でも運転って疲れますよね、どうもありがとうございます」

「あー、その言葉であと六時間は運転できちゃう!」

「どこまで行くんだよ。あと三十キロで着くよ」

「それくらい元気出たってこと! あ、本当に真っ直ぐうちでいいの? 蓮くんのお家まで行くわよ?」

「いえ! 遠回りになりますし、バス一本で帰れるので大丈夫です」


 ウォータープルーフの日焼け止めを塗ったのに、俺たちの手は揃って日に焼けていた。色の白い蓮の皮膚は赤く、俺はその手の甲に自分の手の甲をぴたと合わせた。

「日焼け痛くない?」

「大丈夫。どっちも結構焼けちゃったね」

「湖は遮るものがないしな」

「本当に楽しかった。凄くいい日だった」

 呟く蓮の伏し目の先で、まつ毛が細かく震えていた。まさか泣いてしまうのかと心配になって、手を握った。

 俺の手を握り返した蓮が視線をくれる。笑窪はなく、八重歯もない。時々見せる大人の微笑だ。


 俺の中の子どもが、またホッと溜め息を吐いている。

 傾いた日差しを木の葉が遮り、チラチラと蓮の表情を明滅させている。

 脳内BGMはベートーヴェン、エリーゼのために。

 どうしてだろう、そんなに切ない気持ちに陥ってるつもりはないのにな。


「ちょっとあんたたち、急に静かにならないで! 気になって事故っちゃう」

「何もしてないですよ!」

 蓮が噴き出して、笑窪と八重歯がむき出しになった。

「ちぇ、しようとしてたのに」

 俺が拗ねた調子で言うと、「なにいってんだよ!」と蓮が声を張った。

「バカねえ」




「はーい、とうちゃーく!」

 車がガレージに入り、降りた蓮は律儀に深々と頭を下げて母さんにお礼を言った。

「また一緒にお出かけ行こうね! 蓮くんごめん! おばさんもお見送りしたいんだけど、ちょっとおトイレ!」

「さっきサービスエリア寄ったじゃん」

 小走りに玄関に向かう母さんに呆れた視線を送る。

「年取るとこうなるのよ! 蓮くんまたね! 良一ガレージ閉めといて!」

「はいよ」

 頻尿おばさんが家に入り、隣で蓮がはーっと息を吐いた。

「まだ緊張すんの?」

「するよ、お母さん好きだし」

 蓮の唇が尖がった。

「母さんも蓮が好きだよ」

「そうかな」

 嬉しそうにする蓮を見てると、なんだか久しぶりに二人きりになれたような気がした。完全に気のせいだったけど、そう感じた。

「バス何分?」

「えっと、あと十分ちょっとかな」

「そっか」


「わっ!」


 スマホで時間を確認する蓮の手を引いて、ガレージの奥に引っ張り込んで唇を重ねた。驚いた蓮の右目に何かの光が映り込んでいる。街灯?

