第7話・いくつもの星が集う名前

 累卵楼の内部は、外界と隔絶された完全屋内空間である。無機質な屋内建造物が並ぶ第一層は、当番の巨鳥が天候を操るゆえに独自の自然環境を有する第二層と比較して、気象の変化に乏しい。MRCが手掛け、累卵楼外壁に何基か設置された超大型空調機の恩恵もあって、第一層では空気の質や湿度、風速などはほぼ一定である。


 累卵楼城下町は「常春の街」と呼ばれているのに加え、当然ながら累卵楼内部は豪雪などの異常気象を危惧する必要はない。ゆえに、第一層の建造物のほぼ全ては、屋上が設けられている。


 ミチビキやタオシャンとともに第一層の主通路を横一列で歩むフェリーチェは、その左右に並ぶ一門弟子の寮を見上げた。


「本当に、お祭り騒ぎになりましたね」


 フェリーチェの視界の外からミチビキの声が聞こえた。「彼」を含めても15人しか存在しない直弟子とは対照的に、一門弟子の数は517人であり、彼ら彼女らの寮は相応の数と面積を有する。主通路に沿って伸びた二階建ての寮の屋上には、多くの一門弟子や市民の姿が見て取れた。屋上に食べ物や椅子を持ち込み、談笑を繰り広げている。


 ここは第一層の中心部に位置する「闘技場」から距離があり、屋上からでもその端さえ目に映らないだろう。しかし、どんなに早く場所取りをしたとしても、一門弟子がその最前列を得る事はできない。翼正会において序列は絶対のしきたりの一つだ。そして、自分たちが悠々と闘技場へ向かっている理由でもある。


「お芝居じゃないから、サウンドお師匠さまの声と飛ぶところをタダで見れちゃうしねー」


 今度はタオシャンの声が届いた。その言葉通り、屋上に陣取る彼ら彼女らとしては、ゴールデンサウンドの飛行をわずかでも目の当たりにする事を期待しているのだろう。大ハチドリであるゴールデンサウンドは、巨鳥の中で屈指の超短距離における俊敏さを持つ。ヒットアンドアウェー一撃離脱の反復を得意とするエターナルキャリバーやミモザコートとは対照的に、彼女の本領は高速接近戦だ。その一環で間合いを広げた際に宙へ舞い踊る彼女を、たとえ一瞬だとしても瞳に焼きつけたいのだろう。


 数時間前までのフリッシュと同様にどこで何をしているか、そもそも生死すら定かではないアディクトテーラーを除けば、ゴールデンサウンドは巨鳥の中の紅一点だ。弟子のジェイドとともに城下町の歌劇団に所属する彼女たちは、「歌姫師弟」という異名で知れ渡っている。累卵楼港に上陸する渡航者や「累卵楼駅」で下車する旅行者の中には、「死ぬ前に一度でいいから歌姫師弟の公演をこの目で見たい」という願望を携えた者が少なからず存在するほどに。そして、当然ながら劇団の所有者とクレールの間には、サウンドとジェイド師弟の劇団所属や出演に関する契約や金銭取引が結ばれている。


「あっ! お師匠さまー!」


 タオシャンが第一層の空を見上げながら叫んだ。視線をさらに上げたフェリーチェは、視力増加魔法を用いて確認する。第一層と第二層を繋いでいる、常時開放されている円形シャッターの大穴から現れたのは、一羽の巨鳥であった。頭と背と翼は朱色、眉間と喉元は黄色、腹部と翼裏には白の毛並みが体高約3.2メートルの体を彩っている。彼は大ツバメのローゼンクレセント。タオシャンの直接の師匠であり、そして。


「お師匠さまー! 僕はここだよー!」


 クレセントが近づくにつれて、一門弟子たちは次々と片膝をついて跪き、市民たちは脱帽して礼を示した。彼らの行動とは反して、タオシャンは満面の笑みで空を見上げて手を振っている。


