🍍第2話 目覚めた異世界

『なぜこうなった!?』


 行方不明の「不幸な橋桁女はしげたおんな」こと白川小夜子しらかわさよこは、ふわふわとした感覚に包まれているのを感じながら、怖くてしばらく目を閉じていた。


 体のあちこちが痛い。


 あの高さから落ちたのだ。とても助かる訳はなかった。となると考えられる正解はひとつ。

 

 ここは死後の世界であるということだった。


『いやだ! 死にたくない! このまま気がつかない振りをしていれば、手違いとかなんとかで、地上に送り返してもらえるのではっ!?』


 そう考えて、しばらく目を閉じたまま横たわっていたが、ひょっとして自分は、あの高さから落ちても助かって、救急搬送された病院の一室にでもいるのではないか? そんな甘い考えも頭をよぎる。


『そうかもしれない……だってこんなに頭はしっかりしているし、体のあちこちが痛いということは助かった証拠! いやいや、あんまり橋が高かったから思わず死んだと思い込んだけれど、冷静に考えれば、わたし死後の世界なんて考えない人だった! 運動神経と体力だけが自慢だし!』


 思い切って、パチリと目を開けてみれば、やはりそこは広い清潔なベッドの上で、やけに豪華な家具やらなにやらに囲まれているとは思ったが、きっと病院の大部屋やら、お安いめの部屋が空いていなかったんだろう。ついてないけれど、そこはついていたようだと思う。


『それか、わたしが助けた人は大富豪だったのかな?』


 なんて小夜子は思い、ナースコールのスイッチを探してみるが見当たらないので、ここがどこかも知りたいし、外に出て看護師さんを探そうと思い、豪華な金色の取っ手がついた扉を、恐る恐る開いてみると、目に飛び込んできた大理石の廊下には、まるで美術館のように、様々なポーズの白い彫像がずらずらと並んでいた。


 これ知ってる……なんだっけ? あ、あれ! ギリシャの神さまシリーズ! 顔が濃いと、全裸でポーズ決めても、恥ずかしくないのかな? 神さまとはいえパンツくらい履けばいいのに……。


 残念な小夜子には、なんとなく彫像の知識はあれど、芸術への理解なんて砂つぶひとつもありはしなかった。


 それにしても様子がおかしい。嫌な予感がすると小夜子は警戒しながら、先に視線をやる。


 大理石の廊下の真ん中には、赤いふかふかの絨毯じゅうたん、その向こうは螺旋らせん階段がある吹き抜けが見えた。


 少しの時間を置いて、予想通りというかなんというか、宝石をちりばめた王冠を被っていてもおかしくない、そんな王子さまっぽい人物が階段を上って現れる。昔絵本で見た王子さまとはかなり違ったけれど。


 だって……。


『髪の色が真っ青! 染めたとかの次元ではなくで、CMの輝く髪なんか通り越して、キラキラしている……。なんだっけ、えっと確か職場で見たみたい! その上、仮面までつけてる! ヴェネチア風? 確かイタリア土産とかで、キーポルダーサイズのは……もらったことがあるけれど……日本で、少なくともわたしの生活範囲で、ヴェネチア風の祭りを祝っているなんて聞いたことはない! やはりここは死後の世界かっ!? いやいやまさか……そんなの信じていないし……』


 そう……彼女は気づいてはいなかったが、ここは死後の世界どころか魑魅魍魎が巣くう、悪魔の世界に最も近い、神の世界の最果てにある『死神の王国』であった。


「このわたしが、見えるようになったのか?」

「へ? み、見えますけれど?」


 長い髪をひとつにまとめ、少し首を傾げながらそんなことを言う、仮面をつけた青い王子さまに、「わたしの方が驚いているよ!」小夜子はそう思いつつ一応返事を返したが、「沈黙は金」である。


 なにがなんだか分からない以上、あまりこちらからむやみに話しかけない方が吉だと思い、きれいな銀色の葉っぱの模様に覆われている部屋の壁紙やら、豪華な家具なんかを、つらつらとながめていると、小さなバルコニーっぽい場所がついた窓の存在に気づく。


「あ、窓がある」


 とにかく少しでも状況を把握せねば! そう思った彼女は、本当は元気いっぱいの身体だが用心して、のろのろとした動きを見せながらベッドから起き上がると、縁に装飾がほどこされた窓に、「最悪、意識不明で人身売買組織に拾われて、ヨーロッパかぶれの変態に格安で売り飛ばされたとかだったら、夜になったら窓から逃げよう。その辺のカーテン引き裂いて……」そんなことを考えつつ、裸足のまま近づいてゆく。


 消防署主宰のハードな体験訓練を、周囲の驚きをよそに楽々クリアした経験を持つ彼女には、まだそんなことを考える余裕があった。しかしながら、外を見て絶句する。


「…………」


 この部屋は、かなり高いところにあるらしく見晴らしがよかった。

 窓の外、遠くには、いくつもの城壁が見え、その外には奥行きの分からない亀裂が走る荒涼とした砂漠が延々と続いていた。


 そして城壁の中にある眼下に広がっているのは、歴史の授業で習った程度ではあるが、どうも中世ヨーロッパ風の街並みが続いている。


『しかも、みんな大きな鎌を担いでどこかに消えてゆく……いろいろな仮面をつけて……。空を飛んでいる人? もいるし……恐ろし気な断頭台すらある。一体どこだここは? 中世ヨーロッパにある魔法の世界とかいう感じ? だとしたらペストがあったりして……ペストは怖いな……いや、死んでまでペストはないか? やっぱりわたしは死んだ!』


 寺の娘であるにも関わらず、念仏ひとつ覚えたこともない、常日頃から供え物を、勝手に盗み食いし、なんなら、お釈迦さまのお誕生日のお祝いに用意された甘茶すらも毎年、先にでき立てをコッソリ飲んでいた小夜子に、お釈迦さまが慈悲を施す義理はなく、もちろん「クモの糸」は空から降ってこなかった。


「お釈迦さま助けて! 早くクモの糸を! プリーズ! プリーズ、ヘルプミー!」


 そんな身勝手な願いを窓の外に向かって叫ぶ小夜子を、仮面の王子さまは少し首を傾げ、見つめてながらつぶやく。


「まあ、この仮面をつけたわたしが見えるのなら間違いはないだろうが……」


 彼は、仮面を外しながらまだ首を傾げていたが、少し面白そうな笑みを口元に浮かべていた。


「魂の色は変わらんが、中身が随分と変わったな……」


 そんな王子の大切な手がかりになるはずの言葉すら、彼の存在そのものが頭から吹っ飛んでいる、小夜子の耳には届いていなかった。


「神さま――仏さま――!」


 くどいようだが、彼女は日頃の行いが行いだったので、神にも仏にも、彼女を助ける義理は、一ミリもなかったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る