 ちょっと強引に何度か唇を吸うと、視線のすぐ先で瞼がゆっくり閉じて、滑り込ませた舌が絡んだ。

 柔らかい唇を吸ったり、舐めたり、唾液を飲み込んだりしながら、蓮の手が置かれた腰が熱くなる。

「それで? 次はいつ会えるんだっけ」

 吐息の混ざる距離で蓮の予定を尋ねる。

「明日出て、一泊してすぐ帰ってくるよ」

「そっか」

 蓮の家族は明日、お母さんの実家へ行く予定だ。

「早く会いたい」

 抱き寄せて耳の裏に鼻を埋めると、くすくすと蓮の肩が揺れた。

「まだ一緒にいるんだけど?」

「ずーっといれたらいいのにな」

「ええ?」

 呆れたような声の後、手のひらが俺の背中を優しく叩く。

「良は今日、何が一番楽しかった?」

「今日? 温泉」

 即答すると蓮が声を上げて笑った。

「裸で一緒にいい気持ち、ほとんどセックス」

 俺の答えに、「バカだ」と笑って揺れる身体をますます力を籠めて抱きしめながら、ガレージに掛けてある時計を見た。

「なあ、バスって何分間隔?」

「二十分くらいかな、なんで?」

 俺は答えずに硬くなった前を押し付けた。

「ちょっ、ダメだよこんなとこで!」

 驚いた蓮は文字どおり跳び上がった。

 身を捩る蓮を両腕で閉じ込めて、もう一度腰を擦り付ける。

「しないってば!」

「いやだ、二日も会えない」

 蓮は、「バカみたいなこと言うな!」と俺を叱ったけど、俺にとってたった二日の蓮の不在は、永遠に感じられるほど長くて、終わりのない孤独の始まりのように思えた。

 実際旅先で何が起こるかは分からない。関田のインフルエンザが俺たちを恋人にしたみたいに、予想もしない出来事が俺たちを永遠に違える可能性だってなくはない。

 考え始めると不安はたちまち膨らんだ。この強い懐疑心の膨張を阻止するには、射精以外にないんじゃないかと真面目に思った。

「蓮、したい」

「ダメだよ! 外だしここ!」

「そんなの気にしない」

「俺が気にすんの!」

 なぜか二人とも声をひそめていて、囁き合う小競り合いも興奮を高めてしまい、本気で譲れなくなってきた。

 蓮の前を触るとしっかり勃っていて、そのまま擦ると困ったような甘い声が暗がりで響いた。

「ね、本当にこんなところじゃできない!」

 蓮もさすがに譲る気がなさそうだった。ここはこっちが折れるしかなさそうだ。

「じゃあ口でさせて?」

「え、やだよ!」

「この状態でバスに乗んの? 痴漢で捕まるかも」

「はあっ?!」

 蓮は多分目を吊り上げていたけど、俺がしゃがんで布越しに膨らみを甘く噛んでも、少し文句めいた音を零しただけで、抵抗はしなかった。


 まだ温かい車体に隠れて、温泉で汗を流してさらさらとした皮膚を鼻先で撫でる。

「んー……」

 上から微かに声が落ちてくる。脱がせた脚が震えていて。壁に預けた身体が今にも落ちてきそうだ。

 きっと唇も八重歯に噛まれてしまっているんだろうな。見上げたけど、口もとが手で隠れて確認できない。

「ね、バス来る」

「わかったよ」

 震える言葉をおねだりだと判断したけど、実際どうだったのかは分からない。ただ、これが逆の立場でも、きっと同じくらい早くいってしまったと思う。


「俺もする?」

 蓮に触れられて股間がゾクゾクしたけど、間に合いそうなバスに乗せてあげたい。それに、母さんが探しにくる可能性もなくはない。

「いい、さっきの蓮思い出して自分でするから」

 蓮のハーフパンツの紐を軽く結んで、深くうなじの匂いを吸い込んだ。

「勃起してるから見送りできないけどいい?」

 肩口で笑い声が起こった。

「ね、またあれ付けてくれる?」

「あれ?」

 覗き込むと顔が赤い。日焼けなのか照れなのかは分からない。でも、蓮が言うあれの意味はすぐに分かった。

「いいよ」

 もう一度しゃがみこんで、蓮の左脚を持ち上げてハーフパンツを捲り、白い内腿に一つ痕を付けた。ちょっと惜しくなって、もっと深い位置にもう一つ付けた。

 蓮が行ってしまうと、しょんぼりした気持ちに引っ張られて、股関も萎えてしまった。



「どこまで見送りに行ってたのよ。バス無かったの?」

 家に入ると、ダイニングテーブルでコーヒーを啜る母さんからツッコミが入った。

「ちょっと接吻を」

「あーらま」

 母さんはくくっと笑った。


 ガレージでしてたことを言ったら、それでも母さんは笑ってくれるかな。

 どかっとソファーに座り、両腕を上げて「うーん」と伸びた。

「あー明日から会えないー」

「蓮くん? お墓参りに行くって言ってたわね。どれくらいで帰ってくるの?」

「明後日」

「なんじゃそりゃ。たったの二日じゃない」

 笑う母さんに不貞腐れた鼻息を返して、ソファーの座面にずるずると倒れ込む。

 身体が心地よく疲労している。今夜はよく眠れそうだ。どうせ蓮に会えないし、明日はゆっくり昼まで寝よう。


「ねえ良一」

「んー」

「蓮くん、本当に親に言えてないんだと思うわ」

 顎を上げて、逆さまになった母さんを見た。

「ゲイってこと?」

「それもだろうけど、そうじゃなくて、うちに来てることとか、今日出かけたことも」

 俺は黙って母さんの視線を受けた。

「あんなにきちんとした子なのに、家族にお土産一つ買ってない」

 そう言われると確かにそうだ。蓮が買ったのは、お揃いにしたキーホルダーだけ。

「今朝持ってきてくれた手土産も自分で用意したんだと思うの。ご両親が学校の先生でしょう? 普通ならお世話になりますって、電話の一本するわよ」

「…………」

 夏休みに入って何度かうちに泊まっている。関田の家のように親同士が気心の通じる間柄ならまだしも、一度も親からの接触はない。言付けすら。あの律義な性格の蓮が気にしないとは思えない。


「母さんは、蓮の家庭に問題があると思う?」

「どうかしら、蓮くんはいい子だし」

「じゃあ——」

「逆なのかも」

 逆さまの母さんが言った。

「逆?」

「言ってた通りよ、心配を掛けたくない」

 心配か。そんな必要ないのに。

「母さんは、俺と蓮が付き合ってガッカリした?」

「まさか、でもうちはうち」

「よそはよそってか」

 はーっと吐いた息を追って天井を見上げた。

「お姉ちゃんのエスパーでうちは安泰からねー」

「手抜きすんなよ母親」

 母さんの笑う声と、それからコーヒーを啜る音が続いた。

「心配がないから受け入れやすかったってのはあるわよ」

「え?」

 身体を起こして、逆さまじゃない母さんを見やった。

「子どもが幸せになるって分かってたら、どんなことだって大丈夫なのよ。親は」


 姉さんは俺たちのことを何も言わない。だからきっと問題はないということだ。

 でも蓮の親はうちの姉さんの言うことなんて信じない。小さい頃に色々と手のかかった息子がゲイだと分かったら、どう感じる?


「まあとにかく、悩んでるかもしれないし、あんまり蓮くんにわがまま言わないのよ?」

 さっきわがままを言ったところだった俺は、荷物を抱えて部屋に引き揚げた。

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