第9話・メインシステム、戦闘モード起動

 累卵楼の外壁である特殊樹脂は、電子制御によってその透明度を自在に変更可能だ。加えて、制御機器類もまた、ローカル回線に常時接続されている。


 つまり、累卵楼内部の明暗は、外界の状況と独立して、それを意のままに操る事ができる。数秒前まで外壁を通り抜ける西日に照らされていた闘技場とその周囲は、今では完全な暗黒に包まれている。その変化に合わせて、観衆たちが静まりかえった。


 闘技場における演出装置の一つとして、第一層と第二層の境である開放された円形シャッター周辺には、いくつかの長距離指向性集中照明スポットライトが取り付けられている。闇と静寂に包まれた累卵楼の中で、それらがゴールデンサウンドとジェイドを照らした。巨鳥とその弟子の顔を彩る化粧が、強い光を浴びて煌びやかに輝く。観客から大きな歓声が上がるのと、ジェイドが深々と一礼したのは同時であった。巨鳥が民衆や一門弟子に頭を下げるのは、頭領であるダイヤモンドクレールによって禁止されている。


 大ハチドリであるゴールデンサウンドは、巨鳥としては最も小柄であり、体高約1.8メートルほどと、人間と同程度である。しかし、翼以外の体は金色に、翼を青緑の毛並みに覆われた彼女は、礼儀正しくも勝気が強い事で知れ渡っている。おそらくは、サウンド自身がプレアデスの腕試し相手として名乗り出たのだろう。加えて、詳細は定かではないが、累卵楼を追い出される前のアディクトテーラーは彼女にとって良きライバルであり、「俊敏さのサウンド」や「最高速のテーラー」と呼ばれていたらしい。


 その話には続きがある。テーラーがなんらかの理由で累卵楼から放逐されると、サウンドは意気消沈した日々を過ごしたらしい。だが、意地を張り合える相手を失った彼女が生き甲斐として見出したのが、歌劇の世界だった。サウンドはそこでも才能を開花させ、一流の音楽集団として名高い司法教会聖歌隊と比較される事が多い歌姫へと成長したという。


 サウンドの直弟子選びは、他の巨鳥と異なり、オーディションの形式で行なわれた。歌姫の直弟子には、高い魔力を有する事を前提として、必然的に「歌姫の弟子にして歌い手」となるがゆえに歌唱力や演技力も求められたからだ。


『あなたの歌声、私はもっと聞きたいわ』


 フェリーチェはあの時を鮮明に覚えている。千を超える少年少女から最終的に残った候補者数人の中でサウンドが選んだのは、仲間から冗談半分で勝手にオーディション参加を申し込まれた、路上で歌を披露して小銭を稼いでいた孤児だった。


 それがジェイドだ。彼女は騎士団の一派が運営する強制収容養成施設を脱走した孤児集団の一員であり、騎士団の勢力圏で生活していた頃は、持ち前の魔力の高さを用いて路上取り締まりの目を欺いていた。彼女自身、オーディションへの参加は仲間が勝手に申し込んだだけであり、サウンドに選ばれるとひどく困惑した。しかし、その孤児集団を累卵楼城下町の職人や商人の真っ当な下働きとして招く事をクレールが約束すると、彼女はサウンドの嘴に誓いの口づけをした。一門の頭目から見ても、少女の年齢でありながら騎士団の一般的な騎士を上回る魔力を持つジェイドを惜しいと考えたのだろう。


 その経歴と前世界から親しまれている童話にちなんで、彼女には「シンデレラ・ジェイド」という二つ名がある。サウンドの直弟子になった彼女は自身の名である翡翠ジェイドにちなんで、長い直毛の髪を鮮やかな緑に染めた。そして、歌姫師弟と呼ばれるまでに成長した事を経て今に至る。


 フェリーチェはミチビキに視線を移した。先ほど自分に向けた微笑みから一転して、暗がりの中の彼の表情には険しさが戻っていた。ミチビキが見つめるプレアデスは、自分たちに背を向け、鋼鉄に覆われた両手でジェイドに拍手を送っている。ジェイドが顔を上げると、眉の高さで切り揃えられた前髪の下には朗らかな笑みがあった。


