第3話
「ただいま」
自宅に戻った銀次が木戸を開けると、そこにいるはずの姿が見えない。
「鈴、どこ行ったんだ?」と、商売道具の木箱を畳の上に置くと貰った沢庵を流しの上に乗せ、捜しに行こうと外に出ようとした時だった。
「あ! お兄ちゃんお帰り」と、明るい声が部屋に響いた。
ほっと、安堵したように大きく息を吐くと、「ああ、ただいま。どこ行ってた?」と、銀次は聞き返した。
「井戸場までね。ほら、平吉さんとこからしじみ貰ったんだよ。後でお兄ちゃんからもお礼言っておいてね」
「平吉から? あいつには気を付けろっていってあるだろう? あいつはおめえの事、色目で見てやがる。余計なもん、もらうんじゃねえよ」
「だって、商売の余りもんだから貰ってくれっていうんだもん。それに、井戸場に居た人皆で分けたから大丈夫よ」
「みんな? そうか、それならまあ……」
「お兄ちゃんは心配性なんだから」と、口にしながら流しに向かう鈴は皿に乗せられた沢庵に気が付いた。
「これ、大家さんの沢庵? どうしたの?」
「ああ。帰りしなに話ししてたら、おめえにってくれたんだ」
「ええ! 嬉しい。大家さん家の沢庵大好き。今晩はこれにしじみの味噌汁でいいよね?」
「ああ、上等だ」
「じゃあ、さっそく湯を沸かすね」
鈴は土間に置かれた七輪を持ち出し玄関先に置くと、畳敷きの上にある火鉢から炭を一つ鉄箸で掴み七輪の中に放り込んだ。火のついた炭は、他の炭へとじわりと広がっていく。
流しから鍋を取り出し水瓶から柄杓で水を入れると、それを七輪に乗せザルに入れてあったしじみを無造作に流し入れた。
流しの上には二人分の茶碗と皿、そしておひつ。おひつには朝炊いた冷や飯が残っている。
「少し早いが、早夕飯にするか?」
そう言いながら銀次は壁に立てかけてあったちゃぶ台を持ち上げ、畳まれている足を引き出すと、六畳ほどしかない狭い畳敷きの上にそれを置いた。
「食べちゃえば終わりだからね。そうしよっか」
鈴は大家からもらった沢庵を水で洗うと、手際よく切り始める。
トントンと軽快に聞こえる包丁の音が何とも心地よいと感じながら、銀次はちゃぶ台の周りに座布団を敷き始めた。
そして土産の団子をちゃぶ台の上に乗せ、どんな顔をするだろうかと、そんなことを想像しながら夕飯を待った。
いつもの見慣れた光景、当たり前の日常。
ふとした時に安堵する。
こんな生活が続いてくれればと、願いながら……。
夕飯を済ませ後片付けをした後は、蝋燭の灯りの節約のために早くから床に入るのが常だった。
だが、今夜は客を取った剃刀の手入れをするために、銀次は布団で横になる鈴に蝋燭の灯が当たらぬよう、土間の隅っこの方で剃刀を研いでいた。
大家が言うように夕飯を食べているうちに、雨は次第に本降りになっていった。風が強くなり、雨戸を時折強く打ち付ける。
布団の中でうずくまるように眠る妹を時折気にしながら、銀次は丁寧に剃刀の刃を砥石にあてる。
シャッ、シャッと聞こえる研ぎ石の音も、雨風の音にかき消されてしまう。
「おにいちゃん」
背中で鈴の微かな声が聞こえる。
「どうした? 眠れないか?」
振り向く銀次の目には、布団の中で子供のように小さくうずくまる鈴の姿が映った。銀次は剃刀を置くと、鈴の元に駆け寄る。
「大丈夫だ。兄ちゃんがついてる。心配するな」
布団から顔だけ出した鈴の体を、布団の上から優しく撫でる。
安心するように、何度も何度も、優しく撫で続ける。
「ごめんね」
「気にするな。おめえのせいじゃねえ。眠るまでここに居てやるから、安心して寝ろ」
「うん。ありがとう」
鈴は銀次の顔を見上げると、ゆっくりと瞼を閉じた。
布団の隙間から出された手を握りしめ、大丈夫だと話しかけ続けた。薄いせんべい布団一枚では寒いだろうと、銀次は隣に敷かれた自分の分の布団も鈴の上にかけてやった。
その重みが心地よかったのか、鈴の呼吸は自然に穏やかになり次第に寝息へと変わっていった。
それを確認すると銀次は鈴の頬をなで、ゆっくりと立ち上がり再び剃刀を研ぎ始めるのだった。
嵐の晩になると、鈴はいつもうなされ苦しんだ。
今でこそ寝つきが悪くなったり、悪い夢を見て飛び起きるくらいだが、幼い頃は大変だった。泣きわめき、暴れようとする鈴を「大丈夫だ、大丈夫だ」と必死に抱きしめなだめ続けた。
泣き疲れ、寝落ちするまで抱きしめ続ける銀次の疲労はいかばかりだったろう。それでも銀次は黙って鈴の面倒を見続けて来た。
たった二人の兄妹だから。たった二人の家族だからと。
だが、この兄と妹に血の繋がりは無い。
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