『壺を覗いてはいけないよ』
『壺を覗いてはいけないよ』
「私の実家には、玄関前に壺がありました。なにも入っていない壺が小さいテーブルの上に置かれているんです。
幼い頃の私はおかしく思って、祖母に聞きました。「どうして壺を置いているの?」って。
そうしたら、こう返ってきました。「魔除け、いや戒めのためだよ」と。
まよけ?いましめ?当時の私は言葉の意味がよく分からなくて、何度も祖母に聞くんです。
今度は「まよけってなに?いましめってなに?」という具合で。
すると祖母はこう言いました。「魔除けは悪いものを取っ払う、戒めは悪いことをしないようにするってことだよ」と。
その返しを受けて、私はさらに聞きます。「悪いものってなに?悪いことってなに?」
「悪いことをすると、悪いものが出てくるんだよ。だから……」
そう、祖母は言ったんです。
『壺を覗いてはいけないよ』」
大学の同期である白橋満(しらはしみつる)から話を聞いた香は、うーんと唸りながら腕組みをした。
幼少期住んでいた実家に置かれていた不思議な壺が気になる。そう香に話を持ちかけたのは満だった。
「なにか分かりましたか?壺の正体がなにか」
「分からないです。ただ……」
「ただ?」
「悪いことをすると悪いものが出てくると言った後に『壺を覗いてはいけないよ』と言ってきたということは、悪いこと=壺を覗き込む行為ということになりますね」
「そうですね、確かに」
満は納得したように相槌を打つ。
「そして、壺を覗いたら悪いものが出てくる。お祖母さんはそう信じてらっしゃった」
「そうです。何度も何度も、壺を覗いてはいけないよと言っていましたから」
「そうですか……」
香は考え込む。
そんな彼女を見て、満は意を決したように切り出した。
「あの、もしよかったら他にも思い出話があるので、話しましょうか?」
「ぜひ、お願いします」
「分かりました。では、えーと……」
「また、こんなこともありました。私が小学生に上がったばかりの頃です。
ランドセルをもらってうきうきだった私は、はしゃぎながら家中を走り回っていました。
あれは玄関辺りをうろついていたときです。私の腕が当たって、ゴンという音とともに壺が倒れたのです。
小さなテーブルでは受け止めきれず、壺は床に落ちて割れました。
すぐに祖母が飛んできました。
私は壺のことについて知っていたので、怒られると思いました。
しかし、意外にも祖母の反応は普通でした。「けがはなかったかい?」「掃除しないとねえ」と、普通に壺を割ったときの対処しかしません。
なので、当時の私は言いました。「悪いものが出てきてない?」って。
そしたら祖母は「出てきてないよ、出てくるわけないんだから」と言って、私を慰めてくれました。
その後、数日したら同じような壺が玄関に置かれていました。祖母が用意したらしいです」
「壺を覗いてはいけないが、割れても出てこない悪いものとは一体なんなのでしょうか?」
「私には見当もつきません」
満がばっさりと聞いてくるが、香もさっぱり分かっていない。
壺が割れてもなにもなかったということは、壺になにかが入っていたわけではないということだ。
それすなわち、出てくる悪いものなんていなかったということになる。これはもしかして、壺を壊さないように怖い話をして幼い満を怖がらせようとしただけの可能性も濃厚になってきたか。
あと、出てくるわけないんだからというフレーズも気になる。割れてない状態ではいて、割れた状態だといないものが、壺の中に存在していた?
私たちの知らない、なにかがいたというの?
「香さん。他の話を話していいですか?」
そこまで考えたところで、満が唐突に現実に引き戻してきた。
「ぜひ、お願いします」
「さらに、こんな話もあります。私が小学三年生の頃の話です。
私は両親と引っ越して別の場所に住んでいましたから、お盆休みで帰ってこれる祖母の家はちょっと懐かしい旅館みたいでした。
はしゃぎすぎた私は、寝室で枕投げをしていました。そして、勢い余って枕を押し入れに投げつけてしまい、ふすまに穴が開いてしまいました。
どうしようと悩んでいたら、大きな音を聞きつけて祖母がやってきました。
祖母はふすまの穴を見るなり青い顔をして、どこかから持ってきたガムテープで乱暴に穴を塞ぎました。
あのときの祖母の乱れようは、今でもはっきりと覚えています」
「その話は、壺と関係ないように思えますが……」
「祖母がおかしかったときの話も、参考になるかなと思いまして」
「なるほど」
満のアシストは、結果的にファインプレーだった。
押し入れのふすまの穴を慌てて塞いだことと、壺の中を覗くのを窘めていたことに、なんらかの共通点があるのではないかと香が気づけたからだ。
「壺、押し入れ……。中身が見えない……」
「なにか分かりましたか?香さん」
「分かり始めています」
香は頷き、満の目を見て言う。
「満さんは、『シュレーディンガーの猫』という単語をご存じですか?」
「はい。箱の中にいる猫は、開けてみるまで生きているか死んでいるか予測がつかない、という意味でしたよね?」
「結果的に言えば、そういうことになります。ですが、『シュレーディンガーの猫』の本質は、もっと別のところにある」
「別のところ?」
文系で大学受験をした満は、『シュレーディンガーの猫』に対しての知識を十分に持ち合わせていなかった。
「観測されるまで、猫の状態には無限の可能性があるということです。観測された瞬間に猫の状態が決定されるとも言い換えられます」
「無限の可能性?猫なら、丸くなっているか立っているかとかですか?」
「いいえ、もっとダイナミックな変化が起きているかもしれないのです。それこそ、猫が化け物に変身して、箱の中でのたうち回っているかもしれない」
「そんなこと、ありえないんじゃないですか?猫は猫ですよ」
