第3話 友達じゃなかった
「五時か、そろそろ帰ろうかな」
「もう?」
「うん。やっぱり関田にプリン持っていってあげようと思って」
あーやっぱり写真を送り付けてやればよかった。
反射的にそう考えてしまって、これから俺は関田に対して、からかうよりももっと対応が悪くなってしまうんじゃないかと心配になった。
「じゃあ俺も半分出すわ」
悪い心を追い払って申し出ると、思わずこちらが顔を顰めてしまうほどの眩しい笑顔が返ってきて、ますます心中は複雑になった。
「あら、もう帰るの?」
階段を降りていくと、母さんがさっきと全く変わらないポジションでパソコンから顔を上げた。
「はい、お邪魔しました!」
「夕ご飯食べていけば良いのに~」
そう言って眼鏡を取り、いそいそと寄ってくる。
「また来ますね!」
「絶対よ? また来てね!」
「はい!」
ひとしきりよくあるやり取りをした後、天川がサッと頭を下げた。今思えば確かに運動部っぽいお辞儀だ。
「それでは!」
「またね~」
ところが、天川がドアを開けたら外は大荒れだった。
「え?」
唐突にフラッシュを焚いたように明るくなって、間を空けずに雷鳴が響き渡る。
「うわああっ!!」
跳んできた天川を慌てて掴まえた。
「雷、怖いの?」
ドアが閉まり、天川はこくこくと頷いた。
リビングに戻ってテレビを付けると、車がしぶきをあげて冠水した道路を走る映像と共に、各地域の警報がアナウンスされていた。
「全然気が付かなかったあ」
母さんがレースカーテンを捲って庭のバラを心配している。
「ね、なんでこの家はこんなに静かなの?」
見ると天川が不思議そうに耳を澄ませている。
「防音性が高いから」
「あーピアノ?」
「姉さんはバイオリンやってるしね」
天川がなるほどと頷いた。
とはいえ、光ればさすがに気が付いただろうから、雷は天川の帰るタイミングで始まったんだろう。
テレビ画面の中の指し棒を持った男性が、これから夜の十時まで、市のほぼ全域がショッキングピンクの雨量に見舞われると予報していた。
「桜木町が冠水しててバスも止まってるみたい。天川くん、今日は泊まっていって」
外が光るたびに首を竦めている天川は、母さんの誘いに、「でも」と呟いた。
「でもって、どうやって帰る気?」
俺の質問に天川は言葉を詰まらせた。天川の家に帰るには桜木町を越える必要がある。
「……じゃあ、お世話になります」
「よーし! お夕飯はりきっちゃおー!」
おばさんガッツポーズを繰り出した母を置いて、二人で部屋に戻った。
「とりあえず着替えっか」
クローゼットからハンガーと適当な部屋着を取り出す。
「急にごめんね」
「ぜーんぜん」
吊るした制服のズボンにブラシをかけていると、珍しいものを見るように天川が隣に並んだ。
「俺ブラシなんてかけたことない」
「俺も今年初めてかけてる」
天川はなんだと笑った。
「上岡君、身長なんぼ?」
「八十二」
「えーいいなあ!」
羨む声にちょっといい気になる。
「天川は、七十……二?」
「三。まあほぼ同じだけど」
シャツを脱いだ天川は、俺と同じ薄っぺらい身体をしていた。
確か関田はいい身体をしていた。サッカー部のディフェンダー。身長は俺の方がぎりぎり高いとは思うけど、筋肉量は雲泥の差だ。
なぜだろう。少しむっとするのは。
いつの間にか腕まで組んでいた。腕を組むのは不安や警戒心の現れだと読んだことがある。
恐らく俺は、自分の身体がぺらぺらだと天川に知られることを警戒している。元カノに「鍛えろ」と言われた時は鼻で笑ったのに、一体どんな矜持を刺激されているんだろう。
出所の分からない感情を首を振って捨て、「身長を活かせる職業はありますか」とどうでもいい雑談をかます。
「モデルとか?」
「俺が?」
鼻で笑うと、「問題ある?」と首を傾げる天川に、もう一度笑った。
夕食を母さんと天川と三人で食べた。父さんと姉さんはいつも遅い。
天川は出されたラザニアを「初めて食べる!」と喜んでたくさん食べた。サラダもデザートもぺろりと食べて、食いっぷりのいい天川に、俺も母さんも心からいい気持ちになった。