「皆さま! 本日は我が師と、五賢師第五翼であるフリッシュの直弟子の手合わせに足を運んでくださり、まことにありがとうございます! 私、ゴールデンサウンドの直弟子であるジェイドから、一門を代表して皆さまに厚くお礼申し上げます!」


 歌劇団に所属しているジェイドの声量は、当然ながら直弟子の中で最も高い。加えて、彼女は自身の声に倍増魔法をかけている。それによって、ジェイドが口にする発音一つ一つが、小さな衝撃波と言っても過言ではないものになっている。人間よりも小さく軽いカナリアの姿のフェリーチェは、体の芯まで震わせる彼女の声を受けても冷静を保ったままだ。直弟子のひとりとして、ダイヤモンドクレールの直弟子として、それを欠く事はできない。フェリーチェを己の指に彼を止まらせたミチビキや、他の巨鳥や直弟子もまた同様であった。しかし、彼女の名乗りを耳にした観衆たちが再度沸いた。


「これから、フリッシュの直弟子であるプレアデスは、我が師であるゴールデンサウンドと手合わせを行ないます! 彼が我が師に一度でも攻撃を当てる事ができたなら、合格という取り決めです! そのあかつきには、プレアデスには直弟子の中で特別な地位が与えられます! 同じく一門の直弟子であるアンドロイドのミチビキや元MRCの一員であるハジュンと同様に、師のめいに異を唱える事が許されるというものです!」


 フェリーチェは横目でミチビキをかすかに窺った。人間とは明らかに異質であるミチビキや、実質的に五賢師と同等に扱われているアイゼンフォーゲルの直弟子であるハジュンは、一門に加わった時点でクレールからその地位を与えられた。


 おそらく、あの大ミサゴが弟子を連れて累卵楼に戻った理由は、クレールにそれを認めさせる為だろう。フリッシュがクレールをおそれるとは思えないが、プレアデスがミチビキやハジュンと同様の扱いを得るならば、彼らにとって余計な口出しを回避できる。特に、キャリバーがその正当性を高らかに説くはずだ。あるいは、プレアデスにそれを与えるところも含めて、クレールの策の一環なのかもしれない。


「しかし、彼にそれを成し遂げる事ができるでしょうか!」


 まさに芝居ががった横柄な仕草で、ジェイドが右腕でプレアデスを指す。その瞬間、フリッシュとプレアデスも照明で照らされた。沸き立つ観衆に対して、大ミサゴは微動だにせず、プレアデスは鋼鉄の胸の高さで鋼鉄の両手を振った。


「ボクがプレアデスだよお。みんなよろしくねえ」

「プレアデス、野次馬に構うな」


 フェリーチェには、ジェイドが高らかに述べる口上が、彼女の即興だとは思えない。本来のジェイドは、内気で口下手な少女だ。おそらく、劇団の脚本家か、あるいは城下町の作家にクレールが急遽用意させたものだろう。己の胸中で生成した文章を接続したターミナルの画面にすぐさま表示できるサタンズクローの可能性もある。


「我が師、ゴールデンサウンドは巨鳥の中で最も小柄な体格ながらも、翼正会の勇猛かつ聡明な一羽です! その身に鋼の機械鎧であるハルクエンジンを纏っていても、師を捉えるのは容易ではないでしょう!」


 フェリーチェは天井を見上げながら、己に特殊視覚増加魔法を用いた。第一層の天井であり第二層の床、闘技場を照らす複数の照明によって隠された円形シャッターの淵に、四羽の巨鳥が並んでいる。左から順に、自身の師であり五賢師第一翼のダイヤモンドクレール、第二翼のエターナルキャリバー、第三翼のグアンダオストーム、ミチビキの師であり第四翼のサタンズクローだ。フェリーチェはすぐさま、翼を広げ、瞳を閉じた頭とともに下げた。


 五賢師が集う理由は、フリッシュとその弟子に対する高みの見物と、万が一に備えてだろう。自分の師であるクレールの横には、ファントムシグナルズとレインメイカーが待機していた。一方、サタンズクローは、その鋼の大顎に見慣れない機械を咥えていた。彼の体格と比較するに、長さは約3メートルほどで、外見から用途を察する事まではできない。あれもマルチバトルオペレーティングシステムファントムシグナルズとレインメイカーと同様に、フリッシュとプレアデス師弟への保険の一つだろうか。しかし、艶やかな光沢を放つクローの顔とは対照的に、その機械の表面には小さな歪みや剥がれが見て取れた。相応の年代物だろう。


