第3話 噂の光る君は、奮起する

ざわざわ、ざわざわ……………。

宮中きゅうちゅうが、ざわついている。


元服げんぷくと、そして祝言しゅうげんを済ませた光る君が参内さんだいしてから、宮中はずっと、噂で持ちきりだった。


出仕するその姿が美しくて仕方がなかったからーーーでは、ない。


いや、無論、光る君は今日も今日とて美しくて仕方がなくはあるのだが、それ以上に気になることが起きているのである。


御簾みすの向こうに控える内典ないしのすけ内侍ないしのかみたちが、居並ぶ公達きんだちが、そして主上おかみーーー桐壺帝が、光を見ている。


宮中の人々の目を一身に集めて、ふう、と当の光はため息をついていた。

苦しくて吐くため息ではなく、頬を染めて吐く、恋煩こいわずらいの幸せそうなため息を。


人々が、目を見交わした。

そしてまた思い切りざわざわし出す。

一人、生ぬるい目で光を見ている大輔たいふ命婦ちょうぶを除いて、だが。


「かぞく………家族。家族かあ…………」


そう、矢鱈とつぶやいては頬を緩ませているのも、光を偶像アイドルと崇めている皆から見れば大大大事件なのである。


そう、早い話が、光る君は新妻に夢中になって、参内している間中、ぽーっと惚けているのだ。


三日夜の露顕ところあらわしを無事に迎え、葵と二人で餅を食べて、しゅうとの左大臣と酒を酌み交わし、世間にもふたりが夫婦になったことが知れ渡っている。


気負っていた光はすっかりほっとして、左大臣家を我が家と思って毎日通っていた。

葵が優しくて、打ち解けようとすればちゃんと微笑みを返してくれるからだ。


光は家に帰れば葵が迎えてくれることに感激し、一緒にご飯を食べられることに感動し、同じ掛衣を掛けて眠れることに幸せを噛み締めて過ごしていた。


今着ている直衣のうしだって、そうだ。



***



そう、それは葵と結婚してすぐのこと。

舅となった左大臣は、光をそれは大切に扱ってくれる。


自慢の婿君むこぎみとして下にも置かぬ扱いで、衣でも靴でも、光が身につけるもの全てを用意してくれる。

この時代、迎えた婿君を養い、立派に飾り立てるのは妻の実家の特権だった。

だが流石に、天下の左大臣家は格が違う。


全てが凄まじく豪華なのである。


普通に生きていればまず目にしないレベルの、特注品特級品ばかりが「どうぞ、ちょっとした日常使いに……」と差し出される。


光は思った。


ーーーこれを当たり前と思っていたら、破滅への道フラグなんじゃないか?と。


抗議は、した。


「私には勿体無いものばかりです。もっと簡素なものでいいですから」

「何をおっしゃる。どれもあなたにこそ相応しいものです。光る君さま」


左大臣は善良な人物なのである。


光を葵の婿にと言い出したのは桐壺帝だ。

その頼みを聞いて、光の後見を引き受け、そして引き受けたからにはできることは何でもしようと心を砕く人だった。


光は夢を思い出す。


夢の光がなかなか葵の元へ通わなくても、まだお若いから落ち着かないのだろうと理解を示し、娘との仲が上手くいっていないと聞けばなんとかしてやれないかと心を痛める、そんな人なのだ。