課題を終わらせて風呂に入り、適当なバラエティを見た後、早めに電気を消した。
「まだ鳴ってるな」
ベッドサイドのカーテンを開くと、短い間隔でフラッシュ光が外を照らす。時刻は十時を回ったところだ。
「なんか言った?」
「え?」
見ると、床に敷いた寝具の中で天川が両手で耳を塞いでいた。
「そんなにかよ」
「静かだとさすがにちょっと聞こえる!」
「自宅ではどうしてるわけ?」
「耳栓してる!」
「声でか。本当に嫌なんだな」
「……入院した日にさ、雷のすごい夜があったんだ」
「え?」
寝具の中、天川の目がちろっと俺を見上げて、また伏せられた。
「手術した日の夜。一人部屋だったし、親も帰ってた。雷の音を聞くとさ、あの時の不安な気持ちを思い出すんだ」
「……」
俺はあまり共感性の高い人間じゃない。泣いてる人を慰めはしても、自分まで悲しく感じることはない。でも、今視線の先にいる怯えた子どものような天川に、俺の胸はきゅっと締まった。
「こっち」
「え?」
「一緒に寝よ」
「えっ?」
「大丈夫だよ、ダブルだから元々二人用」
天川は押しに弱い。俺がもう一度「来なよ」と言うと、結局ベッドに乗り上がった。
「マットレス……ふかふかだね」
コメントに困ったのか、もぞもぞと横になる天川がマットレスを褒めた。
「元カノは腰が痛くなるって文句言ってた」
今思うと文句の多い子だった。気が強くてそこが好きだったけど。
「このベッドでしたってことか」
天川の何とも言えない表情で、伏せられた言葉を理解する。
「まあそうだな、二人ほど」
「二人もかよ!」
「ハハハ」
スマホでアプリを立ち上げて、『雨の夜』と打って出てきたBGMを再生した。
エルガーの『愛の挨拶』が鳴り始めて驚いたが、「ありがとう」と天川にお礼を言われて、そのままスマホを枕元に置いた。
布団を分け合い、並んで天井を見上げている昨日友達になったばかりの二人。結構笑える。
窓を流れる水滴の影、穏やかで、どこか晴れ晴れとした音色に雨音は紛れ、弱い雷光が効果照明のように不思議と拍に合う。
「セックスって気持ちいい?」
「え?」
天川の口からそんな言葉が出たことに驚いた。
「天川って彼女いなかったっけ」
確か一年の頃に女子と一緒にいるのを見掛けたことがある。そのとき関田があまぴに話しかけなかったのを見て、関田にも気を遣うという感覚があるのかと驚いた記憶がある。
「今までに二人付き合った子がいるんだけど、俺、できなかったんだよね」
「できなかったって?」
俺の視線を受けて、天川は目の下まで布団に隠れた。
「キスはしても、その先にいきたいって思わなかった。向こうはその気があったっぽいんだけど」
「へえ」
「好きだったとは思うんだけど、そのうちキスもしたいと思わなくなった。それで、これはただの友達だと思うってフラれた」
「はー」
俺も割と欲が浅い自覚はあるけど、その状況でいかない選択肢はない。
「二人とも?」
「一人目の時は……襲われて俺が悲鳴を上げた」
「ぶはっ!」
尻すぼみの告白に笑いを堪えられなかった。
「初めての彼女だったんだよ! 中学生だったし! 大人しい子だったのにびっくりしたんだよ!」
正直しばらく笑っていたかったが、天川が必死に弁明するからなんとか収めた。
「初めて人に話した……」
天川はすっかり布団に隠れてしまった。
「そーなんだ」
「ちょっと情けない感じがしてさ」
布団越しに細い声が言って、内容よりも初めて話す相手に俺を選んでくれたことを嬉しく思った。
「情けなくなんてない。きっともっと性欲が爆発するような相手が現れるんだろ」
「性欲が爆発」
天川が笑ってマットレスが揺れる。
「俺なんてちょー軽く、好きな人が出来ちゃったーって振られたけどな」
「お店で会った子?」
「いや、あの子は俺がピアノを辞めたから」
「え?」
もこっと布団から顔を出した天川を笑いながら、気の強い元カノの由利奈を思い出した。
「付き合ったのはピアノを辞めた後だったけど、前からコンクールとかで面識はあってさ。付き合ったものの、ふらふら暇そうにしてるのが見てらんなかったみたい」