 自分たちの前を歩いていた主通路の人混みが、足早に四方へ立ち退いた。そこに、クレセントが着地できるだけの空間が生まれる。地面から数メートルのところで低速の水平飛行に移ったクレセントは、自分たちのほぼ真上で垂直降下に入った。


「わわわー!?」


 羽ばたくクレセントの翼で生まれた突風に、タオシャンの体があおられよろける。フェリーチェとミチビキが腰を屈めて彼を支えたのは、ほぼ同時であった。ミチビキと視線が合い、微笑みを向けられる。フェリーチェは無言で小さく頷いた。主通路のアスファルトから1メートルほどの高さで、クレセントは翼を止め、二本の足で着地した。頭を上げたクレセントの首元、そこに巻かれた黒いリボンがあらわになった。


「ミチビキ、フェリーチェ、ありがとうー!」

「どういたしまして」

「礼を言われるほ」

「タオタオ! 俺だけの可愛いタオタオ! さあ! お願いだから俺を撫でておくれ!」


 フェリーチェの言葉を遮りながら、ローゼンクレセントは自身の横顔をタオシャンの体にすり寄せた。その俊敏さは、フェリーチェやミチビキにクレセントへの挨拶を口にする暇を与えなかった。タオシャンはその頬を、右腕の全体を使って撫で始める。


「あ〜! タオタオ〜! 君の撫で方は世界で一番だ〜! 俺はこの気持ちよさで死んでしまうかもしれない〜! 俺のタオタオ〜! もし俺が死んだら、その屍は調理して食べておくれ〜!」

「お師匠さまー。いつも言ってるけど、お師匠さまみたいな巨鳥はそれくらいじゃ死なないし、お師匠さまを食べたりしないよー」


 しきりに弟子へ顔を寄せがる師と、その師に対して冷静な口調をともなって撫でる弟子。その光景を目の当たりにして、立ち上がった一門弟子や帽子を被り直す市民から笑い声が漏れる。しかし、クレセントがそれを気にする様子は皆無だ。彼が見せるタオシャンへの偏愛は、累卵楼とその城下町において周知の事実である。フェリーチェはミチビキを見た。彼は苦笑に近い微笑みを浮かべて自分を見つめ返していた。


「可愛い可愛いタオタオ〜! 直弟子の寮にいるって話だったのに、どうしてそこにいないんだい〜? あまり俺を心配させないでおくれ〜! 俺は師匠として君を心の底から愛しているのだから〜!」

「おつとめが早く終わったから、先に第一層に来たんだよー。あっ、そうだー! お師匠さまもミチビキとフェリーチェと一緒に、サウンドお師匠さまの戦いを見ようよー! 他のお師匠さまや弟子のみんなもいるはずだしー!」


 タオシャンに下嘴を撫でられ恍惚の表情を浮かべていたクレセントの表情が、その言葉で一変した。突如として目を見開き、大ツバメの巨大な首を横に何度も振る。


「タオタオ! 君の誘いは嬉しいが危険だ! フリッシュ様の弟子の腕試しで、その流れ魔法が当たって君が傷つくかもしれない!」

「そんな事絶対ないよー? 魔法が飛んできたら、魔法で防御すればいいしー。他のお師匠さまだって守ってくれるはずだしー」


 フェーリチェから見て、タオシャンの反論は限りなく正論に近い。しかし、それでもローゼンクレセントは、直接の弟子へと執拗に食い下がる。


「この世に絶対なんてものはないんだ! 君への俺の愛以外は! もしも君が不幸にも命を落とす事になったら! 考えるだけでおそろしい! ああ! タオタオ! その時俺は、君の墓標に骨つきフライとして供えられる事しかできない!」

「いつもの事だけど、お師匠さまって変な趣味持ってるよねー」

「これは君への純粋な愛の形なんだ! 可愛い捕食者のタオタオ! さあ! その可愛い小さな口を大きく開けて俺に命令しておくれ! それを聞いた俺は喜んで一門弟子の調理場に行き、そこで捌かれ揚げられ骨つきフライになる! ああ! タオタオ! 俺は君に食べられて君と一つになりたい! さあ包丁を持ってきておくれ!」