『ロックに話がある。サウンド、ジェイド、それまで間をもたせろ。即興だろうが許す』


 フェリーチェの意識にクレールの声が響いた。魔法を用いたテレパシー念話だ。


『あっ……はいっ……クレールお師匠様……どうしましょう……お師匠姉様……』

『問題ないわ。クレール様、こちらは心配無用です。ジェイド、あの曲でいくわよ』

『はっ……はいっ……! お師匠姉様……!』


 同じく念話として繰り広げられたジェイドの戸惑いに、サウンドはすぐさま助けを入れた。自分の意思で瞼を閉じ、視界を遮ったフェリーチェには、その視覚的な様子は分からない。


「ここで皆さまへ驚きのひと時をお届けします! 常春劇団の公演予定完全新作、『狡猾な狐の生きざま』の中の一曲、『たとえ前足の一つくらい』を披露致します!」


 ジェイドの肉声がフェリーチェの耳に届いた。サウンドが言った「あの曲」とは、ジェイドが先日、直弟子たちの昼食時にアカペラ無伴奏で披露したものだった。ジェイドからのサプライズ予想外を受けて、何も知らない周囲の観客がひときわ大きな歓声を上げた。それがすぐさま収まる。おそらく、サウンドかジェイドが彼ら彼女らにそれを指示する合図を出したのだろう。


 今日一日、それで全ての運命が決まるだろう。憎まれ者と呼びたければ、好きにすればいい。私には立ち止まる暇はない。


 一羽の巨鳥とひとりの弟子が澄んだ声で、一つの歌を紡ぎ始めた。前世界崩壊により娯楽の多様性が失われた現世界では、歌姫師弟の歌は身銭を切ってでも鑑賞する価値があるのだろう。観衆は完全にサウンドとジェイドへ酔いしれているようだ。


『プリズンロック、俺のフェリーチェを甘やかしていないよな?』


 クレールの念話が再び届いた。間違いなく、先ほどまでの大ツルの振る舞いは、翼正会頭目にとってはそれに当たるだろう。しかし、フェリーチェは弁解の言葉を飲み込んだ。師の眼前における自分は、許されるまでいかなる発言の権利がない。


『クレール。私には私のやり方がある。そして、あなた自身の直弟子にそのような態度を取り続けるなら、他の巨鳥も黙っていない』


 サウンドなどと異なり、四賢師時代からの古参であるというプリズンロックは、たとえクレールが相手でも完全な敬語を用いる事はない。ミチビキやハジュンがそうであるように、プリズンロックもまた、一門の中で特別の権利を与えられている。彼からの反論を受けて、クレールが念話に笑い声を乗せた。


『それは腰抜けのアイゼンフォーゲルの事か? お前はまだあいつに期待してるのか?』

『クレール! 貴様ごときがフォーゲルを腰抜け呼ばわりするなら、一騎打ちを挑んで勝ってからにするのが「スジ」じゃねえか?』

『アハッ! たしかにそれが正論です!』


 プリズンロックを挑発するクレールに対して、エターナルキャリバーとグアンダオストームが口を挟んだ。翼正会首領への物怖じを一切見せない言葉と口調だが、基本的に彼らがクレールの意向へ反論する事は稀だ。詳しい経緯は伏せられているが、四賢師時代にクレールを一門の頭目に推したのは、他でもないキャリバーとストームらしい。そして、特にストームは。


『皆サン。今ハ口論ヲ控エマショウ。面白イモノガ見レソウナンデスカラ』


 サタンズクローが他の五賢師を穏やかに窘めた。今の彼は何かの機械を大顎に咥えていたが、念話において物理的な口の動きは不要だ。そもそも、クローの肉声はミチビキと同じく、喉の奥のスピーカーだ。流暢なミチビキのそれと異なり、彼の声色は電子音のような雰囲気を纏っている。前世界の修繕品の中でも、特に古い代物のような声だ。