ーーーうん、夢の自分。


光は改めて、破滅への道フラグの回避を誓った。


豪華な贈り物をきっぱり断るのはその第一歩だった。


困ったのは左大臣だ。

光に、なんとか受け取ってもらえないかと考える。


婿君に尽くすのは、妻の実家の特権。そう、妻の・・


そこまで考えて、左大臣は、はっとあることをひらめいた。



そして、次の日。

いつものように、左大臣が光のところへ着物を持ってきた。


光は心を鬼にして、断り文句を考える。

「左大臣どの、何度も言うようですが、やはり私には………うあわ、すごい綺麗」


思っていたのと違う言葉が出た。


以前のような派手派手しさはなく、しかし、控えめながら凝った織物の模様が美しい。


きっぱりと断るのを一瞬忘れて、光は目を見張った。

そんな光に、左大臣が言う。

威厳たっぷりの口元と目を、柔らかく緩めて。


「娘が縫ったものです」


「えっ!」


途端にそわそわし出す光に、左大臣が微笑んだ。


「これなら、受け取ってくださいますか?」

「………う……うあ………、そりゃあ……よ、喜んで………」


「ああ、よかった。よければ、お召し替えを。さあ、葵」


「はい。……光さま」


「ええっ!?」


光はされるがままだ。

無駄のない手つきで、葵が光の着替えを手伝ってくれる。


「え?え、え?」


光は動揺した。

それもそのはずだ。葵が同じ夢を見ていることを、知らないのだから。


「………あなたが、作って下さったのですって。とても……」


言葉が出ない。

光は自分を包み込む、妻の手縫いの衣と、その布越しに触れる手から、目が離せなかった。


返ってきた葵の声は、優しく光の耳に響いた。


「…………妻の、勤めですもの」


それだけで光はまた、ぶわわわっと全身が熱くなるのだった。


葵が不意に顔を上げて、そんな光をじっと見た。

瞳と瞳を合わせて。

そして、ふわりと嬉しそうに微笑んだ。


「〜〜〜〜っ!!」


ーーーこんなんじゃ、私は毎日葵に恋に落ちてしまう。


そう思って、途方にくれて。

光は赤くなった顔を逸らした。



***



それからはいつも、葵の仕立ててくれた衣を着ている。


恋に落ちたその相手が自分の妻になってくれたという状況にのぼせ上がって、いつ何時も頭の中の全てを「葵」という文字が占めているのだ。


いつもぽーっとしているせいで、光の持っていた、“とても人間の子とは思えない、きっとこの子は神様が間違って人間にしてしまったんだーーー”というオーラはどこかへ消えていた。


兄である東宮とうぐうが、久しぶりに見た弟のそんな様子を目の当たりにして大層驚き、葵がかつて自分が歌を送った相手だったことも忘れて「自分がしっかりして、この弟をなんとかしてやらなければ……」と決意したことは言うまでもない。


こうして光は浮かれるあまり、葵の方は別に恋に落ちているわけでもなんでもなく、ただ光を闇堕やみおちさせないぞという使命感に突き動かされていると言うことに全く気付かないまま、ひとり新婚生活を謳歌おうかしていた。


家族。

妻。


ああ、昨日も手を繋いで眠れたなあ、今日も繋げるかなあと、光はぽーっとした顔のまま、袖で頬を隠してまたため息を吐く。


今日の会議が終わり、主上の御前を辞したところなので、言動の自由フリーダムさに拍車がかかっている。


こんな幸せで、大丈夫なんだろうか?

もしかしてこう言う時に、鬼とかって来るんじゃ?


光の思考があらぬ方向へ飛んでいく。


羅生門らしょうもんの鬼の手を、渡辺綱わたなべのつなは切り落としたんだったっけ?

紫宸殿ししんでんに現れて威嚇してきた鬼を、貞信公ていしんこうは威厳で追い返したと言うけれど、さて、果たして自分はそんなことができるだろうか?


そんなことを考えていたから、いきなりドンっと背中を叩かれた時、ひどく情けない声が出てしまった。


「うわあ!?」


びくっとなって振り向いた光の目に、一人の公達の姿が飛び込んできた。


鬼じゃなかった、よかった!と、光は心底ほっとする。そして、わざと肩を竦めて目の前に立つ男に言う。


「なーんだ、頭中将とうのちゅうじょう、君か」


「なーんだ、はないだろう、光!君の親友で、それに義理の兄に向かって?」


葵の兄、左大臣家の長男である頭中将が笑って立っていた。


「おい、光。都中で君の噂が立ってるぜ。新婚の妻にそりゃあもうぞっこんだってな!」


そう言って、頭中将が楽しげに笑う。


光の好敵手ライバルであり、そして一番の親友を自負するこの少年は葵の同腹の兄である。

左大臣の北の方、桐壺帝の妹である大宮の方の子で、葵と同じく光には従兄弟いとこにあたる。


よく知られた頭中将という呼び名は、蔵人頭くろうどのとう近衛中将このえちゅうじょうを兼ねた役職の名前だ。


帝の秘書たる蔵人くろうどの長官であり、宮中の護衛を司る近衛府このえふの次官ーーー若くしてその位にいるのはさすが、天下の左大臣家の御曹司である。


ちなみに、その左大臣家に婿入りした光も、宰相中将さいしょうのちゅうじょうの位を与えられていた。

時代は平安、貴族は家柄血筋、そして後見人が全てだった。本人の素質はもちろんとして、家柄の無敵チート能力はやはりすごい。


光と並んだ頭中将の姿を認めて、女房たちが御簾の中できゃっきゃっと騒いでいる。

頭中将は慣れた様子でそんな女房たちに片手を上げ、笑顔を振り撒いていた。


葵に似た上品な顔立ちだが、いつも浮かべているどこかナルシストみのある蠱惑的こわくてきな笑顔のせいで、葵のような近寄りがたい高貴な雰囲気はどこかへ消え、親しみだけが残っていた。


光とはまた違う魅力で、頭中将は宮中の人気者なのだった。


「見た、あなた。今、私に微笑んでくださったわ」

「あら、ちゃんと見ていなかったのね。今のは私に微笑んだのよ」

「まあ!よく言う。あなたそんなだと、遊ばれて捨てられてしまうわよ」

「それでもいいわ、あの方なら。頭中将さまなら。むしろ、遊ばれてみたいくらい」


そう、ちょうどこんな風に。


「もう、あなたたち、何を言ってるの。遊び人の頭中将さまより、真面目な光る君さまの方が素敵じゃない」

「ええーっ。光る君さまは、だって」


年嵩としかさの女房の言葉に、若い女房たちは声を揃えた。


「「絶対に無理よ。新婚の奥方さまに、ぞっこんなのですもの」」


声高に噂する女房たちに、背中がむず痒くなって、光はんんっ、と咳払いをした。


「ほら、また言われてる。そんな落ち着いたことでいいのか、光。交野少将かたののしょうしょうに笑われるぞ」


そう言って、頭中将が揶揄ってくる。

光は眉を上げてみせた。

交野少将は、有名な平安の恋愛小説メロドラマの主人公だ。当然、多くの女君と恋仲になっている。


「交野少将ぉ〜?」


妹の婿に向かって言う台詞がそれなのか、どんな神経してんだと、光は頬を膨らませる。


だが不意に、夢ではこの頭中将が葵を顧みずに恋人との逢瀬に夢中になる光を眺めながら、「信頼して家を任せられる葵は結構、理想の妻だと思うのになあ」とぽそりと言っていたことを思い出した。