「フェリーチェー、ちょっと助けてー」


 クレセントが弟子の前で、背を地に預け腹を出して仰向けになる。それを目の当たりにした困り顔のタオシャンが、フェリーチェに助けを求めた。フェリーチェは無言で小さく頷いたのち、これ見よがしに大きく咳払いをした。それによって、にやけ顔の嘴から涎を垂らしていたクレセントが勢いよく起き上がり、威厳に満ちた表情で自分たちを見渡した。


「フェリーチェ、ミチビキ。我が直弟子であるタオシャンの面倒を見てくれていたのはお前たちであったか。タオタオが食べてくれる特製骨つきフライ、いやいやいや、タオシャンの師として礼を言おう。ご苦労であった」


 フェリーチェたちの周囲のどこかから、誰かが耐えきれずに噴き出してしまった音が聞こえた。それはクレセントの耳にも届いているはずだが、彼は構わず続ける。


「タオシャンはこれから、フリッシュ様の弟子の腕試しを、第三層の私の私室のターミナルで中継として見物する。フェリーチェ、ミチビキ。タオシャンを連れていくぞ。異論はないな?」


 自分たちにそう問いかけながら、クレセントは翼でタオシャンの体を己の胸元へ引き寄せた。顔をしかめたタオシャンが師を見上げる。


「えー、画面で見るのはやだなー。お師匠さまになんとか言ってよ、フェリーチェー」


 彼が次に視線を向けたのはフェリーチェだった。そのフェリーチェは横目でミチビキを窺う。ミチビキも同様に自分の様子を探っていた。フェリーチェが無言で頷くと、ミチビキが同じ仕草で返す。それから彼は笑みを作ってクレセントの顔を見上げた。このような場合は、自分よりもミチビキが適任だろう。それが、フェリーチェが出した答えだった。


「タオシャンさん、ローゼンクレセント師匠は、本当にタオシャンさんの事を想っています」

「えー……うーん……分かったよー……」


 不満げなタオシャンは、それでも自身の髪色と同じピンクのカナリアに変身し、クレセントの首元に巻かれたリボンへ自身の体を挟めた。


「そして、ローゼンクレセント師匠、もう少しタオシャンさんの言い分に耳を傾けてあげてください」

「ミチビキ、お前の忠告は素直に受け取っておこう」


 そう口にしたローゼンクレセントは翼を広げ、体の重心を落とした。


『ミチビキ、フェリーチェ、あとで闘技場で見た感想を教えてねー!』

「了解した」

「任せてください。僕は機械ですから、そういう事は得意ですよ」


 カナリアの鳴き声に乗せられたタオシャンの言葉に、フェリーチェもミチビキも返答した。普段のミチビキは魔力を持たないがゆえに、カナリアの鳴き声の意味を読み取る事ができないが、魔力生成装置が搭載されたハルクエンジン着装時はそれが可能だ。


「さあ行こう! 可愛いタオタオ! 実を言うと、城下町の仕立て屋に作らせた骨つきフライ型の寝袋がやっと届いたんだ! 君はそれにくるまった俺に背中を預けて、ゆっくりくつろいでおくれ! もちろん君が望むなら、俺はいつでも本物の骨つきフライになる覚悟はできている! ああ! いつか俺の全てを奪うタオタオ! 今すぐにでも君に食べられたい!」

『お師匠さまー。お師匠さまみたいな性格を、「へんたい」って言うらしいよー』

「君に対する俺の師弟愛を歪んだ性倒錯と一緒にしないでおくれ! 俺は本心から君に食べられる事を望んでいるんだ!」


 無表情かつ無愛想の人形と揶揄されるフェリーチェさえ口答えしたくなる言葉を残して、タオシャンを連れたローゼンクレセントは飛び立った。着地時と同様に突風を巻き起こして上昇し、第一層の天井に開いた大穴の彼方へ消える。目的地は、先ほど嘴から発していた通り、第三層にあるクレセント自身の私室だろう。闘技場の外周には数台の、累卵楼のローカル回線に接続されたカメラが存在する。