『……それもそうだな。ロック、今は不問にするが、恥知らずを続けるなら俺にも考えがある。サウンド、ジェイド、適当なところで切り上げろ。最後まで歌う必要はない』

『承知しました、クレール様。ジェイド、私に合わせて』

『はっ……はいっ……!』


 クレールからの指示を受けて、師弟は歌唱を中断した。民衆から、名残惜しさを含んだ不満が少なからず上がる。彼ら彼女らは知るよしもないが、これは五賢師第一翼の命だ。


 その間、プリズンロックは無言を貫いた。もしかすると、クレールを睨み続けているのかもしれない。その真相もまた、瞳を閉じたフェリーチェには分からない。


「お聞きくださりありがとうございました! そして、今この瞬間から、皆さまはこの手合わせの証人となります! ゴールデンサウンドに敗北したプレアデスが五賢師第一翼であるダイヤモンドクレールの前でカナリアに変身しその嘴に忠誠の口づけをするのか、あるいはフリッシュの弟子として鋼のハルクエンジンを纏い続けるのか。そのどちらかを、皆さまはこれから目の当たりにする事になります! それでは、運命のカウントダウンのスタートです!」

『100秒前。99、98、97』


 ジェイドの口上に合わせて、館内アナウンスによる秒読みが始まった。再び歓声が上がる。これで、ここに集まる全ての者の退路が絶たれた。この先は、ひとりの直弟子の腕試しと、その結果しか残されていない。


「お師様あ。ボクがカナリアになるとしたら、何色の羽根になると思う? やっぱり黒かなあ? もしもボクがカナリアになったら、クレールお師様はボクも可愛がってくれるかなあ?」

「…………」

「無視はちょっと卑怯だよお?」


 「死を招く黒い鳥」の顔色を窺う事はできないが、弟子の口振りから察するに、プレアデスのマイペース奔放さは大ミサゴの鳳凰種でも手を焼くほどなのだろう。それでも直弟子として迎え入れたという事は、プレアデスの実力が察せられる。そうでなければ、フリッシュが口にする「仕事」を回さないはずだ。


 自分たちの周囲から、観衆たちの雑談が聞こえ始める。翼正会の者たちの怒りを買う事をおそれて直接的な明言は避けているが、それらのほぼ全員は「プレアデスの勝利」を期待している。


 おそらく市民だけではない。巨鳥と直弟子も含めて、ここに集うほぼ全員が、それを見たがっているだろう。フリッシュが恥をかく事を真に望んでいるのは、サウンドとジェイド師弟、そしてミチビキくらいのはずだ。


 仮にプレアデスが勝利し、師の命に反論できる権利を得るならば。その時は、「フリッシュが彼に行なわせる『仕事』を口だけで止めるすべを失うという事」を意味している。つまり、フリッシュが「その気」になった場合、直接的な翼正会内部の武力衝突となる。ゆえに、闘技場の観客たちは無責任な発言にならないように言葉を選んでいる。


 巨鳥と巨鳥の戦いとなるならば、多大な犠牲を払う事になるだろう。あの「死を招く黒い鳥」と、サウンドに勝利した弟子が相手となるのだから。加えて、その代償は翼正会が全て負う羽目になる。何羽かの巨鳥が命を落とす事態に陥ったら、翼正会の勢力圏が縮小する可能性すらあるはずだ。


 しかし、多くの者はフリッシュの弟子の勝利に期待している。それは自身の師である、クレールさえ同様かもしれない。フリッシュの暴虐を心の底から危惧するのならば、そもそも累卵楼に立ち入る事を許さないはずだ。第一翼の権限で適当に罪状を並べ立て、命じた巨鳥たちで囲み私刑に処すのが「堅い」。その場合、キャリバーをはじめとした一部の離反があり得るかもしれない。しかし、事態の重さを天秤にかけるなら、全てを焼き尽くさんとする大ミサゴの鳳凰種とその弟子に傾く。


 だが、自らの師はそれを実行しなかった。それどころか、プレアデスの為に機会を設けた。魔術師とは、往々にして探究心と好奇心に富む。血と炎の未来ではなく、翼正会の歴史の中で初めての何かを、プレアデスは成し遂げるかもしれない。その可能性もまた存在している。あの「死を招く黒い鳥」が選んだ少年なのだから。


 そして、フェリーチェは決して口に出さないが、クレールから見てフリッシュとプレアデスは、「脅威」であると同時に「抑止」として作用するだろう。近頃はMRCとの繋がりを特に強め続けている、真意の底が見えない「翼正会の機械巨鳥」へと。五賢師第四翼であり、ミチビキの直接的な師匠であるサタンズクローへと。