雨の降る日の宿直とのいの夜のことだ。


このお調子者の親友にそんなことを言わせる状況はいよいよアウト、そう考えれば、こうやって揶揄われているうちはむしろ、まだセーフだ。

そう思い直すことにした。


頭中将の方も、そんな光に冗談だよ、と笑っていた。


「そんなに妹に夢中になってくれて嬉しいよ。まあ、俺の妹は可愛いからな。それにこれからは、俺らは義兄弟じゃないか?仲良くやろうぜ、義弟よ!………もっとも、俺ならそんな噂が立ったら恥ずかしくて内裏に出てこられないけどな」


そう言って戯ける頭中将に、光は吹き出した。

この明るさが、光は好きなのだった。


「え?何が恥ずかしいんだい?こんなのまだまだだよ。ぞっこんだってもっと噂を立てるつもりだから、君もそのつもりでいてくれよ。末永くよろしく、義兄さん」


そう戯け返した。


女房たちがまた、その会話を聞いて盛り上がっている。頭中将は嘆息した。


「全く、君が言うと何だって噂になるんだから。この俺を見て育った妹は理想が高いんだぞ。葵の前でも、君はちゃんとかっこよくできてるのか」


「ええ、そりゃもちろ………ん………」


力強く言いかけた言葉のその語尾が、消えていく。


覚えておいでだろうか、結婚してからの光を。


光の脳裏に、葵と向かい合う自分の姿が浮かぶ。

「最初の会話で噛んだ」「次の日寝坊した」「服を縫ってもらったのに胸がいっぱいになってお礼も言えてない」ーーー等々。


あれ。

よく考えてみたら、ろくなことしていないのでは………?


光はサーッと青ざめた。

隣で頭中将が、くっくっと笑いを堪えている。


(え、…………え?)


光は考え込んだ。


冷静に考えて、今の自分は思いっきりダサい。

それならーーー逆に何で葵は優しいんだろう?と。


だが、ここで真相に近づかないのが光である。


………もしかして葵は、ダメな奴が好きなの………?

………ならいっか。

いや、駄目だ駄目だ。それにだって限度ってものがある。


「何とか挽回しないと………」


思わず声に出た光の言葉に、頭中将がにやっと笑った。


「やっぱりな、光。そんなことだろうと思った!君にいい知らせがあるよ。主上が今度、桜を愛でる管弦かんげんの宴をなさるそうだ。奏者に、君をご指名だよ」


「父上が?じゃあ練習しないと………いや、それのどこがいい知らせなんです」


「鈍いなあ。世に聞こえた御所の桜をみんな見たいだろう?それに、宴には、桜の花のほかにも美しい華があった方がいい。都中の姫君を集めてはどうかと、俺が奏上そうじょうしたところなんだ。葵も呼べばいいじゃないか」


「えっ!?そ、そんなことできるの?」


「できるんじゃないか?君は主上の第一の愛児、光源氏だろ。君が頼めば一発だよ」


「ええっ……あ………いやでも、駄目だ。だって葵は……兄上は良い方なんだ。兄上に、申し訳ない」


「なーに、心配するな。弘徽殿こきでん女御にょうごさまは、此度の宴にはご出席なさらないそうだ。それなら東宮殿下もきっとおいでにはならないから、葵と鉢合わせすることもないさ。………君が妹と結婚して以来、桐壺に全く寄りつかないから、主上は寂しがっておいでなんだよ」


「えーっ、そうかなあ。父上はなんて言うか……本当に偏愛のお方で……あ、いや、こんなこと言ったら不敬だし失言だったな。気にしないで、頭中将」


「?おう。な、いい話だろ。それに、光」


ひそひそと、頭中将が親友に耳打ちする。


「葵は楽の上手い人が好きだ」と。


「え………?そ、それならやる!楽の上手い人?ああよかった、光源氏に生まれて。何の楽器がいいだろう。龍笛りゅうてきか、琵琶びわ、いやそうこと……それとも和琴わごん?」


和琴わごん和琴わごんはやめとけ。君は和琴わごんだけは、まだまだこの俺に及ばないんだから」


「う、うるさいな。葵が和琴が好きなら、君くらいすぐに追い抜かしてやる!」


思いがけず葵の好きな人の理想像が知れて、光は大喜びだった。


挽回の絶好機チャンスだ!


そう思って、光は密かに拳を握りしめる。


桐壺帝の主催する宴に、寵妃である藤壺ふじつぼみやが彼に伴われて参加するだろうことを、光はころっと忘れていた。

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