第4話 春の宴と新妻の憂鬱

光の妻となった葵は、困っていた。


左大臣家の一の姫が、名高いあの・・光る君を骨抜きにした。そんな噂が都中を駆け巡っている。

深窓の姫君だったはずの葵は一躍、有名人になっているのである。


ーーー光る君を、骨抜きに。

それが事実ではないと知っているのは、自分と夫の光る君の、二人だけだ。


葵と光は毎日、同じ家で目を覚まして、夫婦らしく食事を共にして、そして同じ御帳台みちょうだいで眠る。

ただ、手だけを繋いで。


そう。

葵はうっかり、見事なお飾りの妻・・・・・の座を確立してしまったのである。


夫が何やら嬉しそうなのは、結婚しても妻とは何もなく、初恋の人である藤壺の宮を屈託なく想い続けることができると、わかったからだろうか。


そして宮中へ参内すれば、ひょっとして彼女と言葉を交わす機会でもあるのだろうかーーーと、葵はそっとため息を吐いて、そんなことを考えていた。


寂しい。

不意にそんな想いが湧き上がってきて、葵は慌てた。


ふう、とまたひとつ息を吐いて、ふるふると頭を振る。


それでも、決めたのだもの。

光さまを、ひとりにしない。あんな苦しそうな、暗い目を、決してさせない。


例え自分が寂しくとも、光さまが笑っていられるように。

そのために頑張れるなら、それでいいーーー光さまが心から好きだと思える人に会えるまでの間、家族として光さまが安らげる空間を作ることができたら、それでいいのだ。


それに夢よりも、今の関係はよっぽどいい。


「なんだか、緊張してしまいますね…………」


初夜のあの日、御帳台の中でそう言ったのは、葵からだ。

声に出してしまってから、葵は心の中で苦笑した。


いや、光さまは緊張なんかしないか、と。

ーーーだって、わたくしに興味がないのだから。


だから、光から返ってきた声に、びっくりした。


「本当に。緊張します……」


と、そんな言葉を。

社交辞令でも何でもなく、本当にそうに違いないという声が。そう言ってもらえてほっとしたとでも言わんばかりの声が。


(え………?)


