第5話 輝く日の宮は、ふたりに微笑む
光の演奏が始まった。
澄んだ青空の下、清い
春の日の
切ないほどに美しい音色だった。
人々が、この光る君に恋焦がれるのは道理だと、むしろ、心の奥底で焦がれない人はきっといないに違いないと、そう思わせるような。
ほお……と、誰かがため息を吐いているのが聞こえた。
光の演奏は続いていく。
そこにいる皆を、虜にしながら。
人々は御所を彩る桜の花のことも忘れて、ただ光を見ていた。
そんな観客のうちのひとりだった葵は、しかしすぐに、何かがおかしいことに気が付いた。
その光と、やたらと目が合うのである。
「…………?」
見間違いかしらと、葵は首を傾げた。
皆が、光を見ている。
その光が見ている、葵を見ている。
「…………!」
見間違いではないらしい。
位の高い公卿たちの中にいる、兄の頭中将が、笑いを堪えるようにくっくっと体を揺らしていた。
葵の頬が、熱くなった。
それに呼応するように、光の龍笛の音色が、熱を帯びていく。
ーーーもしかして。
もしかして夢は、ただの夢で。
光さまは……。
「ちゃんと、私は誰よりもいい男になりますから。………あなたの隣に立つのに、相応しいような……」
夫の声が、耳に蘇ってくる。
葵の鼓動が速くなった、その時だった。
「………ふふっ」
思わず溢れたと言うような、可憐な笑い声が小さく聞こえた。
帝の隣の、藤壺の宮の声だった。
その声が聞こえた途端、光の顔が、耳が、首筋が、真っ赤になった。
かーっと音がしそうなほど。
ーーーあ。
やっぱり……。
葵はそう思って、また目を伏せた。
そんなところ、見ていたくない。
さっきまで、かすかな希望に膨らんだ胸は、しゅんとしぼんだ。
***
宴が終わって、夫が家に帰ってきたのは夜だった。
葵たち、集められた姫君が帰った後も、月が出る頃まで宮中での宴は続いたらしい。
「疲れたでしょう。今日くらいは先に休んでいても、
そう、母が葵を労ってくれた。
少しだけ落ち込んでいたのが顔に出ていたのかと、葵は慌てた。
「いいえ、お母様。まだ起きていますわ」
そう、笑顔を作って答える。
本当は迷っていたのだが、葵はやっぱり、起きて光を待っていたかった。
出迎えもせずに、先にさっさと
帰ってきた光は、宴で飲まされたのか、酒に酔っているらしく頬が赤いままだった。
「お帰りなさいませ」
そう言って出迎えた葵に、光は目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「うん。ただいま」
思わずきゅんとしそうになって、葵は自分の心臓に腹を立てた。
女房たちが例によって微笑ましげに自分たちを見ながら下がっているのでーーーといっても呼べばすぐに来れるところに控えてはいるのだろうがーーー部屋にはふたりっきりだ。
赤く染まった夫の頬を見ていると、葵は昼間のことを思い出してしまう。
胸がずきんと痛かった。
いつものように御帳台に入って、隣に寝転んでーーー手を繋ぐと、光が、きゅ、と遠慮がちに葵の手を引いた。
「?」
葵が体を向けると、赤い顔をした光と目が合った。
「今日………」
光が口を開く。
「来てくれてありがとう。私はあなたのために演奏したのです」
「………っ」
葵の胸が、ぎゅっと引き絞られるように痛んだ。
「…………わかっていますわ」
心中の動揺を隠して、葵はそう答えた。
光が葵の答えに照れたように笑って、目を閉じる。
すぐにすやすやと寝息が聞こえて来た。
眠たいのはきっと、酔っているから。そして、繋いだ手がいつもより温かいのも、距離が近いのも全部、全部酔っているから。
葵はそう、自分に言い聞かせる。
(わたくしのために、演奏した……)
葵は夫の寝顔を見つめながら、さっきの言葉を
そう、光は葵に向けて笛を吹いていた。
会場中の誰もが分かっただろう。
そのくらい、間違いようもないくらいに、ずっと葵を見ていた。
