第2話
「銀次さん、またお願いね」
閉じた襖の前に立つ男に向かい、その肩に手をかけると自らの躰をこすりつけるようにしな垂れかかりながら女は呟いた。
歳の頃で言えば四十路を超えたくらいだろうか。少し若く見えるのは、大店の女房として金にものを言わせ身綺麗にしているせいだろう。
吐息交じり、ささやくように耳下で告げるその言葉に、銀次と呼ばれた男は「ええ、いつでも呼んでくださいな。奥様のお呼びとありゃあ、一番に駆けつけますんで」と、口角を上げて答えるのだった。
「本当だよ。絶対だからね」そう言いながら女は、銀次の懐から奥に手を差し入れ、古紙に包んだ金子(きんす)を帯の辺りに仕舞い込んだ。
「いつもありがとうごぜえやす。奥様の髪が伸びる前にまた、呼んでくだせえ」
締めの言葉とは裏腹に、銀次の手もまた女の胸元に忍び込ませると、ゆっくりとうごめき始めていた。
女は「もう……」とまんざらでもない顔をしながら、欲情しかけた頬に手をあて、もう片方の手で銀次の手を握り胸元から引き抜くのだった。
それを合図に男は「それじゃあ」と足元の道具箱を持つと「髪結いさんがお帰りだよ」と、銀次の背から女の声が放たれる。
すると、どこからともなく「はーい。今まいりまーす」の声とともに、廊下を走る音が聞こえてくるのだった。
下働きの子どもに先導されながら裏の通用口まで来ると 銀次は袖の袂から紙に包まれた煎餅を一枚取り出し、「ありがとうな。ほら、駄賃だ。兄貴分たちに取られる前に、今食っちまいな」そう言いながら子供の前に差し出した。
子供は黙って頷くと、夢中で煎餅を頬張り音を立てて食い始めた。
銀次はそんな子供の頭を撫でると、腰をかがめながらくぐり戸を抜け外に出た。
「はぁ~! シャバの空気はうめえや」
片手に道具箱、片手を腰にあてがいながら、銀次は大きく息を吸う。
そして、家路へと向かうのだった。
江戸へ向かう道中の宿場町。
ここ「綿(わた)原(はら)」の地は、谷間に出来た立地で綿の栽培を多くしていた。元は田畑と綿を作る者達の集落だったが、思いのほか出来の良い綿に商人が手を伸ばし、ここを拠点に物流が始まった。
旅路で減った腹を満たし、雨露をしのぐ寝ぐらが確保できれば、次は娯楽を求めるのは当然だろう。
人が集えば自然に生活が生まれる。そうやって出来たのがこの宿場町だった。
商いの者に加え流れ流れてたどり着き、居着く者も少なくはない。
彼もまたそういった流れ者の一人だ。
銀次は
流れ者として方々を転々としながら、髪結いを生業に生きて来た。
たどり着き、仕事があればそこに居着く。そしてしばらくするとまた流れて行く。そんな風に生きて来たこの男にも、連れがいる。歳の離れた妹だ。
妹と二人、風のように流れ流され、共に生きて来た。
銀次は一仕事の後、妹の待つ家へと向かう。道中、たまには土産でもと茶店に寄った。そこで団子を買いながら、小腹が減った自分の腹にも一つと、店の店主と立ち話をしながら団子を頬張るのだった。
「よお、銀次。景気はどうだい?」
「ん? 髪結いは、まあまあってとこかな」
「おめえの本職はそっちじゃねえと思ってるヤツもいるだろう。なあ?」
店主は土産用の団子を包みながら、背中越しに問いかける。顔は見えずとも、どんな顔をしているかは容易に想像ができる。
「向こうさんが銭咥えて手招きするんだ。行かない手はねえだろう?