 フェリーチェとミチビキは空を見上げていた顔を戻し、視線を合わせた。ミチビキは、またもや苦笑と微笑みが入り混じった表情を浮かべている。


「ローゼンクレセント師匠……ずいぶん浮かれてましたね……」

「事情は分かる」

「はい……僕にとっても楽しみですし……」


 フェリーチェも、そしてミチビキも言葉を選んだ。フリッシュを除く五賢師とその直弟子、そして当事者であるローゼンクレセントとタオシャンにのみ共有されている秘密の為だ。しかし、他の巨鳥や直弟子も察しているだろう。


 次に巨鳥になるのはタオシャンだ。すでに五賢師四羽によってその決定は固められており、クレールがその日程を調整している段階だ。翼正会の矜持の為に、巨鳥となったタオシャンには、巨鳥としての最初の務めが課される。比較的友好的な各勢力への挨拶回りが。クレールは新たに巨鳥が誕生する事を伏せて、彼ら彼女らと手紙を交わしている。フリッシュとその弟子という予想外の出来事で予定に多少の遅れが出るかもしれないが、決定自体が覆る事はない。


 フェリーチェも、師匠たちの決定に異議はない。直弟子の中で最も高い魔力を有するのはタオシャンだ。彼がその小さな体に秘めた現在の量は、以前はその地位に君臨していたフェリーチェの約二倍だ。元々、タオシャンは初めて累卵楼に足を踏み入れた時点で、当時のフェリーチェに次ぐ魔力を保有していた。


 もう4年前になる。あの日の事は、今でも鮮明に覚えている。「どこにいるか分からないフリッシュよりも目の前のクレセント」と悪態を突かれるほどの厄介者であったあのローゼンクレセントが、タオシャンの前で頭と広げた翼を下げた日を。タオシャンから誓いの口づけを上嘴に受けたあの光景を。


『君は、間違いなく天才だ。俺がこの全身全霊をかけて、君を必ず巨鳥にする』


 クレセントはあの日の約束をもうすぐ実現させるのだ。同門の者として、喜ばしい以外の何物でもない。そして、自分が歳下のタオシャンに劣っている事に、フェリーチェは一切の嫉妬を覚えない。


 個人で事情が違う。先天的に恵まれた多大な魔力を有するタオシャン然り、ハルクエンジンを着装しなければ微塵も魔力を持ち合わせていないアンドロイドのミチビキ然り。魔力の保有量だけではない。MRCから翼正会へ所属を変えたハジュンも、五賢師とアイゼンフォーゲルとその弟子たちのみが存在を認識できるファントムシグナルズとレインメイカーも同様だ。


「行きましょう、フェリーチェさん。あと7分24秒で予定開始時刻です」

「了解した」


 その会話ののち、フェリーチェとミチビキは再び第一層の主通路を歩き始めた。フェリーチェの体感時間で5分も要さずに、闘技場へと到着した。その周囲は観客で埋まっており、闘技場外周のみならず、一部は複数の通路にまで隣接している。


 雑談などを興じていた彼ら彼女らがフェリーチェとミチビキの存在に気づくと、ふたりの前に道が現れた。フェリーチェたちは、観衆に譲られて形作られたその道を歩き始めた。フェリーチェが横目で窺うと、多くの者が自分たちに頭を下げ、あるいは脱帽するか、スカートの端をつまんだ。ミチビキに視線を移すと、歩きながら何度も会釈して返礼している。


