懴悔(さんげ)

蒼あかり

第1話

 嵐のような晩だった。


 雨風が家々を叩きつけ、雨戸を揺らす。

 道中や庭の木々も枝を揺らし、葉のぶつかる音がこだまする。枝が折れる音までが響き渡る中、人の気配を消した町並みは全ての音も光も飲み込んでいた。



「椿お嬢様、いいですか? この門を出たら右に真っすぐ走ってください。そしたら、いつも私と一緒にお使いに行く薬屋があります。そこを左に曲がって少し行くと、番屋ばんやがあります。そこに私の兄がいます。椿お嬢様とも何回か行ったことがあるし、兄にも会ったことがあるからわかりますよね? 

 番屋に行ったら、峰屋みねやが大変です。すぐに来てくださいと伝えてください」

すずは? 鈴はこないの?」

「鈴はこれから旦那様と奥様に呼ばれて行かなければなりません。

大丈夫です。椿お嬢様なら一人で行けます。今日は嵐で町には人がいないと思いますが、まっすぐ番屋に行ってくださいね。椿お嬢様が帰って来るのを、鈴もみんなも待っていますからね」



 景気の良い港町、宮浦の一角に店を構える、油問屋の『峰屋みねや』。

 皆が寝静まった夜更けの裏口で、一人娘の椿とその世話係の女中である鈴の姿があった。

 まだ五歳にもならない椿に向かいあうように鈴はしゃがみ込み、視線を合わせて話して聞かせる。そして、その頭に胸元から出した手ぬぐいを被せ首元できつく結んだ。

 寝ぼけまなこをこすりながら今にも泣きだしそうな表情を見せる椿を、その胸に抱き寄せ落ち着かせる。

 声を出させてはいけない。誰にも聞かれないように、悟られないように。


「椿お嬢様なら出来ます。鈴も、旦那様や奥様とみんなで待っています。

 決して振り返ってはダメですよ。前を向いて真っすぐに走るんです」

 


 椿を安心させるためにわざと作った笑顔は引きつり、強張っていた。

 勇気を出させるために努めて明るく絞り出した声も、震えているのがわかる。

 まだ年端も行かない子供を一人夜道に放りだすなど、あり得ない。あり得ないことだが万に一つの期待を込めて、せめて椿だけはと、それだけを願い鈴は心を鬼にする。


「さあ、行ってください」


 そう言うと、鈴は椿の背中を力強く押した。

「あ!」と声に出す間もなく、背中越しに裏口の木戸は閉められ、椿は嵐の中に一人放り出されてしまった。

 椿は閉められた木戸に張り付き「すず。すず?」と声を張り上げた。

 いつもならすぐに戸が開くのに、開くはずなのに今日は固く閉ざされたままビクリともしない。


「椿お嬢様。鈴の一生のお願いです。どうか、どうか番屋まで行ってください。

 鈴の兄ちゃんに、兄ちゃんに来てもらうように頼んで下さい。お願いします」


 鈴の声は嵐の中でもわかるほどに震えていた。物心つく頃から面倒を見て来てくれた、歳の離れた姉のような存在の鈴。その鈴が泣きながら訴えている。

 椿はわけもわからぬままに起こされ、引きずられるようにして裏口まで連れて来られた。家の中では大きな物音や悲鳴のような声も聞こえていた。

「怖い」と鈴に抱き着けば、「椿お嬢様は、お嬢様だけは絶対に助けます」と、鈴が手を握ってくれた。その手の暖かさが椿の心を奮い立たせた。


「鈴、いってくるね。まっててね」


木戸越しにそう告げると、椿は嵐の中を走り出したのだった。

 木戸に張り付くように椿の様子を伺っていた鈴は、走り出した気配を感じ安堵した。

もうすぐ夏を迎えようとする季節だが、さすがに浴衣姿でずぶ濡れはまだ寒い。ぶるりと体を震わせると、同じように濡れながら走る椿を思った。

 どうか、無事に着きますように。何事もなくいてくれますように。

 ただただ、それだけを願いながら、鈴は恐ろしい修羅と化しているであろう家の方へと向かうのだった。




―・-・-・-




 若い男が一人、暗闇に染まった大店の裏門を潜り抜けると、辺りを伺うように飛び出した。

 ずぶ濡れの着物は身体に張り付き、動きを妨げる。少しだけ膨らんだ胸元を支えるように男は走り出す。

 見える物も、見えない物も、全ての不浄な物を洗い流して欲しいと、そう願いながら雨風の中を走り続けた。

 長い塀を辿るように走ると、ふと微かに泣き声が聞こえるような気がして足を止めた。周りを見渡すと、柳の木の下で子供らしい影が一人泣きながら立っている。一瞬ギクリとするが、どう見ても子供だった。怪しい気配は無い。

 男はずぶ濡れのまま、ゆっくりと子供に近づき確認する。

 それはまだ幼い少女だった。

 寝巻の浴衣姿に、頭に手ぬぐいを被っている。着物や身の手入れから見て、良い家の子とわかる。

 まさか、そんな……。と、思いながら怖がらせないようにそっと声をかけた。


「こんな時分じぶんにどうした? おめえ、どこの子だ?」

「鈴が、すず……」

「すず?」


 男の問いに少女は泣きながら真っすぐに指を指す。

 それは男がたった今、裏門をくぐり出て来た家だった。

 男はゴクリと唾を飲み込むと、覚悟を決めたように笑みを浮かべた。


「あの家にはもう帰れねえ。大丈夫だ、俺がついていてやる」

 

 少女に言い聞かせるように口にした言葉は、男が自分自身に言い聞かせた言葉だったのかもしれない。


 男は少女を抱きかかえると、雨を正面から受けながら全力で走り出した。

ただ、ただ、腕の中の小さな少女を守るために。


 一心不乱に走り抜けるのだった。




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