「……そうなんだ」
いつの間にか身体をこっちへ向けていた天川の目が少しとろっとしている。俺も倣って天川に身体を向けた。
ほんのり笑窪を浮かべる天川を眠らせてあげるべきだと思ったけど、俺はもう少しこのまま話していたくて、少し迷って、自分の話をすることにした。
「さっきは燃え尽きたって言ったけど、どっちかっていうと途中で燃料が切れたって感じなんだよ」
「燃料?」
「俺、こう見えて全国で賞とか取ってたんだ。でも学年が上がるにつれ、だんだん少数精鋭って感じになってって、やってもやっても自信はつかないし、弾くことも楽しくなくなってった。でも、立ち止まったら二度とそこへは戻れないんだろうなってのも分かって」
「厳しい世界なんだ」
「そしたらさ、本番で手が止まった」
天川の目が悲しそうに翳った。俺はそのまなざしを頷いて受け取った。
「曲を忘れたとかそういうんじゃなくて、ぱって火が消えて真っ暗になった。胸の真ん中にあった、まだ楽しく弾いてた頃の情熱? みたいなものが全部無くなった。少し前から競うことにうんざりしてたんだ。それでも残ってた情熱を消費してなんとか続けてたけど、それがあそこで全部尽きた。それから一度も弾いてない」
「一度も?」
「そ、蓋も開けてない。これっぽっちも意欲がなくなった。親は無理しなくていいって、ピアノがなくても俺は俺だからって言ってくれて」
「そうなんだ」
「それまで結構お金も掛かったと思うけど、本当なにも言ってこなくて、感謝してる反面、俺も時々情けない感じがしてるよ」
天川の手が伸びてきて、俺の目にかかる髪をかき上げた。
「情けなくなんかない」
「そうかな」
「うん」
天川の笑窪のない微笑みは、ずっと大人っぽい。
「もし、いつかまた弾きたくなったら、俺にも聴かせてくれる?」
もし、いつかまた?
天川の言葉には少しも期待がなかった。なのに嬉しい。
来るかどうかもわからないいつか。それが来ても来なくても、天川はそこにいる。
「もちろん」
簡単にそう言った自分に驚いている間に、天川の頬に笑窪が浮かぶ。つられて自分の頬も上がった。
あれから一度だって弾きたいと思ったことはなかったくせに、叶わない約束をするときに感じるはずの罪悪感が湧いてこない。ピアノ曲だってしばらく聞いていなかったのに、エルガーも、ショパンですら心を穏やかにするBGMになっている。
不思議だな。なんでだろ。
――と、唐突な強い稲光が部屋を明るくして、声を上げた天川が布団に隠れた。
子どものような反応に笑って、スマホを取って雨雲レーダーを開く。
「また雷雲が来てるな」
「ええっ?」
耳を塞いでいるのか声がでかい。
「一時間くらいだよ」
「やだなあ!」
「寝ちゃうしかないね」
「頑張る!」
布団を捲って両耳を塞ぐ天川の姿を見ると、自然と手が髪を撫でていた。さっき眠そうだった天川を引き止めたことを少し後悔した。
「何?」
「寄り添ってる。一人で病室にいたから怖かったんだろ?」
顔を上げた天川の眉が寄った。
「今夜は怖くないよ」
子どもをあやすように、「よしよし」と言いながら柔らかい髪を撫でて、細かく揺れる目に笑顔を向ける。
「……どきどきする」
「ええ?」
まあトラウマはこんな簡単には癒されないか。
俺は、「よいしょ」と間を詰めて、天川を軽く抱きしめた。
「なっ……なにしてんの?」
「ハグ」
「どきどきするって言ってるよね!?」
胸に天川の声が響く。
「俺がいるから落ち着いて?」
なだめるように天川の背中をゆっくり摩る。
「いやそうじゃなくて!!」
「は?」
腕を解いて見た天川の顔は、暗がりでも真っ赤だった。
「どういうこと?」
「どきどきする! 触られると!」
「あ、逆に?」
うんうんと頷いた天川を俺はまじまじと見た。赤い顔で困ったように眉を寄せ、身を縮めている。
「そんな見るなよ……」
「確かに、そう言われるとドキドキするかも」
「は?」
俺は試しに天川の手を取って、その指先に唇を押し付けてみた。
「えっ、ねえ何してんの?!」
オクターブ上ずった天川の声にとぼけた顔を見せて、「どきどきするかと思って」と返す。