下手に断って機嫌でも損ねりゃ次のお呼びが無くなっちまう。そしたら、おまんまの食い上げだ」
「ははは。そりゃ、違いねえや。ま、お前さんみたいな色男だから出来る技だ。
同じ男としちゃあ、羨ましい限りだよ、まったく」
「まあまあ、そう言うなって。これでも結構大変なんだぜ」
銀次は最後のひと口を茶で流し込むと、懐に入れてあった巾着から団子賃を取り出した。店主から団子を受け取ると、入れ替わりにその手に金を握らせた。
「うまかったぜ。ありがとな」
銀次は竹皮に包まれた団子を懐に入れると、足取り軽く店を後にするのだった。
宿屋や商いの店が並ぶ街並みを抜けると、そこには長屋が並び生活の匂いを感じるようになる。
大家ごとに塀と門で区切られた長屋は、一つの町内のようになっている。
それらは幾重にも並び、この町で暮らす者の生活を見守っていた。
その長屋の一つに銀次たちの住まいがあった。
長屋の門囲いをくぐると、向かい合わせに片側十五件ほどの家が連なっている。
奥から三番目。そこが銀次たちの借家だ。
門を抜けてすぐ脇が大家の自宅になり、他の家とは別に独立した家に住んでいる。大家の年老いた女房が日がな一日その家の縁側に座り、
「よ! ばあちゃん、ただいま。変わりはなかったか?」
「ああ、銀の字か。変わりはないねえ。平和なもんだよ」
「そうか、なら良かった」
銀次は道具箱を持ちながら、大家の前を通り過ぎようとしたその時。
「おい、銀の字。ちょいとお待ち」
「ん? なんかあったか? 家賃はちゃんと払っただろう?」
「そうじゃないよ。ちょっと、来な」
そう言うと、縁側に座ったままチョイチョイと手をふり手招きする。
どうした?と近寄る銀次に、鼻を近付けくんくんと嗅ぎ始めた。
「おまえ、また躰を売ったね?」
大家の言葉にギクリとした銀次は、一瞬顔をしかめるもすぐに立て直し、何事も無かったように否定してみせた。
「なにいってんだよ、ばあちゃん。そんなわけあるはずないだろう? おれはそんなモテねえよ。変な勘繰りすんのやめろや」
「この私を騙せると思っとるんか? 匂いがするよ。濃い白粉の匂いと、匂い袋の匂いだねぇ。ちょっと近づいただけじゃ、こんなに匂うはずがなかろうが?
お前さん、相当執着されてるんじゃないかい? たぶん洗わなにゃ落ちないかもしれないねえ」
「え? そんなに匂うか?」
銀次は自分の袖をすくい匂いを嗅ぎ始めた。だが、自分の匂いはわかり難いものだ。
「仕方ない。その懐の物を寄こしな。代わりに臭い沢庵をやるよ」
「え? いや、これは土産だからなぁ。せっかくの甘味だし……」
「四の五の言わずによこしゃあいいんだよ。何個買ったんだい?」
「……、よっつ」
「じゃあ、三個およこし。土産は一つありゃあ十分だろう?」
「え?それじゃあ、俺の分がないじゃないか!」
「お前さんはもう食ったろうが? 贅沢するんじゃないよ」
「な、なんで。それを?」
千里眼を持つようなその言い分に銀次は驚き、たじろいだ。
すると大家は銀次の襟元を掴み自分の方に引っ張ると、その懐から竹皮の包みを取り出した。
「あ!」という銀次の言葉を無視したままスルリと紐をほどくと、団子を二つ空になった湯呑の中に入れ、一つを自分の口にくわえた。
銀次の「ああ!!」という情けない声を物ともせずに、残りの一つを上手に包みなおし手渡すと、立ち上がり縁側を下り玄関脇に向かい歩き出した。
玄関脇の土間にある漬物樽から沢庵を一本取り出すと、皿に乗せ銀次に持たせるのだった。
「団子の代わりだよ。これを持って行きゃあ匂いも紛れるだろう。
それと、お前さんの口元に粉が付いてる。団子を食ったってバレたくなきゃ、よく拭いとくこったね」
大家に言われ慌てて口元を手で拭うと、「あいつも沢庵喜ぶわ。ありがとな」と、苦笑いを浮かべながら大家の元を後にするのだった。
そんな銀次の後ろ姿に「今夜は荒れそうだ。気を付けな」と、大家の声が耳に入った。
思わず空を見上げる銀次の額に雨粒が一つ、ポツリとあたった。
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