そしてーーーそして。
藤壺の宮の笑い声に、頬を染めた。
(……………っ、ひどい人………)
葵はそう思って頬を膨らませ、涙の膜の張った瞳を、繋いでいない方の袖で隠した。
***
場面は少し遡って、宴が始まる前に戻る。
南殿の庭に立って準備をしていた光は、あることを思い出して羞恥に
「………葵は和琴と龍笛、どちらが好きですか?」
そう聞いた時の自分の声、気持ち悪くなかったかなあ、気持ち悪かったよなあと思ったのである。
いや、ちゃんと真面目な声を出そうと努力はした。
気を抜けばもじもじもだもだしているのが思いっきり声に出そうで、一生懸命表情筋を引き締めたのだから。
だが今度は今度で、馬鹿みたいに固い声が出てしまった。
いつも澄ましている葵のきょとんとした顔が思い出されて、光は頭を抱えた。
あああああああ、と声が出る。
(どう考えても、そんなかったい雰囲気で聞く質問じゃないだろ)
だが葵はちゃんと、龍笛が好きと答えてくれたので、光は才能に
葵の理想の人になれるように。
すぐそばで、頭中将が光を揶揄うために言ったその
練習の成果を発揮するのは、もうすぐである。
葵がいつ会場に姿を現すだろうかと、光はそわそわとーーーしすぎて評判を落とすと葵にも嫌われそうな気がして嫌なので外見上はわからないようにーーーしながら今か今かと待っていた。
今の光にとっては、会場を埋め尽くす人はことごとく
だが光は途中で困ったことに気付いた。
そう、客席に人が多過ぎて、葵がどこかわからない。
(なんで!?そんなことある?)
左大臣家の目立つ一団が来れば一発だと思ったのに、なぜか見つけられない。
目立たないようにひっそりとしているとは想定外だった光は、しかし慌てても仕方がないとすっと耳を澄ませた。
才能溢れる都一の貴公子、光源氏である自分は、耳もいいのである。
途端に、聞き慣れた若い従者たちの
(あっ、あそこだ!)
光は内心で快哉を叫びながら、声高に自慢話をする従者たちに感謝感謝の念を送った。
(葵はあそこにいる。来てくれたんだ…………)
顔を緩ませる光に、頭中将はまた笑いを堪える羽目になった。
***
光の演奏が始まった。
光の笛の音が、広庭を満たしていく。
演奏の出来については、もはや言うまでもない。
正面に座る桐壺帝が、藤壺の宮とともに、目を細めて愛する息子を眺めていた。
思い通りの音色が出て、そして周囲が賞賛の視線を送ってくれるのを見て、光はほっとする。
稽古の甲斐があったと言うものだ。
いつだったか、夢の自分が、「きっとよほど良い師匠に恵まれたのでしょう」と演奏の腕を褒められた時、「ありがとうございます。師匠というような人についたことはないのですが、少し聞いたことを参考にしたくらいで……」とイキり散らかしていたので、それを反面教師に稽古に励んだのである。
葵の姿を探しながら、光は
光に初めて笛を教えてくれたのは、幼い日の兄だった。
母を喪った後、祖母の元から父によって再び御所へ呼び戻された光は、何度も
今までずっと振り向けばそこにいた母がいなくなった空虚なその場所に、とても耐えられなかったから。
そんな時、決まって足を向けるのは、
兄上と、その母である弘徽殿の女御の楽しげな声が、いつも漏れ聞こえてくる場所。
いけないことだと知りつつも、忍び込んだ光はこっそりと室内を覗き込む。そんな弟に気付いて、笑って招き入れてくれるのはいつも、あの優しい兄だった。
笛も、舞も、光の知らないことを、三つ年上の兄は何でも教えてくれる。
ーーーそういえば、一度だけ。
弘徽殿の女御さまの弾く
そう、光は懐かしく思い出した。
兄上がいて、私がいて、弘徽殿の女御さまが、そして兄上の妹であるその姫宮さまたちがいて……。
まだ藤壺の宮が入内される前のことだ。
ーーーそれなら、今の私の師匠は兄上だな。今度、人に聞かれたら、そう言おう。
夢のあいつよりも上手くなって、きっと、また兄上と一緒に笛を吹こう。