「さっきからするって言ってんじゃん! もうしてるの! アホかよ!!」
俺を責める天川の身体がみるみる熱くなって、このベッドでやることをやった二人の女の子よりもずっと動揺している姿がいじらしく思えた。
「キスしてみる?」
天川は変な声を漏らして脚をばたつかせてマットレスを揺らした。
「なんでだよ!!」
「面白いから」
「上岡くんさあ!!」
完全に余裕を失った天川は、耳から手を放して、稲光にも反応しなくなっていた。
「良一って呼んでよ」
「は?」
「いいから呼んで、ほら早く!」
無意味に急かすと天川は困った顔で、「りょういち」と俺を呼んだ。
うーん、やっぱり押しに弱い。
きちんと自分の価値観を持っていて曲げない所もあるのに、手を引けばどこへでも連れて行けそうでもある。
隙間の無いこの距離を天川は不快に感じていないんだろうか。正直俺は全然感じていない。それどころか真っ赤な顔の天川に、にんまりしてしまった。
「なんか怖いんだけど。なんで笑ってるの?」
不安な眼差しが直ぐそこで潤んで光っている。
「蓮はさ、女の子が違うなら男が良いんじゃない?」
「は?」
「だってドキドキするんだろ?」
「するだろこの距離じゃ!!」
初めて見るキレた天川に笑ってしまう。
「俺もする」
「へ?」
「わくわくもしてる。でも、普通はまず拒否感が出ると思うよ」
「…………」
黙ってしまった天川を至近距離で観察した。
抱きしめてみても違和感はなかった。女の子みたいにきめの細かくない肌も、薄っすら見える髭の気配も大した問題には感じなかった。八重歯と笑窪のダブル乗せの笑顔の可愛さに比べたら些末なことだ。
「俺と付き合ってみる?」
「え、あのねえ」
天川は俺をどうしようもないような目で見て、それから突然くくっと笑いだした。
驚きが臨界点に達したのかな。
俺は提案を続けた。
「良一、良でもいいよ? まだ誰にも呼ばれたことない」
「なにこれ、本気で言ってる?」
笑い交じりの頬に、笑窪が出たり消えたりして俺をじれったくさせる。
「本気本気! 俺も天川とは気が合うって思ってたし、違ったら友達でいいじゃん」
「簡単に言うね」
「まあー……あ、それとも男なら関田の方がいい?」
ハッとしてさっきまでよく分からない苛立ちを感じていた関田の名前を出した。
「いやいやいや!! 関田はそういうのじゃないよ!!」
「そう?」
全力で否定されてまんざらでもない。
自分でも突拍子もないことを言っている自覚はある。けど、この流れを間違いには感じない。さっき天川に言った通り、どきどきして、わくわくしている。
「ね、俺はマジで言ってるよ? 考えてみて? 俺と付き合ってみたいかどうか」
言うと、天川はハッキリと沈黙してしまった。
「シンキングタイム?」
両手で天川のほっぺをチクタク言いながらつつくと、天川はやっぱり直ぐに笑いだした。
「どうしよう。分かんないって、いいって思ってるみたいなもんかな」
驚いている天川に、「そう思うなあ」と同意して、引き続きチクタク言いながら浮き出た笑窪に指先を埋めた。結構しっかりとへこんでいる。
「……分かった」
「おっけ! じゃあキスね」
「んー展開はやいって!」
「ベッドの中で付き合うことになってるんだから、そもそも色々ショートカットしてるんだよ」
天川の――……いや、蓮の顔を両手で逃がさないように包んで、自分の顔を寄せていく。蓮の目がまんまるになっていくのを笑わないように堪えつつ、頬を包んだ俺の手に蓮の手が重なって、その狭い隙間に顔を押し込んで唇を合わせた。
すぐに蓮がくすくすと笑いだす。
「笑うなよ、初めてのキスだよ?」
文句を言うと、「だって」と言いながらやっぱり蓮は笑い続ける。
「口開けて」
「ええ?」
ホラと顎でしゃくると、小さく開いた唇が直ぐに笑ってしまう。八重歯が覗いて焦れた俺は口を寄せ、白い歯の尖がりを舌をちょいっと舐めた。
「んん」
身を縮めた蓮の声に、思わず眉が寄った。
「彼女とのキスで舌入れた?」
「え、入れてない」
俺は頷いて、唐突な質問に戸惑っている蓮をそのままにしてまた顔を寄せた。