手を繋いで隣で横になりながら、葵はなかなか眠れなかった。


光が、葵の手を握る手に、少しだけ力を込めてくれた。鼓動が跳ねて、葵はぎゅっと目を瞑った。


光の手を握り返しながら、心の中に淡く灯った想いを必死で封印する。


ーーー好きになっちゃ、だめ。


そう、繰り返す。


だって光さまには、わたくしよりももっと相応しい方がたくさんいるもの。

わたくしはーーー光さまに何もしてあげられない、光さまの人生の物語に、ほんの少ししか登場しないわたくしは、今度こそ。


今度こそ、ただ光さまを幸せにするために頑張ると決めたのだから。


そう思うのに、繋がれた手はどこまでも暖かかった。

すうすうと寝息を立てて眠る夫の顔は、まだあどけない。


これから出会うたくさんの女君がいたとしても、今この時ーーー同じ掛衣で眠って、この顔を見られるのは自分ただ一人だと、葵は思った。


光さま。光さま……。


どうか、幸せに。

幸せに生きてくださいーー。


祈るような気持ちで、葵は夫の寝顔を見つめた。



***



それからはずっと、手を繋いで眠っている。


初めは迷惑になってしまうかなとも思ったが、光が嬉しそうな顔をするので、葵は不思議に思いながらも嬉しかった。


今、縫っている直衣のうしだって、そうだ。


言い出したのは、父である左大臣だった。


初めて、自らの手で夫の着る着物を仕立てた葵は、それを見た光の顔ーーー目を見張って、感激しているかのように頬を上気させた顔に、驚いてしまった。


ーーーそうか。

年月があっという間に過ぎたように思えた夢と違ってまだ十二歳ですものね。

そう思ったらなんだか弟のようで可愛らしいかもしれないわ。


両親と兄に可愛がられて育ち、下の兄妹のいない葵は、そんなことを思った。


「………あなたが、作って下さったのですって。とても……」


夫の声が耳に届く。

もしかして、褒めてくれようとしているのだろうか。


褒めてもらえるようなことではないと葵は思った。だって夫の着物を仕立てるのは、正妻・・のつとめ……。


そう口を開きかけて、葵は一瞬口をつぐんだ。それから言う。


「……妻の、つとめですもの」


光の妻は今はまだ、自分一人だけだった。


可愛げのない言い方だったかしら、と葵はまた目を伏せる。

目の前の夫が、(妻………!)と、葵の言葉に胸をときめかせていることも知らずに。


光の衣を整え終わった葵は、顔を上げてそっと光を見つめた。


光の瞳を。


あの暗い影が、瞳の奥に落ちていないか見たかったのだ。

上目遣うわめづかいに、葵は瞳を近づける。


葵の瞳に映る夫が、真っ赤になってこくんと唾を飲んでいた。


澄んだ瞳の中に、あの影は、まだどこにもない。


葵はほっとして、心の底からほっとしてーーー光を見つめて微笑んだ。


「〜〜〜〜っ!!」


ふい、と光の顔が背けられる。

ずきん、と葵の胸が小さく痛んだ。


夫が自分から視線を逸らすのを、葵はこうして、いつも何も言わずに見ていた。



きざはしの方が騒がしくなって、葵ははっと物思いから覚め、顔を上げた。


あの美しい薫物たきものの香りが、かすかに近づいてくる。

若い女房たちのはしゃぐ声が、いつもより高くて、そして明るい。


葵はさっと身支度を整える。

夫が帰ってきたらしかった。


***



「葵…………、葵は……………」


目の前に座った光が葵に言う。

固い声だった。


(何かしら。そんなに言いづらいことって……)


葵はただならぬ雰囲気を察して、袖の中でぎゅっと手を握りしめた。


ああ、そうか。誰だろう。

ーーー光さまは、誰と出会ったのだろう。


夕顔ゆうがおきみ六条御息所ろくじょうのみやすんどころさま?

それとも………やっぱり、藤壺ふじつぼみやさまーーー?


葵はそっと扇を開いて、顔を夫から隠す。

ぎゅっと目を瞑って、光の言葉を待った。


光が固い声のまま、口を開く。


「………葵は和琴わごん龍笛りゅうてき、どちらが好きですか?」

「………え?」


思っていたのと違う質問が来た。


(これが、そんなに言いにくそうだった質問なの……?)