 彼ら彼女らは市民だ。翼正会では、弟子が市民に奉仕する事が義務づけられている。それゆえに、特等席に相当するこの闘技場周辺で一門弟子の姿は見受けられない。フェリーチェやミチビキのような直弟子に対しては、民衆が自発的に直弟子を優先させる。そして、ふたりが歩く道の終点には、一羽の巨鳥が佇んでいた。フェリーチェたちはその足元付近、観衆の最前列に並んだ。


「やあ、フェリーチェ少年、ミチビキ少年。あと3分32秒で遅れるところだった」


 フェイーチェが見上げた先で、魔法で宙に浮かべた人間用の懐中時計を胸元の羽毛に埋めたプリズンロックが、嘴にかけたつるテンプルのない楕円オーバル型レンズの眼鏡の奥の視線を自分たちに向けた。


 体高約10メートルという、巨鳥の中で最も高い背を持つ大ツルのプリズンロックは、時間の厳守を要求する以外は温和な性格である事が巨鳥や直弟子の間で知れ渡っている。しかし、ダイヤモンドクレールから五賢師に次ぐ地位を授かり、「虎鶴」の異名通り黄色の毛並みに黒の縞模様が浮かぶ彼は、一門弟子や市民から誤解を受ける事が多い。自分たちへ開かれた観衆たちの道も、そういった印象の一つなのかもしれない。「直弟子たちに最前列を譲らなければ、あの虎鶴からどんな仕打ちを受けるか分からない」という。フェリーチェは伝承でしか知らないが、虎は獰猛の代名詞とも呼べる動物だったらしい。


 そして、師匠たちの口振りから察するにプリズンロックは、サタンズクローが五賢師の一羽として招かれる前の「四賢師時代」には、巨鳥としてすでに一門に属していたらしい。しかし、その具体的な過去は、彼自身も他の巨鳥もほぼ語らない。


「プリズンロック師匠、こんにちは。師匠の歯車とゼンマイ機械式時計はデジタルと比べてもいつも誤差が1秒以下で、電子機械である僕から見ても驚きです」

「プリズンロック師匠からのご助言、大変恐縮でございます。それを胸に刻み、より一層精進致します」

「まだ挨拶が固いな、フェリーチェ少年。他の師匠や直弟子仲間からそう言われていないか?」


 飄々とした笑い声を上げるプリズンロックに対して、フェリーチェは小さく頭を下げた。


「……善処致します」

「クレールの後継としてクレールの期待に応えるのが君の義務だが、クレールにはクレールの、君には君のやり方があるはずだ。そうだろう、ミチビキ少年?」

「プリズンロック師匠の仰る通りです。フェリーチェさんはもっと僕たちに気さくに話しかけていいんですよ?」


 フェリーチェが視線を向けると、ミチビキがこちらに微笑みを向けていた。


「それはともかく、もう時間がない。こういうやり方は好みではないが、君たちふたりに命令する。私の背に乗りなさい。その方が見晴らしがいい」


 プリズンロックのその言葉で、ミチビキの表情が若干の戸惑いに変わった。


「お言葉ですがプリズンロック師匠、今の僕は鋼鉄の塊であるハルクエンジンを着装していますが……」

「その程度で押し潰されるほど私は貧弱ではない。君たちこそ、この戦いをその目に焼きつける必要がある」

「……承知しました、師匠」


 その返答の直後に、ミチビキは腰をわずかに落とした。そして、ハルクエンジンがもたらすパワーアシスト膂力補助を用いて跳躍し、プリズンロックの背中に飛び乗った。多少体を揺らしたが、プリズンロックは背中に乗ったミチビキを受け止める。観衆から短く歓声が上がった。ミチビキが姿勢よくその背に座る。


 ハルクエンジンの力に耐えきれずひび割れたコンクリートの床を尻目に、フェリーチェは、自身に魔法を発した。それで生じた閃光の中で、生まれ持った赤毛の髪の人間から、同じ色の赤いカナリアへと変身した。その姿で飛翔し、ミチビキが顔の高さに掲げた彼の「上の左手」に止まった。プリズンロックの負担を考え、人間に戻る事はしない。