唇を何度か重ねて吸って、ちょっとだけ舌に触れ、また唇を吸う。初めてのキスに暑苦しくないキスを選ぶ。
「いやじゃない?」
「うん」
舌先で歯列をなぞり、まごつく舌を何度か誘って、ようやく絡むようになった。
中々いい滑り出しだと思う。中学の時の彼女とは最後までキスの息が合わなかった。
だんだん深く、引き込むように頭を抱き寄せて唇を濡らす。唾液を鬱陶しくないように飲み込んで、また深く舌を合わせる。
「なんかすごくいやらしい感じがする」
「いやらしくしてるからね」
蓮の両手の指が、俺の鎖骨に引っかかっていてくすぐったい。
目を合わせて舌先を合わせていると、稲光が光った。
ギュッと蓮の目が閉じて、俺はその隙に蓮に乗りあがって首に吸い付いた。
「あっちょっと!」
「そのまま目瞑ってて」
窓の向こうで唸るような雷鳴が微かに響いて、また強く稲光が光った。窓にかかる雨の影がせわしい。
手の平を貸したTシャツの裾に滑り込ませる。
「ねえ待って!」
「優しくする」
「進み過ぎだってば!」
慌てて身を捩る蓮を無視して、親指で平らな胸の突起を擦ると、蓮の手が服の上から俺の手を抑えつけた。
「展開早いよ!!」
蓮の困った顔を覗き込む。手のひらの向こうで心臓がドクドクと速い。
「だって今したくない?」
耳に鼻を寄せて髪の匂いを嗅いだ。自分と同じシャンプーの香りがして、俺はそこで初めてムラっとした。
さっきまでは別の香りがしていた。思い出したのは関田だ。同じ香りだった。まあ男がよく使うメーカーの整髪料だ。俺だって持ってた。でもむっとした。それが今は俺と同じ匂いがしてる。そこに堪らなさを感じた。
嫌ならしないよと言うと、また雷鳴が光って、蓮はびくっとしてから黙って自分で上を脱いだ。
自分から仕掛けておいてちょっと驚いたけど、自分も上を脱ぎ捨てた。
見下ろした先で、蓮がどうしたらいいのか分からないというように俺を見上げていた。
俺も一体これからどこまでいくのかは分かっていない。ただ、エルガーの『白鳥』のいる湖面はキラキラと輝いて聞こえる。
「蓮、腋毛に愛着ある?」
「はあ?」
質問に困惑したのか、右手が胸を隠すように置かれた。まずい、警戒のサインだ。
何度か慎重にキスを重ねてから、「腋を舐める性癖がある」ときっぱり告白すると、蓮は声を上げて大声で笑った。
蓮の笑い声がなかなか止まなくて困ったけど、目に涙をにじませ、両腕が俺の首にかかって、「愛着はないから、綺麗にしておく」と言われて、またムラッとしてしまった。
緊張気味の蓮の身体を撫でながら濡れたキスの音に耳を澄ませていると、ちゃんとその気になってきた。
「んー」
鼻から抜ける蓮の声も間違いなく興奮を誘う。
「俺、ゲイってことなのかな」
吐息混じりに言った蓮に曖昧に首を振った。
「どうかな、俺はバイかも」
弾力のない硬いばかりの身体を撫でまわすことに直接的な興奮はなかったけど、蓮の反応を見るのは間違いなく楽しい。
「男が初めてにも見えないんだけど」
「初めてだよ。このベッドでする三人目が男とはね」
「そういうこと言うのなし」
「嫉妬する?」
「分かんない。これ嫉妬?」
蓮は首を傾げて視線を彷徨わせている。
「知らないよ。嫉妬なら嬉しいけど」
蓮の手が躊躇いながら俺の身体に触れた。自分の心を確かめるように、胸や肩や腕に両手を滑らせていく。
何言ってんだよ勃起してるくせにと思ったけど、俺は黙って蓮の気が済むのを待った。
視線が俺の目に戻って来るのを待って、「どう? 俺が欲しい?」と訊ねると、「欲しい……かも」と、前向きな答えが返ってきて俺は盛り上がった。
「いいね、あげるよ」
思い出したように稲光が光って、腕の中の身体が跳ねる。
右手を蓮の下着に差し込むと、蓮は俺の目を見たまま抵抗はしなかった。
脱がせた蓮の膝に、手術痕を見つけた。
暗闇でもハッキリと分かった。その傷を目にした瞬間、雷に怯えた姿を見た時よりも強く心が締め付けられた。
生まれつき痛めやすい形状をしていた蓮の半月板。サッカーをしていなければ膝が痛むこともなく、手術をすることもなくて、雷を怖がる人間にもならなかった。