頭の上に???マークをたくさん乗せたまま、葵はそれでも答えなければと思って、扇をずらした。


和琴と、龍笛。

和琴が得意なのは、お兄様。

光さまが好きなのは。


夢に出てきた光の人生の様々な場面が、葵の脳裏に浮かぶ。

例えば常陸宮ひたちのみや姫君ひめぎみの所へ向かう牛車の中で、それから幼いむらさきうえに出会う北山で、光さまがいつも吹いていたのは。


考える間もなく、口から言葉が滑り出ていた。


「………龍笛。龍笛が、好き………」


そう、葵は答えた。



女房のひとりが、光の愛用の名笛を大切そうに持ってくる。


光と葵が結婚してから、左大臣家にはふたりのための対の屋ができていた。


様々な調度品が並ぶ中で、ふたつ並んだ掛竿かけざおには、光の着物の隣に葵の着物が掛かっている。


いかにも、な新婚夫婦の部屋だ。

光は身の回りのものをほとんど全て、自身の二条の屋敷や桐壺ではなく、ここに置いていた。


愛用の名笛も、そうだ。


葵は女房からそれを受け取って、光に差し出した。


こうした身の回りの世話をするのは、本来は女房たちの仕事だ。

着物を着せかけて整えたり、笛を差し出したり。


それは身分の高い姫君である葵には相応しくない。

今までの自分なら、そう思ったに違いない。


葵はとりあえず、そんな矜持プライドは叩き捨てることにした。


その方が、光が嬉しそうだからだ。


ありがとう、と光が葵の手から笛を受け取る。

光は少しだけ、葵を見上げる形になった。


十二の頃の光はまだ、葵よりも背が小さいからだ。

夢を思い出して、この子があんな風になっていくのかと思うと葵は不思議な気がした。


「い、今に大きくなりますから!」


そんな葵を見つめて、光が少しだけ焦ったような顔で言う。


「ちゃんと、私は誰よりもいい男になりますから。………あなたの隣に立つのに、相応しいような……」


きょとんとして見つめ返す葵に、もごもごと、光の語尾が消えていく。

でも、必死な顔はそのままだ。


可愛い、と葵は思ってしまった。

そう思ってからーーー夢の自分が知ったら、さぞ驚くだろうと思った。



***



そこからは、とんとん拍子に話は進んだ。


光が何かを葵の両親に話して、それから、帝の秘書でもある兄から遣いが来てーーーそして。


それが何の話だったのか知らないまま、葵は気付けば、笑顔の両親に見送られ、女房や従者たちを引き連れて、牛車に揺られて大路を進んでいた。


管弦の宴の開かれる、宮中へ。


幼い頃、自分は将来ここへ嫁ぐのだとーーー東宮妃とうぐうひ、そして中宮ちゅうぐうになるのだと、そう信じて疑うことのなかった場所へ。


それから運命はくるくる変わって、光の妻となった葵は、今日初めてその門をくぐった。


牛車から降りた葵は、眩しさに目を細めた。

御所は、桜の盛りだった。


満開の桜が、春の風に吹かれて花びらを揺らしている。


華やかに、しかし上品に、宴の支度が整えられたそこには、たくさんの貴人たちの姿があった。


弘徽殿こきでん女御にょうご以外の帝の妻たちが揃っている。

麗景殿れいけいでん女御にょうごのそばには、その妹姫である花散里はなちるさとの姿があった。

兵部卿ひょうぶきょうみやの隣には、その娘である朝顔あさがお姫君ひめぎみが。

右大臣家の人々の並ぶ一角には、たくさんの姉妹たちの中に、葵の兄、頭中将の正妻である四の君の姿が、そして妹である六の君、朧月夜おぼろづきよがいた。


そして桐壺帝のそばには、藤壺ふじつぼみやの姿があった。


物語のようだとは、きっと、こんな風景のことを言うのだろう。

まさに、この世の春そのものの、輝かんばかりに美しい景色だった。


その、眩い光の中に。

葵が手渡した、あの龍笛を持って、葵の夫は立っていた。



***



宴の席で、葵は御簾みすの中、それも奥深くにいた。

なるべく目立たないように、と。


今をときめく左大臣家の深窓の姫君である葵は、この京で一番身分の高い姫のひとりだ。


その身を包む単もその上に羽織った唐衣も全て、一目でとびきり極上なものだとわかるものばかりだった。


両親である左大臣と大宮の方が用意すると、いつもこうなるのだ。

生まれた時から両親の愛を一心に受けてきた葵は、これまでーーー夢を見るまでは何の不思議にも思わなかったこの身を飾る豪奢ごうしゃな衣に、なんだか今は気後れがするような気がした。


自分の存在は何というか………いるだけで嫌味というか威圧感があるというか、とにかく夫の好みとは真逆なような気がする。


自分を取り囲む大勢の女房たちの存在からしてそうだ。

だって、入内でもないのに!