「ごめんなさい、フェリーチェさん……あとで自分の魔法で直しますね……」

『了解した』


 カナリアから見て巨大な顔の眉と目尻を下げて謝罪するミチビキに対して、フェリーチェはカナリアの鳴き声で返答した。フェリーチェが短く見渡すと、闘技場の最前列の諸所に巨鳥と直弟子の師弟たちが見て取れた。闘技場を挟んでほぼ対岸上には、プリズンロックと同様に、直接の弟子であるリベルトをその背に乗せた大フラミンゴのミルキーアイスの姿がある。他にも、大ハヤブサのミモザコートとロジェ、アズールスピードとレフ、大コンドルのネクロクラウンとマリウス、ひとりで闘技場外周の柵を掴んで佇むハジュンの姿が確認できる。


 ミリオンラブとダニオが見当たらないのは、フェリーチェにとって予想の範囲内であった。おそらく、屋台の食べ歩きでもしているのだろう。


「私は同性愛男色者ではないが、それでも君たちは可愛らしいな。まるで先日オスカーが私に見せてくれた、前世界の漫画の中の、蟲と心を通わせる青い服の少女とその友の小動物のようだ」

「オスカーさんは、今も城下町ですか?」


 ミチビキの問いに対して、フェリーチェたちよりも高い位置にあるプリズンロックの顔が微笑みを作った。


 決して師と不仲ではないが、プリズンロックの直弟子であるオスカーは単独で行動する事を好み、主に城下町で自身の興味が惹かれるものへ夢中になる。直弟子の中で一二を争うほど博識であり、ミチビキやアイゼンフォーゲルと専門的な知識を用いた会話を繰り広げる事もある。しかし、その反面、オスカーの魔力的な成長は緩やかであり、彼の魔力保有量はミチビキを除けば直弟子の中で最も低い。ある意味で、タオシャンとは真逆の立場だ。


「オスカーには、オスカーのやり方と生き方がある。私はそれを尊重したい。他の誰でもない、私自身が選んだ直弟子だからな。だが、いつかは己の義務を全うする時が来るだろう。まずは、君たちの番だが」


 プリズンロックのその言葉で、フェリーチェはミチビキとともに闘技場そのものを見渡した。


 闘技場は第一層のほぼ中央に位置する、すり鉢状でコンクリート床の空間だ。全体の広さは、城下町北側郊外に存在し今は半壊した廃墟に囲まれ雑草が生い茂る空き地である、前世界の野球場グラウンドと同程度である。真偽不明の伝承によると、かつてあの球場には「ニタオオ」という名前の強大な怪物が棲みついていたらしい。半径20メートルほどの平坦な中心部において、深さは約10メートルである。


 フェリーチェは頭上を見上げた。闘技場の真上には第一層と第二層の境である、開放された円形シャッターの大穴があり、それは第二層と第三層も同様である。つまり、闘技場は極めて天井が高い吹き抜けだ。翼正会が累卵楼に本部を置くと決めた当時、ここは土台やフレームの一部が剥き出しの廃墟だったらしく、一門が現在の形に修繕したという。おそらく前世界において、円形シャッターはなんらかの用途を与えられ、闘技場だった場所はなんらかの基部だったのかもしれない。


 赤いカナリアは視線を戻した。前世界の格闘技のしきたりに則り、闘技場の外周に設けられた柵には半円状に、東側には赤の塗装が、西側には青の塗装が施されている。それぞれの半円の中心点の延長線上、闘技場の最深である中心部に、一羽とひとりの師弟が二組見て取れた。フェリーチェはカナリアの姿のまま、集音魔法と視力増加魔法を使った。


 自分たちから見て遠く、東の赤い柵側に陣取っているのは、ゴールデンサウンドとジェイド師弟だ。劇場での練習中にクレールからの招集を受けたのだろう。ジェイドは直弟子の正装である藍色のローブを着用していたが、その顔には煌びやかな化粧が施されている。金色と青緑の毛並みを持つゴールデンサウンドの、蒼い瞳の周りも同様だ。