「もちろん、一般的な考え方ならそうかもしれません。しかし、その考え方が通じるのは私たちが観測しているときだけだったら?確かめようがない非観測時に、猫に敷いていたルールが適用されない可能性があります。そして私たちは、それを確かめようがない。観測していないのだから」
「……なるほど」
満は分かったような分からないような、曖昧な返事を返した。
「少し話が逸れてしまいました。つまりなにが言いたいのかというと、壺や押し入れも『箱』と同じような条件下にあったということです」
「条件?外から観測ができないということですか?」
「そうです。壺は陶器の表面で、押し入れはふすまで外界から隔離されています。その状態での壺の中と押し入れの中は、『シュレーディンガーの猫』の『箱の中』と同等の条件であると推測できます」
香は自分に言い聞かせるように、頷きながら論を展開していく。
「それは分かりました。ですが、それがどうしたのですか?『箱の中』の状態に無限の可能性があるとして、それが祖母が恐れていたこととどうつながるんです?」
「そうですね、ここからは少し突飛な話になりますが、満さんはそれでよろしいですか?」
「は、はい」
満は決意を固め、じっと見つめてくる香の目を見返した。
「『シュレーディンガーの猫』によると、『箱の中』の猫の状態には無限の可能性があります。壺の中や押し入れの中も同様です」
「はい」
「ここまで話したことをなんとなく理解していた満さんのおばあさんは、こう思ったのではないでしょうか。壺や押し入れなど、人の目が届かないところには魔が潜んでいる、と」
「だから魔除けなんですね……」
「そうです。お祖母さんは空の壺を玄関先に置いておくことで、魔をその中に封じ込めていたんです。観測できないですから魔がいるかどうかは分かりませんが、お祖母さんは効果があると思っていた。戒めは、目で見えないところに魔が潜んでいることに気をつけよという意味なんだと思います」
「じゃあ、私が壺を割ったときのあの反応は……」
「魔は観測できないときにしかいませんから、壺が割れて観測可能になった時点で安全だと思ったんでしょうね。お祖母さんは普通に壺を片づけ、再度魔除けのために壺を置いた」
ここまで話したところで、香は肩を回してリラックスする。
予想以上に力がこもっていた。白橋家の言い伝えを解くことができて興奮している。
「そして、押し入れに穴が空いたときに急いで塞いだのは、観測不能な状態で存在していた魔が漏れ出してしまうのを恐れたのでしょう」
「でも、壺にも注ぎ口が空いていますよ?壺と押し入れでなにが違うんですか?」
「おそらく、お祖母さんは魔がこぼれると思ったんじゃないでしょうか。観測不能な魔の状態は分かりませんが、壺なら壺、押し入れなら押し入れに収まるサイズをしているということは想像がつきます。なのでお祖母さんは、壺にふたをすることせず、覗くなとだけ言った。そして押し入れの場合は、空いた穴から押し入れに詰まった魔があふれ出てくることを危惧して、急いで塞いだんじゃないでしょうか」
「こぼれる、あふれ出す……」
「つまり、押し入れの魔は体積が多いから、出てきてしまうと思ったんでしょう。予想外に空いた穴から」
「なるほど」
満は一応は、理解したみたいだった。
「さて、これが満さんのお祖母さんの言い伝えの真実かと思われます。実際のところはお祖母さんに聞かないと分かりませんが」
「いえ、納得のいく説明が聞けてよかったです」
満はこれまでの緊張した面持ちを崩し、ぎこちなく笑った。
「今度帰省したときに、祖母に聞いてみますね。答え合わせしましょう」
「いいですね。楽しみにしています。ところで……」
「はい、なんでしょう?」
「ランドセルを振り回したり枕投げで勢い余るなんて、意外とやんちゃなんですね、満さん」
「……言わないでください」
今でこそ大人しめで清楚風な出で立ちをした満は、頬を膨らませて可愛げに異議を唱えた。
※※※
九月の半ば。
長すぎる夏休みを終えて再び大学のカフェテリアに集まった香と満は、雑談に興じていた。
「え、お祖母さん、亡くなったんですか?」
「はい。心臓麻痺だそうです。玄関先で倒れていました。私が帰省する数日前に……」
「それは、ご愁傷さまです。私にできることがあったら、なんでも言ってください」
満を不安にさせないため、香はどんなことでもするつもりだった。
「ありがとうございます。ただ、一つ恐ろしいことがあって……」
「恐ろしいこと?」
「玄関に置いてあった壺にひびが入っていて、欠けていたんです。底の方の一部分が」
満の一言を聞いた途端、香は部屋の温度が五度下がったような感覚に陥った。
「魔が、祖母を殺したんでしょうか?香さんの言っていたことは正しかったんでしょうか!?私がもう少し早く祖母のところに向かっていれば……」
香はテーブルを回り込んで、興奮して大声で早口になった満を抱きしめた。
「っ、香さん?」
「大丈夫です。満さんが背負わなくてもいいんです」
香は優しく言う。
「お祖母さんは心臓の調子が悪くて、運悪く発作が起きてしまったんです。壺の中に魔なんていませんよ」
香は生まれて初めて、心にもないことを口に出して言った。
「そ、そうですよね」
途端に安心する満。
香は、お祖母さんは魔に殺されたのではない、魔の存在を知っていた満が見殺しにしたわけではない、ということを直感的に理解していた。
「強く、これからを生きていきましょう」
力強く言う。満は涙ぐみながら、香の腕の中で何度も頷いた。
お祖母さんは魔に殺されたのではない。壺を欠けさせたまま放置していたという禁忌を犯し、それを悪と断ずる、魔を信じるお祖母さん自身の心に殺されたのだ。
そう結論づけて発言することは、今の香にはできなかった。
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