だが自慢の婿君の晴れ舞台だと張り切る父と、それに妻である愛娘が呼ばれたという幸運に顔を綻ばせる母を前に、断ることは忍びなくて、とてもできなかったのだ。


葵は御簾の中でなるべく身を小さくした。

視線が、痛い。

夫の人気の高さを、葵は改めて思い知った。


葵の姿を盗み見ているのは、密かに光のことを慕っていた宮中に仕える女房たちだった。


葵は知るよしもないが、その反応は様々であった。

ある者はため息を吐き、あるものは悔しさにキーッと唇を噛み締める。


豪華な着物を隠すように縮こまっていても、扇で顔を隠していても、その姿を見た人には、特に同性の女房たちには…………なんとなーく、わかってしまう。


葵の背には平安の姫君の命でもある艶やかな美しい黒髪が、長く垂れていた。


夢に見た光る君の物語の中で、絵巻物に描かれるようなうるわしい姫君と讃えられた葵である。


それはまさに、一点も非の打ち所のない姿だった。


もとから、文句など言える立場でないのは百も承知ではあるのだ。

だが、少しくらい、何か溜飲を下げられるポイントを見つけたかった。そう思っていたところに現れた葵はーーー。


宮中の女房たちは、絶望感に打ちのめされた。


無事だったのは「まあ、奥方さまの方なんか見てどうするの。光る君さまだけを見ていればいいのよ」と、そんな同僚たちをたしなめる源典侍げんのないしのすけだけだった。


知らず知らずのうちに皆を圧倒している主人に、左大臣家の女房たちは鼻高々だ。


中納言ちゅうなごんきみ中務なかつかさといった、長く葵に仕えている女房たちが、誇らしげに目を見交わしている。

葵とさして年の変わらない若い彼女たちが、扇で口元を隠しつつ、口々に言う。


うちの姫様が一番綺麗だとか、光る君さまの寵愛を受けて当然だとか………そんな、鼻持ちならないことを。


初めての宮中に、はしゃいでいるのもあるのだろう。

高い声が、いつもよりもよく通る。


当の葵は、破滅への道フラグがこんなにも身近にあったことに恐怖した。


「ねえ姫様、やっぱり姫様が一番お綺麗ですわ。光る君さまとご結婚なさってから、色々と口さがない人もいましたけれど、今日で確信しましたわ。本当にお美しくなられて…………」

「私は胸がすっとしましたわ。ご覧になってください、皆さまのあのお顔!」


「ちょっと……」

やんわりと諌める葵の声に、聞く耳を持つ者はいない。


「姫様はただ堂々としていらっしゃればよろしいのですわ。光る君さまは毎日、そう、毎日!真っ直ぐに姫様の待つ左大臣家にお帰りになりますものね」


「ちょっと、中納言の君」


「今日の光る君さまのお衣装だって、姫様が手ずから縫われたものですもの。光る君さま、感激なさっていましたね」


「ちょっと、中務?」


「婿君の笛が楽しみですこと」

「ええ。今日だって、光る君さまの目にはきっと姫様しか映りませんわ!」


「んなっ、な……!何を言うの?ねえやめて、本当に……あの、傷つくから…………」


こんなにたくさんの姫君が集められていても、光の目には藤壺の宮しか映らない。


葵は知っているのだ。

夢の夫が、あなたに聞いて欲しくて、ただそれだけを想って奏でたのですーーーと、藤壺の宮・・・・にそう言っているのを。


「「姫様が一番ですわ!!」」

そう言って、女房たちは声を揃えて高笑いした。


「………」

項垂れたのは葵である。


無論、中納言の君たちに悪気はないのである。むしろ、モテモテの夫を待つことになった主人のために、なんとか周りを牽制しようと必死なのだ。


家でも、彼女たちは光にとって少しでも過ごしやすい、心が安らぐ楽しい場所になるように、と気を回してくれている。

それは全てーーー少しは私情が入っているかも知れないがーーー全て主人である、葵のためだ。


ここで言い争っても悪目立ちするだけだと、葵は口を閉じた。

御簾の外では外で、また左大臣家から連れてきた若い男の従者たちが、自慢話に花を咲かせている。


車争くるまあらそいの場面を夢で見た葵にとっては、聞かなくとも内容はだいたい、想像がつく。


やかましい声だった。


演奏の準備をしている夫の耳にも、きっと聞こえているだろう。


(光さまにとっては、わたくしは親同士の意向で押し付けられた政略結婚の相手だもの。想う人は他にいるのに、わたくしと結婚したせいで、こんな左大臣家の自慢話のネタに使われて……)


葵は扇で顔を隠し、ふっと寂しげに笑った。

夢の光の姿を思い出す。


そりゃあ……と、葵は思った。


(そりゃあ、わたくしのもとに足を向けたくなくなるわよね…………)


もう、宴が始まる刻限こくげんになっている。


葵はため息をつきつつも、「静かにしていなさい」と一言だけ、外の従者たちに命じた。

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