第10話
町の中心部にある長屋の一室。
少しばかり広い間取りの長屋だが、兄妹二人で住むには少しばかり手狭ではあった。だが、その妹も二年前に奉公に出てからは、男一人住むには少しばかり持て余し気味だった。
それが今、その妹が仏様になって帰ってきて、畳敷きの半分を陣取るように布団の上で横になっている。
そのそばで、源助はただ茫然と見つめていた。
二年前、十五の歳を迎えると妹の鈴は奉公に出てしまった。
自分であちこち声を掛け、勝手に奉公先を決めてしまったのだ。
兄である源助が岡っ引きをしていることをいいことに、あちこちで顔を売り、自分を売り込んでの結果だった。
聞けば大店の峰屋だ。誰が聞いても奉公先としては申し分がない。
これから先、これ以上の働き口は見つからないかもしれないと思えば、たとえ兄とは言え何も言えなくなってしまった。
本当はもう少し面倒を見てやりたかったと腹の中では思っていても、そんなことを口にできるような男ではなかった。
だから、妹の鈴がどう思っていたのかはわからない。
わからないが、自分のことを嫌がってはいないと、そう思っていたのに。
奉公に出たとしても、いつか嫁入りする時には自分の元から嫁いで欲しいなどと、そんな幻想を描いていたはずだったのに。
「源さん、大丈夫かねえ?」
「大丈夫なわけがあるかよ。たった一人の妹だ、何にも手につかねえのは仕方がねえさ」
「だからってねえ。昨日から飲まず食わずで、ずっとあのままだよ」
「枕経は大家が唱えてくれたんだ。後は弔うだけさ」
「それにしたってさあ」
「通夜はどうするんだい?」
「昨日から源さんが夜通しそばに居るんだ、仏さんだって迷うこたあねえよ」
この地では人が亡くなると、火葬にするのが主だった。
一晩、夜通し蝋燭の灯りを灯し続け、死者があの世への道を迷うことなく進めるように見守る。
そうして朝を迎えると、辺り近所の者達が手伝い葬儀を行う。
葬儀と言っても寺の坊主を頼めば金がかかる。正式に寺へと使いを出し、経を唱えてもらえるほどには町人の生活は楽ではなかった。
大抵は長屋の大家であったり、長く生きながらえた者達が耳で覚えた正しいかどうかもわからない念仏を唱えることが当たり前になっていた。
そうして徒党を組んで町中を練り歩き、火葬場へと向かう。
火葬場と言っても火が燃え移らないような町の外れの広場に棺桶を置き、そこに木々や燃えそうな物を山済みにし、野焼きをする。
そうして一昼夜、燃やし続け仏になった者を弔うのだ。
「源さん、大家さんが来てくれたよ。もうすっかりと陽も上がっちまった。
念仏を唱えてもらおうよ」
同じ長屋に住む者が気遣い、声をかけてくれる。
だが、腑抜けのようになってしまった今の源助には、その声も頭には入ってはこない。
「ああ、そうだな。念仏……そうだな」
いつもなら岡っ引きとして威勢のいい男なのにと、長屋の者は皆いたたまれない思いでいっぱいだった。
そんな源助のそばで、なにくれとなく甲斐甲斐しく面倒を見ているのが、源助の子分たちだった。
一晩中座布団に座りっぱなしの源助に代わり、蝋燭の灯が消えぬようにと世話をしていたのは彼らなのだ。
「兄貴。そろそろ念仏を上げないと。鈴さんも、うかばれませんぜ。
大家さんにお願いしてもいいっすよね?」
声のする方へと顔を動かすも、そこには生気のない瞳が揺れているだけだった。
「そうだな。いつまでもこうしてるわけにはいかねえな」
そう言うと、源助は重い腰を上げ立ち上がり玄関先でたむろっている長屋の皆に声をかけた。
「えらい、心配をおかけしてすいやせんでした。あいつのためにも、そろそろちゃんとしてやらんとだ。すんませんが、大家さんをお願いします」
心配そうに見守っていた長屋の者に深々と頭を下げると、源助はいつものような口調で話し始めた。だが、その瞳にはいつものような熱がたぎっているはずもなく、ただ粛々と段取りを踏む。それを全うするために動いているにすぎないのだった。
喪主である源助が声をかければ、後は周りが動いてくれる。それが長屋の掟であり、共に暮らす者の義理でもあった。
遠い親戚より近場の他人とはよく言ったもので、こうして貧しいながらも手を取り合い人々は生きて来た。
気が付けばすべて流れるままに念仏は終わり、夕方近くには火葬場へと向かっていた。そうして棺桶を広場の真ん中に置き、源助も一緒になって山と積まれた枝木に火を付けていたのだった。
火葬の火の番は、専用の人間がいる。仏さんはその者に託し、源助たちは長屋へと戻ると弔いの酒を酌み交わし始めた。
長屋の女衆が持ち寄った料理をつまみに、皆で飲み明かす。
源助の家で足りなければ隣や大家の家にまで上がり込み、皆で飲み、語り合う。弔う者達の最後の別れだ。
夕方から始まった火葬は、まだまだ終わらない。
源助は酒を飲み酔いの回った者達を家に残し、一人火葬場へと向かった。
すっかり夜も更け、広場は燃え続ける火で赤々と照らされていた。
火葬と言う名の野焼きだ。肉のついた死人を燃やすのには時間がかかる。
酒瓶を片手にぶら下げ、捨て材木で組んだ掘っ立て小屋に入り込んだ。
中には火の番をする者が一人、藁を敷いただけの地べたに座り込んでいた。
源助はその隣に座り込むと、彼に酒瓶を手渡した。
「一緒に弔ってやってくれねえか」
男は代々世襲でこの火の番をする家の者だ。
普段から町人たちとは一線を画してきた、無口な男。
「てえへんでしたね」
男はぽつりと口にすると、黙ってそれを受け取り頭を下げた。そして、酒瓶に直に口を付けあおるように呑み込む。男は口元からこぼれた酒を着物の袖口でふき取ると、源助にそっと返した。源助もまたそれを受け取ると、思い切りよく呑み込んだ。
大きく傾けた酒は源助の喉を威勢よく流れ込み、大きくむせかえってしまった。涙を溜めて咳き込む源助の背を、男は無言でさするのだった。
その手が妙に暖かかった。
長屋の者たちや、町の者が心配で声をかけてくれるも、源助の心に響く声はなかったのに。
何も言わず、ただ無言で背をさするその手が、いやその手だからこそ、今の源助には伝わるものがあったのかもしれない。
酒にむせた咳はいつしか嗚咽へと代わり、源助は妹、鈴が亡くなってから初めて涙するのだった。
仕事柄、死人は見慣れている。多くは無いとはいえ、事件も起こる。
人の生き死にが身近であったとしても、それでも身内の死は慣れるものではない。ましてや、まだ若い娘だ。
自分の家で寝かされ、仏様になった妹を直に見てもなお、信じられなかった。
今、目の前で燃える火を見て、やっと理解が追いついた頭に流れ込むのは、鈴と過ごした日々だった。
もう取り返せない、戻ることの無いそれは、朧になった源助の意識を呼び起こすに十分だった。
「すず……」
嗚咽の中からこぼれたその名を、隣の男は無言で聞いていた。
愛する者を亡くした者の声は、何度聞いても心を乱す。
せめて綺麗に燃えきれるよう。
逝く者も、残された者も思いを残すことのないように務めようと心に誓った。
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