『85、84、83』

「フェリーチェさん、目を開けてください。ダイヤモンドクレール師匠がそれを咎めるなら、僕が反論します」


 自らの視界を自らの意思で隠し続けるフェリーチェに対して、ミチビキがそう発した。声色から察するに、その言葉は本心と考えて間違いないだろう。彼はフェリーチェに隠し事はしても、絶対に約束を違えたりしない。おそらく、他者からここまでの厚意と好意を向けられるのは、幸福そのものなのだろう。しかし。


 ……それはできない。


 フェリーチェは、肉声としても念話としても無言を貫いたまま胸中で、短く明確に否定した。先ほどからフェリーチェは、瞳を閉じ、頭と広げた翼を下げたままの姿勢を続けている。それには理由がある。至極簡単な話だ。


「僕は…………頼りないですか?」


 フェリーチェの返答に対して、ミチビキが問う。それはまるですがるような響きが含まれていた。「人間的」と表現できるだろう。


 その理由を耳にした事も尋ねた事も皆無だが、彼が自分を好いているのは知っている。だからこそ、機械人形は必要とされたいのだろう。事実として、ミチビキはフェリーチェが持ち合わせないものを持っている。彼は惜しげもなく、笑顔で手を差し伸べる。感謝していないわけではない。しかし。


 違う。俺がダイヤモンドクレール師匠の直弟子だからだ。


 フェリーチェは再度、短く明確に否定したのち、その理由を述べた。鋼の指に止まった小さな赤いカナリアの体勢は変わらない。


 師であるダイヤモンドクレールの前では、フェリーチェはかつて彼が命じた、服従を示す姿勢を取り続けなければいけない。それは、いついかなる場合でも同じである。唯一の例外は、師が許した時だけである。今はそれを聞いていない。ゆえに、フェリーチェはこれを続けている。


 自分は、五賢師第一翼であるダイヤモンドクレールの、「俺のフェリーチェ」だ。自分は、翼正会頭目の唯一である直弟子に選ばれた。自分は、唯一の次期翼正会頭目候補だ。ゆえに、師の期待に応える必要がある。師の命に従う必要がある。


『79、78、77』

「だったら、僕の魔法で、僕が見ているものをフェリーチェさんに伝えます。それなら、フェリーチェさんが目を開ける必要がありません」


 ミチビキの言動の直後、明るさだけを感じていた瞳に視界が戻る。全体が照明に照らされた闘技場。そこで向かい合っている二組の師弟。始まりを心待ちにしている民衆。これから起こる全てを見逃さないよう無言を貫く柵の前の巨鳥や直弟子。


 ミチビキが魔法を用いた証拠だ。師が見ている前で、フェリーチェはそれに自分の考えを言う事はできない。そして、ミチビキの魔法をクレールは察知しているだろう。しかし、念話は飛んでこない。その理由を、自分は今夜にでも知るだろう。明日にまた、直弟子たちへ雑務の肩代わりという手間をかけてしまう。


 フェリーチェが瞼の裏で瞳を動かすと、視界もそれに追従した。どうやら、自分が見ているものはアンドロイドの眼球とは繋がっておらず、ミチビキがハルクエンジンで生成した魔力を用いた、擬似的な「自分の視界」であるようだ。


 フェリーチェの知らない間に、ミチビキはまた魔法の腕を上げたのだろう。自分が視線を向けた先で、微笑んだミチビキが「両方の右手」をフェリーチェに向けて振った。その瞬間、プリズンロックが小さく笑った。


「まるで頓知とんちだな、ミチビキ少年。だが、それが聡明な最適解だろう」

「ありがとうございます、プリズンロック師匠」

「自分の直弟子にこの一戦を見せないで、クレールはどうする気だったのか」


 フェリーチェは見上げた。自分の師であるクレールをはじめ、五賢師の四羽は闘技場を見下ろしたまま無言を貫いている。あるいは、彼らだけで念話を繰り広げているのだろうか。


 視線を下ろし、闘技場の一点を見つめる。その意思に応じて、視界が拡大された。ハルクエンジンを着装しなければ魔力を生成できないとはいえ、ミチビキの魔法は着実に上達している。自分も負けていられない。いずれは巨鳥となる身だ。


 アンドロイドのミチビキは、何になるのだろうか?


