第1話 桐壺帝の二の宮と、左大臣家の一の姫君

「………うう〜ん」


元服げんぷく前の普段着である、童直衣わらわのうしに着替えた光は、円座わろうだの上で唸っていた。

何か不味いものでも口に含んでしまったかのような、似合わない顰しかめっ面には理由がある。


夢から醒めてみて、光がまず辟易したのは、自分の見目の良さと寄せられる人気の高さだった。

どこに行って何をしようとも、キャーキャーと黄色い声が飛んでくる。


自分に興味がなさそうな人にそっと「ごめん、今日って私の人生の場面で言うとどのへんだったかな?」と聞きたかったのだが、誰も彼もが自分に夢中という混沌カオス状態なので朝から機会を逃し続けていたのである。


ふう、と物憂げにため息をつくと、それだけでまた周囲がキャーッと騒がしくなる。

(こ、こんの顔おおおお!)

我慢の限界が来て手で自分の顔をぎりぎりと引っ張っていると、後ろから呆れた声がかかった。


「何をなさってるんです、光の君さま」


この声は間違いなく、自分に夢中ではない。

光は飛び上がらんばかりに喜んで振り向いた。


大輔たいふ命婦みょうぶ!」


自分の口からすらすらと名前が出てきたことに驚くが、そこに立っていたのはたしかに乳母の娘、光とは幼馴染の大輔の命婦である。

後ろには同じく、気心の知れた乳兄弟ちきょうだいである惟光これみつが控えている。


長い人生を旅して来たような気分の光は、懐かしい顔を前にして涙が出そうだった。


「ああっ、惟光……大輔の命婦……!また会えるなんて嬉しいよ二人とも………!」

二人のドン引きした様子に構わず、光は泣き笑いで尋ねる。

「ねえ、ずっと聞きたかったんだ。今日って私の人生でいうとどの場面なんだったかな?」


大輔の命婦と惟光が、顔を見合わせる。

「………気が塞いでいるご様子とは聞いていましたが、まさかここまでだったとは」

惟光が青ざめながら言う。


童水干わらわすいかんを重そうに着た童顔の彼がそうすると、何やら本当に天変地異でも起きたかのようだ。

二人よりは大人っぽく見える大輔の命婦も、丸い瞳に同情の色を浮かべていた。


扇で口元を隠しながら、命婦がため息をつく。

「おかわいそうに、光の君。しっかりなすって、今日は左大臣家の一の姫君ーーー葵の上様との祝言の前日よ」

「えっ、葵の上との祝言の前日!」


光は飛び上がった。


そうか、まだそこなんだ。よかった。よかった!

そうだ、思えば葵の上があの夢の男と祝言を上げた最初の人だったんだ。


夢の中の男は葵の上のことを気位が高くて冷たい人だと思っていたようだけど、最後に心を打ち解けずに来てしまってごめんなさいと、自分が苦しい中でも男のことばかり考えるような優しい人だったじゃないか。


ーーーだいたい、自分が打ち解けないからってよそに行ってばかりのあいつが悪いんだ。その度に葵の上は悲しんで、あの男が好きだからこそ余計に冷たくするっていう悪循環に陥ってたのに。


よし、私はそんなことはしないぞ。


私の妻になってくれる葵の上をうんと大切にして、浮気なんて絶対にしない。葵の上と二人であたたかい家庭を築くんだ!


怒ったりにこにこしたりと、一人で百面相ひゃくめんそうしている光を、惟光と大輔の命婦は引き攣った笑みを浮かべて見ていた。

「………だいぶ、具合がお悪いよう………我らは退出いたしますので、今日はどうかゆっくりとお休みになってください」

そう言って、二人がゆっくりと下がろうとする。


乳母子たちの心配をよそに、光はぼーっと自分の人生のことをーーー夢で見た男の人生ではなく、光自身の人生のことを考えていた。


(そうだ、私はずっと家族が欲しかったんだ。お母様が亡くなって、父上は一人で悲しむばかりになってしまって。藤壺の義母上にあんなに惹かれたのも、家族になってくれる人が欲しかったからだ………)

光はそう思って、まだ小さな自分の手を見つめた。


よし、明日祝言しゅうげんをあげれば、葵の上は私の妻。

婚儀でどれだけ冷たくされようともーーー目を合わせてくれなかったり、口も聞いてくれなかったり、あとはツンってされたりーーーしても、私はめげないぞ。


全ては、平穏な人生のため。


全身全霊をかけて、葵の上を大事にする。そしてできれば………葵の上にも、私を好きになってほしい。


ーーーできるだろうか?いや、やるんだ!

ばちーん、と派手な音を立てて、光は気合いを入れるために自分の頬を叩いた。

ぎょっとした乳母子たちが慌てて戻ってくるが、光は気付かない。


大丈夫、きっとできる。

私は都で最も評判の貴公子だろう。

よし、頑張れ光!


