光る君と葵の上は、同じ夢を見る
@moyumoyu47
プロローグ
月のない夜である。
人々はとっくに寝静まり、見えるのは仄かな花明かりだけ。闇の中をその香りが漂う。
ある立派な寝殿造の邸宅の、その庭に造られた池に、不意にさざ波が立った。
澄んだ水が張るそこには、
赤く、妖しく輝く満月が、揺れている。
きらきらと、水面が輝いた。
水の中を、一羽の蝶が月に向かって飛んでいく。金の
ざあっと風が吹いて、池のほとりに咲く花の無数の花びらを散らした。
そして風が止んだ時にはもう、池の月は幻のように消えていた。
しん、と静まり返った春の闇夜が戻ってくる。
それでも水はゆらゆらと波打ったままだった。
風が止んでからも、ずっと。
ーーーまるでこれから起こる不思議な出来事を、暗示するかのように。
***
時は平安。
美しい国風文化が花開き、貴族たちが隆盛を極めた栄華の時代。
京の都は二条の屋敷で、その主である光は夢を見ていた。
遥か遠い未来で、華やかな物語の主人公になった男の夢を。
夢の中で本の表紙が開かれ、ぱらぱらとページがめくられていく。一人の男の姿が浮かび上がり、春に花々が色付くかのように周囲には風景が映っていく。
この平安京とそっくりの風景が。
ーーーあれは、父上のおられる内裏だ。
父上の住まう
夢の男は、帝の子、ニの若宮としてそこにいた。
男は、ただの若宮ではなかった。
生まれ落ちたその時から人間離れした美しさを持ち、ありとあらゆる才能に恵まれている。
その姿はまるで光り輝くようだと、都中の人々が褒めそやす声が聞こえる。
男は両親に愛されながらも、幼くして母を亡くし、臣下の位に下げられることになった。
「源氏」と、皇族ならないはずの姓を父から授けられて。
後ろ盾が何もない男に、父君である帝はある姫との婚姻を決めた。
それは左大臣家の一の姫。宮中で権力を誇る左大臣と、その正妻である帝の妹宮との間に生まれた、都で最も身分の高い姫だった。
名を、
左大臣に後ろ盾になってもらうための、愛のない政略結婚だ。
まだ幼い二人を、光は雛人形のようだなと思いながら見ていた。
結婚から数年が過ぎても、男の光り輝くような美しさ、凛々しさは健在だった。
男は光の夢の中で、多くの女君と浮き名を流していた。
夢で男の人生が進んでいく。
幾人もの女君を見つめる男の瞳には、しかし、いつもどこか曇っていた。瞳の奥に、目の前の女君とは違う誰かの面影が見える。
そこにはある更衣の顔が、そしてその更衣にそっくりの美しいある妃の顔がいつも覗いていた。
誰といようとも、何をしようとも心満たされない男の様子に、光は次第に呆れてしまった。
(ああ、葵の上のところへ全く行かなくなってしまった。ただひとり、婚礼を挙げた妻だったのに)
光は男を見ながらため息をつく。
葵の上は、東宮に入内して、ゆくゆくは中宮にーーーそう、大切に大切に育てられた姫だった。
その東宮との縁談を捨てて、夢の男と結ばれたのだ。
やがて、夢の雲行きが怪しくなって来た。
男が必死で口説き落とした、先の東宮の后、六条御息所。その生き霊が、男の周りに現れるようになったのだ。
恋人だった夕顔が男の腕の中で息絶え、出産を控えた妻、葵の上にも、生き霊が襲いかかる。
(だめだ!誰かーーー助けてくれ!)
叫ぶ光の声は、虚しく空に吸い込まれていく。
葵の上は生まれたばかりの男の子を残し、帰らぬ人となってしまう。
男の周りで、関わった女性が次々と不幸になってゆく。
光はゾッとした。
すぐそこに見えている男の肩を掴もうと、必死で手を伸ばす。
(お前、寂しいからって、それじゃだめだ。自分を変えないと、この先もっとひどいことになるぞ)
しかし、手は肩をすり抜けた。
ーーーああ、そうか。これは私の夢なんだ…。夢で誰かの人生を見ているのか。私は干渉できないんだな。
そう悟って、光は肩を落とした。
やがて、男は初恋の女性である父の後妻、
若紫と名をつけて。
若紫は確かに、藤壺の宮ーーー男の瞳の中にいつもいた女君に、よく似ていた。
大きくなれば、そっくりの姿になるだろう。手元に置いて、自分の理想の女君に育てよう。
男がそう言って、若紫を膝に乗せ、頭を撫でる。
光は顔を顰め、不貞腐れてそれを見ていた。
二条の屋敷で、二人は兄妹のように暮らしている。
若紫といる時、ただその時だけは、男の瞳の奥に覗く藤壺の宮の面影が消えていた。
だが、それも一時だけだ。
やがて義理の母親でもある藤壺の宮への想いが抑えられなくなり、忍んで会いに行った男は、彼女をーーー。
(うわあああああああ)
光はもう見ていられなくなって、男に背を向けて座り込んだ。
(お前、仮にもあんな可愛がってくれた実のお父さんの奥さんじゃないか。これから一体どうするんだ。初恋の人をあんなに苦しませて…。それに若紫はまだお前より、十近くも年下じゃないか!)