「お師匠姉様……応援しています……! 私は……いえ、私以外も……お師匠姉様が勝つって信じています……!」

「ありがとう。それから、さっきの口上、いつもの稽古や本番と同じように素敵だったわ」

「あっ、ありがとうございます、お師匠姉様!」


 フェリーチェが眺める先で、そのやり取りを経て、ジェイドが己の魔法で生み出した閃光に包まれたのちに緑色のカナリアに変身した。すぐさまサウンドのもとから飛び立ち、闘技場の柵の一角、赤く塗られた側の中心点に止まった。


『68、67、66』


 ジェイドは人間に戻り、闘技場の外から振り返って柵を掴んだ。彼女の瞳には、普段の物怖じしやすい彼女らしからぬ強いものが宿っていた。アウェー観衆的不利ではあるが、それを甘んじて受け入れるつもりはないようだ。そして、プレアデスの勝利が決まったわけではない。あのフリッシュの直弟子とはいえ、相手は翼正会の巨鳥だ。


 ジェイドの行動を見ていたフリッシュが、サウンドに背を向けた。


「プレアデス、仕事だと思え」


 尻目にそれだけ言い残すと、「死を招く黒い鳥」は己の直弟子にも背を向け、悠々と歩き出した。


「分かってるお、お師様!」

『55、54、53』


 自身の師匠に振りかったプレアデスは、両手を大きく振って朗らかに答えた。フリッシュは再度視線を向ける事も、返答する事もなかった。


 西の青く塗られた柵中心点、その手前まで来ると、そこでフリッシュは身を翻して佇んだ。フェリーチェたちから10メートルほどしか離れていない位置だ。ジェイド側とは異なり、フリッシュが歩み寄った付近の観客たちは顔をこわばらせながら、その巨鳥から2メートルほど後ずさった。振り返った大ミサゴの鳳凰種が無言で睨むと、さらに2メートルほど後退した。


「いよいよ始まりますね」


 ミチビキに小さな頷きで返答しながら、フェリーチェは闘技場の中心部に視線を戻した。ゴールデンサウンドは羽ばたきによってわずかに体を浮かせて、プレアデスは鋼の鎧の鋼の足で歩いて近寄り始める。フェリーチェは閉じた瞼に力を込めた。今の自分は瞬きの必要がない。この一戦を見届けるには好都合だ。


『19、18、17』

「やるからには、を抜くのは最小限でいくわ! 覚悟して!」

「望むところだよお! サウンドお師様!」


 互いの距離を詰めながら、挑発の応酬を繰り広げる。そして、闘技場の中心点、そこで相手から2メールほどの場所で止まった。サウンドはホバリング空中停止を続け、プレアデスはわずかに腰を下ろして両腕を構えた。


『見せてみろ、翼なき者がどこまで飛べるのかを』

『分かったよお、クレールお師様!』


 闘技場を見下ろしながら念話を飛ばしてきたクレールに対して、漆黒の鎧の直弟子が朗らかに答えた。クレールの言葉は、一門の巨鳥たちが直弟子へ多用する文言だ。細部はそれを口にする巨鳥によって異なるが、頭領であるダイヤモンドクレールから序列最下位のナルコスカルまで同様だ。その起源や真意は直弟子を含めた門下生全員に伏せられているが、巨鳥にとって特別な意味を持つらしい。


『12、11、10秒前』

「メインシステム、戦闘モードを起動お!」


 プレアデスが間延びさせながらも高らかに叫んだ。その瞬間、フェリーチェはそれを凝視した。大ハチドリや、鋼の鎧を纏ったアンドロイドは目を見開いた。そのミチビキから驚きの声が上がる。


「あれは、もしかして!」

『6、5、4』


 プレアデスの宣言に呼応するかのごとく、彼の体が、水面みなものようにかすかに表面が揺らぐ透明な球状の膜に包まれる。ミチビキと異なり、フェリーチェにはそれに見覚えがないが、彼のハルクエンジンには搭載されていない事は確かだ。


『3、2、1』


 秒読みの終わりを告げるブザーが鳴り響くと、観衆からひときわ大きな歓声が上がる。こうして、取り返しのつかない賽は投げられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る