そう呟いて、光は小さな拳を握りしめた。


大輔の命婦が薬師くすしを、惟光がそう陰陽師おんみょうじたちを呼びに青い顔で部屋を出て行ったのにも気付かず、光は一人、どうやったら葵の上と仲睦まじい夫婦になれるかと、必死に考えていた。


やがて屋敷が騒がしくなり、光は女房たちが急いで作ったとこに寝かされる。

呼ばれてきた薬師に脈を取られ、周りを取り囲んだ僧や陰陽師たちの仰々しい祈祷きとうが始まっても、光は一向に頓着せず、ぶつぶつと何かを呟きながら未来の妻と仲良くなるための作戦を練っていた。



***



ちょうどその頃。

左大臣邸では、一の姫君、葵の上が一人でぼんやりと視線を彷徨さまよわせていた。


姫様、一体どうなさいました、と声をかけられても、困ったように首を振るばかりである。

葵の上がこんな様子なのは珍しい。

将来は帝の妃となるべく育てられた葵の上は完璧な姫君で、生まれてこの方、何があっても取り乱すことなどなかった。

こんな様子になることなど初めてで、周囲はおろおろするばかりである。


葵の上はそんな女房たちをよそに、今朝見た夢のことを考えていた。

(さっきの夢は、一体なんだったのかしら……)

朝からずっと、そのことで頭がいっぱいなのである。


葵の上は、夢の中で一人の男の人生を見ていた。

しかもその男とは他でもない、明日、葵の上の夫となる人ーーー光る君らしい。


夢の中の光る君の人生は、寂しいものだった。

まず幼少期から寂しい。

噂に聞く光る君は恵まれた特別な人だと、繰り返し父から聞かされてきたのに、こんな過去があったのかと葵は心を痛めた。


夢の中の幼かった光の君は十二歳になり、やがて一人の姫君と結婚する。

東宮からもぜひ我が妻にと求婚されていた、左大臣の一人娘だった。


(……左大臣の一人娘?もしかして、わたくし?)

目をぱちくりする葵を置いて、夢が進んでいく。


その姫は、光の君に冷たかった。


しとやかであれと育てられた彼女は、胸の中に渦巻く感情をうまく言葉にできなかったからだ。

夫にどう接すればいいのかもわからなかった。

自分よりも年下で、もう皇族でもない臣下の一人で、なのに都中の姫君をとりこにしている夫に。


葵は、光の心が傷つき、だんだんと離れていくのを感じていた。

(だめ!もう一人のわたくし、それじゃだめよ。それじゃ、伝わらないわ。ああ、光る君さまの寂しさが、よけいに大きくなってしまう)

届かない自分の声を葵は歯痒く思った。


やがて光は、左大臣邸から足が遠のき、さまざまな女君のもとへ通うようになった。

葵はその姿を見て、胸が痛んだ。

夢の中とはいえ、自分を置いていく夫に腹が立ったからではない。光が誰と逢おうとも、寂しさが消えないのがわかったからだ。


夢の光は、本当にたまに、思い出したように葵に会いに来た。

(あっ、よかった。さあ、もう一人のわたくし、今日こそ光さまに優しくするのよ!)

優しくして、そしてーーー彼が少しでも安らげる場所を作ってあげられたらいい。


そう思ったのに、夢の中の葵の上はまたも光に冷たくする。口も聞かない上に、病み上がりの夫を置いて、一人さっさと寝所に下がってしまう。

そんな葵を寂しげに見つめる光を見て、葵は思わず夢の中の葵に「お待ちなさい!」と声をかけた。


当然声が届くわけもなく、見慣れた左大臣邸を真っ直ぐ自分の部屋に進む葵の上を、葵は必死に追いかけた。

(ちょっとあなた、お待ちになって。それじゃ伝わらないって言ってるでしょう!?ああっ、もう!素直に寂しかったってお言いなさい、寂しかったんなら!)

自分の声が虚しく響く。


光はまたも左大臣邸から遠ざかってしまう。光の心はもはや、夢の自分に向くことは無くなってしまったのだと葵は思った。

(ああ、どうしよう。あの方はあんなにも寂しいのに。ああ、光さまが闇堕やみおちしてしまう)


果たして、事態はその通りになった。

結局、誰と過ごしても光の孤独は癒やされず、一人寂しいままに年老いていく光を、葵は見ていられなかった。


(……この方は、家族が欲しかったのではないのかしら。夢の中のわたくしは妻になったのに、その願いを一番最初に叶えてあげられるはずだったのに、意地を張って何もできなかった……)


夢の中の世界に、もう一人の葵はもういなかった。夫の恋人の一人である、六条御息所ろくじょうのみやすんどころの生き霊に殺されたからだ。

(でもそれも、当たり前だわ。今のわたくしには、御息所さまのお気持ちもわかる)

そう思えたのは、夢の中だからだろうか。葵は車争くるまあらそいの時を思い出し、ため息をついた。


葵が今見ている光の君は、もう五十歳を過ぎていた。

頭には白いものが増え、顔には深い皺が刻まれている。


光がふいに振り向いて、葵ははっとした。

底が見えないほどの暗い闇が、その目の中に見えたからだ。その目の中には、もう誰の面影もない。桐壺きりつぼ更衣こうい藤壺ふじつぼみやも、小さな若紫わかむらさきも、本当に誰も。