まるで運命を仕込まれていたみたいだ。
俺も、姉さんに言われたからピアノを始めた。つまりそれは俺の運命みたいなものだ。でも今は……。
蓮の右膝を立てて、一生消えることがないだろう縦に伸びた傷痕に舌を這わせた。
「ちょっと!」
驚いた蓮が起き上がって俺の肩を叩いた。俺は無視して抱えた右脚の傷痕を何度も舌先でなぞった。
「上岡やめて、くすぐったい!」
「名前で呼んでよ蓮」
「ねえそれ止めてよ!」
「良って呼んで」
「良、待って、ねえ……」
名残惜しさを感じつつ、傷口から離れて蓮の内ももにキスマークを付けた。
「ちょっと……」
文句から覇気が消えた。
「怒った?」
「怒ってないけど、こんな……」
蓮は文句の代わりのように俺の髪をまさぐった。
「確かに、俺ら話すようになってまだ二日目だよな」
くしゃくしゃにされた頭から蓮と同じ香りがしている。
「そうだよ」
「俺さあ、気になってたんだ」
「なにが?」
「蓮のこと紹介する時に、関田の友達って言うの」
蓮の顔が半分光に晒される。そしてまた薄闇になって、乾いた唇がすぼまった。
「それは俺も、ちょっと気になった」
「俺の友達って言っていいのか、分からなかった」
「友達じゃないよもう……」
「うん、これはもう友達じゃないな」
口でするのは全然嫌でもなくて、むしろ早く蓮がいくところが見たかった。
初めての感触、体温、味。
自分を外側から理解するような可笑しな体験だと言えた。
ついさっき一緒に夕食を食べて、それぞれの過去の繊細な部分を告白し合った相手と、今はオーラルセックスをしている。こういう展開は大好きだ。まるで全てが必然みたいに感じる。関田がインフルエンザにかかったことも、プリンも、雷雨も。
まあ大好きと言ってもこんな展開は初めてで、俺にしては過去一強引な成り行きだ。
「気持ちいい?」
落ち着いた声で聞かれながら、見下ろした先の蓮の頭を撫でた。
気持ちよくしてくれる感謝をどう伝えていいか分からずに、しきりに蓮の髪を撫で続けた。
洗面所で濡らしたタオルを絞っていると、姉さんが階段を上がってきた。
「おかえり」
「ただいま」
「よく帰ってこれたな」
姉さんはどこも濡れている様子はない。
「父さんに迎えに来てもらったからよ」
いつも通り微かにしか動かない姉さんの表情をよくよく眺めながら、「友達来てる」と部屋を指した。
「靴を見たわ。なんでタオル濡らしてるの?」
言われてギクっとしながら、「ちょっとジュース溢して」と粗相の言い訳をした。
姉さんは、ふうんと言って自室のドアを開けながら、「ちゃんと拭いてあげなさいよ」と、きちんと意味を理解して言った。姉さんには昔から隠し事はできない。
タオルで丁寧に蓮の顔を拭いた。
自分で拭くと言った蓮を説き伏せて、身体も拭く。
「誰と喋ってたの?」
「姉さんだよ」
「遅いね、社会人?」
「うん。でも仕事じゃなくてバイオリン弾いてたんじゃないかな」
姉さんは去年音大に入ったが、合わなくて冬には辞めた。今は父さんの会社で働きつつバイオリンを続けている。
姉さんは俺がピアノを弾かなくなってから家で練習をしなくなった。気を遣わないでいいと言おうとしたけど、きっと聞かないだろうからやめた。
散らかったティッシュを捨てて二人でベッドに入った。今度は初めからくっ付いて脚を絡ませ合う。
「本当に付き合うの?」
すぐそこにある蓮の瞳が、また眠たそうにとろついている。
「一夜限りがいいってこと?」
「本当なのか、確認」
頬に浮かぶ笑窪に舌先で触れると、連はくすぐったいと枕に顔を埋めて逃げた。
「俺のこと好きになれそう?」
聞くと、埋まった顔が半分こっちに向いて、「……もう好きだよ」と言ってまた枕に隠れた。
言われたこっちがくすぐったくなるほどに可愛い。
「じゃあ付き合って、蓮」
顔を起こした蓮は、何度か唇をむにむにと動かした後。
「いいよ」とキスをくれた。
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