叫ぶ光の声は相変わらず、男には聞こえない。
やがて男の人生が進み、都から流されることになった男が、明石の君という姫と結ばれることになる。
美しい物語だが、はたから見ている光はとてもそれどころではない。
(またかよ!!お前、都にも色々残して来てるのにこの子にまで!)
やがて都に戻ることができた男は、自分の屋敷に明石の君と娘を引き取る。
そして成長した若紫ーーー紫の上と暮らし始めた男を、光はようやく落ち着くかと見守っていた。
しかし、男の行動の一つ一つが二人を悩ませるような生活に、夢の中ながらうんざりすることになった。
明石の君のところへ行けば、紫の上が悲しむ。紫の上のところへ行けば、明石の君が悲しむ。明石の君のところへ行けば……。
光は顔を歪めた。
こんな生活の、どこがいいのだろう。
男は二人の妻のどちらと会う時にも、変わらない笑顔を浮かべていた。瞳の奥に暗い影を残したまま。
(……私だったら、こんな生活はごめんだ。愛する人はただ一人いればいい。私はその人と、平凡で、でも幸せな家庭を築きたいーーー)
男の人生を見て来た光は、心から思った。
やがて男はまだ幼い女三の宮を娶り、かつて亡くした恋人、夕顔の娘の玉鬘に迫ったり、実の兄、朱雀帝の恋人で、内侍である朧月夜と会い始めたりする。
悲しむ紫の上と明石の君。
(お前ーーーっ!!)
いい加減にしろ、と光が思わず振り下ろした拳が、男の頭をすり抜けた。
ああそうだった、と思いながらも、光は聞こえないとわかっている声を張り上げる。
(いい加減にしてくれ!お前は一体、何人不幸にすれば気が済むんだ!)
一息ついて、光は大声を上げた。
(葵の上をもう、忘れたのか!いなくなれば、お前はもう思い出すこともないのか!)
聞こえないはずなのに、不意に男が振り向いた。
光はぎょっとする。
光り輝かんばかりに美しかった男の顔はすっかりやつれ、老いて頭は白髪ばかりになっている。
目の奥には、黒々とした闇が広がっていた。
しかし、何より光がぞっとしたのはーーーそのくたびれた男が、自分とそっくりだったことだ。
男は光自身だった。
その手がゆっくりと、こちらへ伸びてくる。
長く伸びた爪もそのままの皺だらけの手が、光の首に触れ、そしてきつく締め上げてきてーーー。
***
「う、う、う、うわああああああっ!!」
光は飛び起きた。
はあ、はあと肩で息をする。
びっしょりと冷や汗をかいていた。
「どうなさいました、光る君さま」
女房たちがおろおろと行き交い、普段は静かな屋敷が騒然としていた。先程上げてしまった悲鳴は余程恐ろしい声だったのだろう。
光はまだ回らない頭で周囲を見回した。
見慣れた自分の二条の屋敷である。
元々は母の実家であり、今は私邸として光に与えられたものだ。
光は手で額に浮かんだ汗を拭った。
枕も体の上にかける衾も、汗でぐっしょりと濡れている。
どうやら自分は、夢を見ていたらしい。
それも、とても不思議な夢を。
恐ろしいのは、目が覚めた今でも隅々までよく覚えていて、とてもただの夢とは思えないところである。
夢の様々な場面を回想しながら、光は顔色をなくした。
ーーー私はこの先、あんな風に出会う女性たち皆を不幸にしながら生きるのか?
「じ、冗談だろ………」
光は青くなって、ぶんぶんと頭を振る。
絶対に嫌だ。
床から体を起こし、じっと考える。
いや、まだなんとかなるはずだ。
夢に出て来た数々の女君とも、私はまだ会っていないし、それに何よりーーー。
私はあの夢で言った通り、愛する人はただ一人いればいい。私はその人と、平凡で、でも幸せな、あたたかい家庭を築きたいんだ。
あたたかい家庭。
そう、例えば。
二人で手を取り合って、歳をとって。白髪で皺だらけになったお互いを労わりながら、穏やかに、楽しかった同じ思い出の話ができるような………そんな二人になれたら。
ーーーよし、こうしちゃいられない。
光は自分の思いを再確認して、がばっと起き上がった。
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