光は、真っ暗な闇の中で一人になってしまったのだ。


(ああ………)

ごめんなさい、と葵は思った。

うまくできなくて、ごめんなさい。あなたを一人にしてごめんなさい。

初めて会った時、あなたは夢の中のわたくしに、優しく笑いかけてくださったのに…。


ごめんなさい。

そう呟く葵の瞳から、涙が溢れた。


ーーーもし、もう一度やり直せるのなら……。


今度こそ、きっとあなたを助けます。わたくしが、この葵が、絶対にあなたを一人にはしませんわ。

そう口に出した時、何かを掴もうともがいていた夢の中の光の手が、ふっと緩んだように見えた。


ふわふわと、まるで蝶にでもなったかのように葵の体が浮き上がる。すうっと夢の中の世界から色が消え、その景色がゆっくりと遠ざかっていく。


そして目を覚ますと、そこはいつもの左大臣邸の自分の部屋だったのである。

「???」

葵は混乱した。

しかし、あれはただの夢ではないに違いないと確信している。


ということはーーーあれはわたくしの、というか、わたくしの夫となる光さまの未来?

そう気付いて、葵は慌てて身を起こした。


もしそうなら、なんとしてでも光る君さまを助けなければ。ええと、今はいつだったかしら。

あの夢の中でいうと、どの場面?


頭をひねっていると、タイミングよく乳母が声をかけてくれた。

「失礼致します、姫さま。お疲れのご様子と聞きましたが、お加減はいかがです?明日はいよいよ祝言なのですから、今日はゆっくりお過ごしくださいませね」

「明日…?明日が祝言なの?」

「ええ、ええ、そうですわ。光る君さまも、姫さまとの祝言をそれは楽しみになさっていますわ」

年老いた乳母が、そう言って微笑みかけてくれる。

「…………。」

葵は苦笑した。

そんなわけがないとわかっているからである。


だが、そんなことは言っていられない。

光る君はきっと祝言を楽しみになどしていないけれど、むしろもうこれで初恋の藤壺の宮には会えなくなるのだと絶望しているに違いないけれど、それでも夢の中ではもう一人の葵に優しい言葉をかけてくれたのだ。


ーーー今度は、わたくしの番。

これから祝言を上げるということは、夢の中で思ったことを、やり直せるのだわ。


そんな密かな葵の決意をよそに、乳母が話し続ける。

「姫様は本当に、なんてお美しいんでしょう。きっと数多いるお妃様方も、姫様の前では色褪せて見えますわね。あの光る君さまも夢中になられます」

葵ははたと自分を振り返って、俯いた。


夢の中の光が愛した人は皆、明るく、優しく、そして強い人だった。光に向ける笑顔が愛らしい人だった。


ーーーそれに引き換え。

自分は、と思うと漏れるのは諦めにも似た苦い笑みだけだった。

たしかに美しいかもしれないが、つんと澄ましたこの顔は気品高いとは言えど、愛らしいとはとても言えないのでは。


生まれた時からいずれは中宮ちゅうぐうにと育てられ、その期待に答えようと必死に身につけた教養には自信があるけれど、ただそれだけ。

光る君さまは歌がお好きでお上手なのにわたくしたちは一度も送り合わなかったから、わたくしは「歌詠うたよまぬ姫君ひめぎみ」なんて世間から噂される始末。


………そういえば、夢ではなくてこの現実の世界で、光さまに歌を詠んだことなんて、仮にも許嫁いいなずけだったのに一度でもあったかしら?

しかもわたくしの方が、あの方よりも四つも年上。


わたくしが今、十六だから……光さまはまだ、十二歳になったばかりだわ。


うむむと考え込んでしまった葵に、乳母が優しく言う。

「姫様、姫様。笑ってくださいませ」

「……笑う?」

「ええ。姫様は素敵な方です。私は姫様の笑った顔が好きですわ」

白髪の乳母が、皺の刻まれた顔で葵に微笑んでいた。


葵を可愛がり、育ててくれた乳母。

その言葉に答えたくて、葵はおずおずと微笑んでみる。


途端に白い頬にほんのり赤みがさす。

ツンと澄ました顔から一転して、ふわりと一輪の花が咲いたような愛らしい微笑みだった。

まるで、初夏に開く葵の花のように。


乳母がうん、うんとにこにこ微笑み返してくれる。

葵は心の中でぽんと手を打った。


そうか、笑えばいいのか。


夢の中ではわたくし、光さまに微笑みかけたことなんてなかったのではないかしら。まして、優しい言葉をかけたことなど、一度も。

「それだわ!ありがとう。わたくし、光さまに喜んでもらえるように頑張るわ」

にっこりしてお礼を言えば、乳母も嬉しそうに微笑んだ。そして葵の手を優しく包み込む。

「ええ、ええ。姫様はきっと、お幸せになられますわ」


葵の笑顔が引き攣る。


いや、頑張らないと、あなたの主人の未来は結構、厳しいのです。


そう思ったが、葵は笑顔が陰らぬように気をつけながら、目を逸らして「ええ、ありがとう」とだけ返した。



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