第5話 老婆の笑顔
翌朝、検温に来た看護師に叩き起こされたあたしは、病室内の様子がいつもと違うことに気がついた。
遮光カーテンは看護師の手によって開けられて夏の眩しい朝日がいっぱいに射し込んでいるのに、どことなく空気が澱んでいる。
いつもなら真っ先に隣のおばちゃんが「おはよう」と挨拶してくれるのに、今朝はそれがない。
看護師が、「みんな元気ないわねぇ、寝不足?」などと首を捻りながら退室して行った。
本当にどうしたんだろう。
あたしは訝しみながらも洗顔のためにベッドから降りた。なるべく窓の方は見ないようにしなきゃと思うのに意識がそちらに引っ張られてしまう。
「あやちゃん」
突然声をかけられ、背中がビクンと跳ねた。
あたしが油の切れたロボットのおもちゃみたいにギクシャクと振り返ると、隣のおばちゃんがベッドをリクライニングさせて上半身を起こし、こちらを見ていた。
その双眸は不安気に揺れている。
「おはよう、ございま……」
「
蚊の鳴くようなあたしの挨拶を遮り、おばちゃんが言った。
「あやちゃん夜中に電気点けたでしょう。あれ、なして?何かあったの?」
「……え、ナニかって……?」
おばちゃんの問い詰めるような口調に嫌でもあの出来事が思い出されて、一瞬で頭が真っ白になった。
ドクドクと動悸が走る。
「あ、アレは、電気が勝手に点いて……」
言ってから、しまったと後悔した。普通に考えて電気が勝手に点く訳がない。頭のおかしな子だと思われた。
でもなんでそんなこと聞くの?アレはただの錯覚で、あたしだけが体験した幻聴のはずなのに。
ああでも、一体どこからが幻だったのか——
「待って。電気が勝手に点いたって」
突然、三十代のおばさんの声が割って入った。見ると仕切りのカーテンを開いてこちらに身を乗り出し、物凄い形相であたしを睨みつけている。そのままベッドから降りてあたしの目の前に立ったおばさんの得も言われぬ迫力に、あたしの身体は石のように固まってしまった。
そんなあたしを尻目におばさんとおばちゃんが目線を合わせる。
その貌はどちらも蒼白だった。おばさんは自らの二の腕を両手でさすり首を竦めている。左手の包帯がやけに白くて、なんだか胸の奥がざわついた。
おばちゃんは口を半開きにして、ああ、やっぱり、と呻いた。
そんなふたりを見遣りながら、あたしは、昨夜の出来事が幻なんかじゃなかったことを思い知らされたのだった。
「あれ、どうしたの、みんなして」
扉側から呑気な声がして驚いて振り向くと、あたしの背後にお婆さんが立っていた。
どうやらいつの間にか洗面を終わらせて戻って来たらしい。キョトンとした表情であたしたちを見上げている。
「お婆ちゃん!お婆ちゃんは聴かなかった?!夜中のアレ!!」
おばちゃんが唾を飛ばす勢いで捲し立て説明し始めたその内容は、あたしの体験と殆ど一緒だった。
「変な音?さあ、聞いてないねぇ」
小首を傾げたお婆さんに対してこちら側の大人ふたりが落胆とも羨望ともとれる溜息を吐いた。きっとあたしも似たような反応をしたと思う。
けれど同室にいてこの差はなんだろう。お婆さんとあたしたち三人の違いなんて——
「その時間なら起きてたけどねぇ。ちゃんと仏様にお教をあげてたんだけど」
お婆さんが緩やかに微笑んだ。誰にともなくこっちこっちと手招きする。
「アタシね、毎晩ね、二時から三時にかけてね、お経を唱えているんですよぉ」
言いながらお婆さんは、自分のベッドを仕切るカーテンを緩慢な動きで開けると、脇にある床頭台上部の観音扉を、やけに丁寧に開いた。
「!!」
ソレを見たあたしたちは、全員が絶句した。
そこには——数珠と経本と、誰のモノかも知れないお位牌がそっと置かれていたのだった。
「——ね?」
皺だらけの貌をくしゃくしゃに歪めて笑いながら、お婆さんが濁った眼であたしたちを見渡した。
そんなことがあったというのに、いつも通りの一日が始まった。
朝食、薬や点滴、担当医の回診、昼食。
病室になんか居たくもないのに、どうしてもベッドから離れられない理由がある。
それでもあたしは隙間時間にこうしてデイルームまで逃げ出せるのだから、まだマシだろう。他の人はどうしているのか。特に脚を怪我しているおばちゃんは自由に動いたりできないし、あの病室でお婆さんと一緒に……。
いや、お婆さんは何も悪くない。あの現象にお婆さんは関係ないのだ。むしろおばあさんの言っていることが本当なのだとしたら、お経を唱えていたおばあさんはあの現象を体験しなかった。つまりあの現象は本物の怪奇現象だったことになる。
ダメだ。やめよう考えるのは。怖い話は好きだけど、怖すぎる実体験はちょっと。
今夜もあの病室で眠らなきゃいけないのに……。
あたしは、部屋から持って来た文庫本を一行も読み進められずに、開いたままのページに溜息をこぼした。
続
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