光は龍笛を奏でながら、葵の姿を探した。
左大臣家の人々がいるあの一角の、御簾の中。そう、きっとあそこに、光の愛する妻がいる。
光の笛の音が、熱を帯びる。
(ああ、光る君さまは、新婚の北の方さまが大好きなんだなあ)
光の視線を追って、会場中の人々はそう思った。
ちゃんと正面を向いていたはずの光はいつの間にか、目線を葵の方へ送り、葵の方へ顔を向けてーーーやがて体全体を向けてしまった。
かろうじて右足の先だけが、元の向きに止まり続けている。
熱を帯びた視線も音も、もうずっと、御簾の奥の葵だけに向けられている。
こんなに、美しい音色を奏でる人が。
とても十二歳とは思えない
ーーー恋をすると、こんな風になるんだ………。
光る君も、ちゃんと人の子だったのだなと、人々は妙に感心した。
もはや、うっかり葵の方へ進んで行きそうな光る君の姿に、人々は必死になって笑いを堪えている。
だって、
だから、あれは、本当に、思わず溢れてしまった声だったのだろう。
光の少年らしい必死さが可愛くて、そして可笑しかったに違いない。
「………ふふっ」
藤壺の宮の笑い声が、葵の方を向いたままの光の耳に届いた。
聞き間違いようのない懐かしい声である。
(あー、
恥ずかしさが背筋をむずむずと駆け上がってきて、光は赤くなった。
あれ?そうだ、考えてみれば私はなんでこの向きになってるんだ?
これじゃあ私は恋に浮かれて、葵に首っ丈だと皆の前で公開告白してるようなもんじゃないか?
美しい音色で笛を吹き続けながら、光ははっと我に帰る。そしてもう一度、心の中で首を傾げた。
……………それの何がだめなんだったっけ?と。
うん、私がただただ恥ずかしい以外、特に困ることはないな!
よし、じゃあいっか!
開き直った光は、帝に「
(あーあ。葵は、さぞ混乱してるだろうなあ)
そう思ったのは、この状況を作り出したまあまあの犯人である頭中将だ。
(馬鹿だなあ、あいつは。あんな冗談真に受けちゃって)
頭中将が肩をすくめる。
真に受けるどころか、名誉その他あらゆることを投げ打ってしまっている気もするが、頭中将は親友のそんな姿を、もう
あんなに一生懸命なのは、葵の好みの人になりたいからだと、もう知っているから。
ーーー俺の妹は、幸せになれそうだ。
あんなの、口から出まかせの嘘だったけどーーー結果
御簾の奥、帝の隣で、うっかり笑ってしまった自分に驚いたように、慌てて口を塞ぐ藤壺の宮の姿が、頭中将のいる席から、ぼんやりと見える。
ーーー恐れながら、藤壺の女御さま。そんなに慌てる必要はありません。それが普通の反応です。あいつをもっと笑ってやってください。
舞い散る桜の花びらを眺めながら、そう、頭中将は藤壺の宮に心の中で話しかけた。
恋に落ちたら馬鹿になるって言うけれど、まさかあの光が………と、頭中将は目を瞬かせる。
光の夢に出てきたあの男は、親友の頭中将にも、というか誰にも、自分の恋を秘密にしておきたがるおかしな癖があった。
そんなことは知る由もない頭中将も、あの光が……と、思ってしまう。
(………葵は美人だし、可愛いし、おしとやかだし箏や歌や書も何でもできるし、その上可愛いし………くそおっ、なんか、妬けるな)
嫌味なほどに美しい笛の音は、妹に向けられた
ーーー無性に、強い酒が飲みたい。
妹を
***
結局、宴は、夜まで続いた。
奏でられる音楽が、公卿たちの会話が、酔った頭をぼーっと通り過ぎて行く。
月はもう、高いところに登っていた。
いつもなら葵と一緒にいる時間なのにと、光は終わらない宴を恨めしく思った。
(早く、葵に伝えたいのに。ーーー来てくれて、ありがとう………今日、私は…………)
心の中で何度も何度も、言いたい言葉を繰り返す。
御簾の奥にいた葵の反応を、まだ見れていないのだ。
(………これ、夜更けまで帰れなかったらどうしよう?うーん………こっそり抜けて帰っちゃおうかなあ。もう、父上も退出なされたみたいだし………)