 そして、フェリーチェたちから見て、ゴールデンサウンドとジェイドよりも若干手前、西の青側で自分たちに背を向けた師弟がそこにいた。


 五賢師の異端であり「灰燼の中で産声を上げた、死を招く黒い鳥」の異名を持つフリッシュと、その弟子と思しき漆黒のハルクエンジンを着装した少年の姿が。ダニオの言葉通り、首から下を無骨な鎧に包んだ小柄な背丈から推察するに、タオシャンやジェイドよりも歳下かもしれない。集音魔法で耳の良さが増したフェリーチェに、ふたりの会話が届く。


「奴の手数の多さに惑わされるな。不利に感じたなら距離を取れ。お前がどのような攻撃でもサウンドに一つ入れた時点で、合格という取り決めだ」

「分かったよお、お師様。だけど、戦うなら、ボクはちゃんと勝ちたいなあ」


 「彼」の口調は、若干間延びした語尾が特徴であった。そして、魔法か、あるいは何かの感覚が反応したのだろう。黒い長髪をうしろ頭で無造作に結んだ「彼」が、褐色の肌の顔をこちらへ振り向かせた。


 「彼」が右手を大きく振った。顔に穏やかな笑みを浮かべて。「彼」の手振りと表情は、間違いなく同じくハルクエンジンを着たミチビキに向けられたものだった。カナリアであるフェリーチェの横で、ミチビキの顔つきが険しくなる。その理由は、フェリーチェには分からない。しかし、純白の鎧のミチビキと漆黒の鎧の「彼」を目の当たりにして、小鳥の脳裏に予感めいたものがよぎった。


 そして、それが、フェリーチェが「彼」を、のちに「フリッシュの直弟子である『星の子』」と呼ばれるようになるプレアデスを初めて自身の瞳に映した瞬間だった。





※巨鳥と直弟子(序列順)


・五賢師


師匠:ダイヤモンドクレール(雄・黒い【現在非公開】)

弟子:フェリーチェ


師匠:エターナルキャリバー(雄・黒い【現在非公開】)

弟子:ンシア


師匠:グアンダオストーム(雄・黒い大サギ)

弟子:デリック


師匠:サタンズクロー(雄・黒に近い灰色のバイオミメティックマシン)

弟子:ミチビキ


師匠:フリッシュ(雄・黒い【現在非公開】)

弟子:プレアデス


・大魔術師


師匠:プリズンロック(雄・大ツル)

弟子:オスカー


師匠:ミモザコート(雄・大ハヤブサ)

弟子:ロジェ


師匠:アイゼンフォーゲル(【現在非公開】・【現在非公開】)

弟子:ハジュン


師匠:アズールスピード(雄・大カモメ)

弟子:レフ


師匠:ミルキーアイス(雄・大フラミンゴ)

弟子:リベルト


師匠:コンプリケーションコンプレックス(雌・【現在非公開】)

弟子:【現在非公開】


師匠:ローゼンクレセント(雄・大ツバメ)

弟子:タオシャン


師匠:ゴールデンサウンド(雌・大ハチドリ)

弟子:ジェイド


師匠:ミリオンラブ(雄・大クジャク)

弟子:ダニオ


師匠:スカイファング(【現在非公開】・【現在非公開】)

弟子:センスウエスト


師匠:ネクロクラウン(雄・大コンドル)

弟子:マリウス


師匠:ファントムシグナルズ(【現在非公開】・【現在非公開】)

弟子:レインメイカー


師匠:アディクトテーラー(雌・【現在非公開】)

弟子:【現在非公開】


師匠:ナルコスカル(雄・大ミミズク)

弟子:——


彼より序列が低いアディクトテーラーとナルコスカルは累卵楼から離れた場所で活動している為、ネクロクラウンが実質的な序列最下位として扱われている。

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