きっと、また義母上ーーー藤壺の宮の元へ行ったのだろうと光は思って苦笑した。
光の実母であり、帝の一番の寵妃だった桐壺の更衣にそっくりな藤壺の宮を、帝が熱愛しているのは有名な話だ。
光は夜空を見上げる。
葵に会いたいなと、光は思った。
光の記憶の中にある藤壺の宮は、いつも笑っていた。
あの後宮で、父上と兄上以外で初めて、幼い自分に微笑みかけてくれた人だった。
そうしていると、いつも父が藤壺に顔を出す。仲良くなったのか、と嬉しそうに藤壺の宮を見つめながら。
楽しい時間を邪魔されたような気がして膨れっ面になる小さな私を見て、父上の隣で、
ーーー夢のあいつが、あんなことをしなければ。
義母上はずっと、父上の隣で、あの屈託のない笑顔で笑っていたはずだ。
「何だ。
振り向くと、頭中将がにやっと笑って立っていた。
「物思い顔お〜?よく見てくれ。成功に酔いしれてる顔じゃないか」
「ははっ、恋の悩みでもあるのかと思って、わざわざこの俺が教示してやりに来たんじゃないか」
「はいはい。君は恋のことばっかりだなあ。けど、恋かあ……恋………実を言えば、頭中将、私は……」
ーーー私は、恋ってどういうものなのか、正直よくわかってなかったんだ。
呟くように、光が言う。
「だって、家族の中にいるあったかい気持ち……………あのほっとする、安心できる気持ちがあるだろう。わかるかな」
「ん?おお、あるな。父上と母上がいて、葵や弟たちがいて……お
「うん。私にとっては……そんな“家族の中にいる”っていうの、結構特別だったんだ。だってすぐに壊れてしまうから。どんなに頑張っても、簡単に、もう会えなくなるかも知れないから」
「ふーん……そうかあ。君は大変だったんだな」
「うん……まあ、ちょっとだけね。だから、消えてしまうかもしれないそのあったかい居場所に、一緒にいてくれる人を想うあの気持ちが、恋なのかと思ってた………のかなあ…………夢のあいつは」
ごくん、と光が盃をあおる。
「うんうん。……?夢?」と、頭中将がまた酒を注いでくれる。
思いのほか強い酒で、光の頬が赤く染まり、目がとろんとなった。
ごくん、ごくんとそれを飲みながら、光は赤い顔で言葉を続けた。
「でも……葵には……あおいには、どきどきする〜……ほっとする前に、くるしくなって………だって、あおいが可愛くて………。あんな目で、見られたらぁ………」
後半の呂律が回っていないのは、酔っているからだろう。
ねえ、とうのちゅうじょう、恋ってなんらろ〜……と、光が赤い顔でぽやーっと呟いている。
(………いや、じゃあもう、わかってるじゃないか。葵が初恋じゃないか。なんだこいつ)
頭中将はとりあえず、酒をあおった。そして光にももう一杯注いでやる。
とろんとした目の光が、惚けたように呟く。
「………あおいに、会いたい〜……」
「早く帰れよ」
ぐびぐびと酒をあおりながら頭中将が言う。
そして肩をすくめた。
「しょうがないなあ。君と話たがってるおっさん連中には、光る君さまは
「う〜ん……
「うわ、立ち上がり方が怖い。ふらつくな、裾踏んでこけるぞお前!おーい、
惟光を呼びながら、頭中将が光の耳元で揶揄うように囁く。
「………そんだけ酔ってたら、俺の可愛い妹に、今宵は無体なことはできないだろ。残念だったな」
「ん〜………んっ!?む、無………っ!?」
「まあ、もう遅いから、葵は先に休んでるかも知れないけどな!」
俺はそっちに賭けるよと、酒に強い頭中将が、いつもと変わらない口調で笑う。
ーーー先に休んでいる、か………。
夢の通りなら、私もそう思うと、光は膨れっ面を義兄に向けた。
だけど、まだ変えられるはず。
私はきっと待ってくれている方に賭けると、光は惟光にずるずると引きずられながら、頭中将に言い返した。
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