掌中の珠

桜坂詠恋

掌中の珠

< 1 >


 夕暮れの、高井戸駅から自宅へと向かう大神千里の足取りは重かった。

 大沢とつまらない事で喧嘩をし、腹を立てて家を出たのが昨日。つまり金曜の夜だ。

 出来ればもう一日外泊して、ほとぼりが冷めるのを待ちたかったのだが、実家にステイは一晩が限界だった。息子が可愛くて仕方がない「父親」のスキンシップに耐えかね、結局出て来てた。

 ファーストフード店で朝食を取り、1日中、電気街や本屋で暇を潰したが、流石にそれも飽きてしまった。

 確かに、まだ大沢と顔を突き合わせるのに抵抗はある。しかし、自分の部屋で休みたかった。

 喧嘩をするのは初めてじゃない。しかも、原因はいつもの如く、生活の上での些細な摩擦だ。認めたくはないが、自分に非があった。かもしれない。多少。

 取り敢えず、帰ったら服を脱ぎ捨てないようにして、床に物を放り出さないでおこう。今日の所は、『触らぬ神に祟りなし』と言う先人の教えに則り、黙ってイエスマンに徹する。これで大沢の機嫌も直るに違いない。

 そう考えると気持ちが軽くなり、急に空腹を覚えた千里は、交番の警官と軽く挨拶を交わし、足早に路地へと入った。

 


< 2 >


 家に帰った千里は、またも腹を立てていた。

 折角下手に出てやろうと言うのに、当の本人がいなかった。

 それどころか、真っ暗な家の中で大樹が泣いていたのである。

「大沢君がいなくなっちゃったよぅ!」

 千里の姿をみとめると、大樹はそう言って千里の腰にしがみ付き、わあわあと声を上げて泣いた。

 昼を食べてから遊びに出かけ、おやつに戻ってきたら、ドアに鍵が掛かっていたと言う。

 つまり午後3時だ。大樹は時計を持たずとも、午後3時きっかりに必ず一度家に戻ってくる。

 千里は腕時計を見た。

 午後6時半。この家では毎日6時に夕飯だ。この時間に夕食が出されていない事はないし、まして、大沢が家にいない事もない。大沢は、プログラムされたように、ほぼ毎日同じタイムスケジュールで動くのだ。

 千里はますます腹が立ってきた。

 大樹が空腹を訴え泣き喚くのも勘に触るが、大樹が自分を置いて行った大沢を恋しがって泣く。それが何より気に食わない。

 そう言う所で、千里は団塊の世代に多く見られる父親たちにそっくりだった。普段全く子供の世話をしないのに、いざと言う時に自分が子供の一番の存在でなければ気に入らないと言うやつである。

「やだやだ! 大沢君じゃなきゃやだ! いやだよおぅ!」

「勝手にしろ!」

 鼻水を拭いてやろうとして拒絶された千里は、そう言うとティッシュボックスを投げ出した。

 しんとした部屋の中で、大樹のすすり泣く声だけが響く。

 千里はソファにどっかりと腰を下すと、組んだ足先を落ち着きなく動かした。

 そろそろ俺が戻ると思って、わざと出かけたのだろうか。

 大樹を押し付け、拒絶され、苛立つ事を見越し、今頃ざまあみろと思っているのだろうか。

 こんな事なら帰って来るんじゃなかった。逆に、いつまでも帰って来ないと不安にさせてやれば良かったかもしれない。

「あの野郎。ふざけやがって」

 悪態をつき立ち上がると、千里はキッチンへ向かった。

 腹は立つが、大樹に何も食べさせない訳にはいかない。自分も腹が減っていた。

 料理は出来ないが、湯を沸かしてカップ麺に注ぐ事ぐらいは出来る。

 吊り棚から薬缶を出して水を入れ、火にかけようとした所で、コンロの上の鍋に気付いた。

 そっと蓋を取る。

「なんだこれ……」

 鍋の中には、すっかり冷えたジャガイモと人参、玉葱。そして牛肉が、火の通った状態で煮汁に浸かっていた。

「カレー……。いや、シチューでも作ってたのか?」

 突っ込んであった玉杓子で、恐る恐る煮汁を少し飲んでみる。ほのかな甘みと出汁の味がした。途中ではあるが、どうやら肉じゃがのようだ。

 千里は、玉杓子を握ったまま顔を歪めた。醤油の入っていない肉じゃががまずかったからではない。それは、醤油が入っておらずとも優しい旨味があった。

 だが、そんな肉じゃがに千里は不審感を募らせた。

 最初から出て行くつもりでいたのなら、料理などしないのではないか。

 勿論、大沢の性格を考えれば、自分がいない間の食事を用意した上で出る事も考えられる。しかし、そうだとすれば、こんな風に調理途中の状態で出掛けるとは思えない。きっちり器に盛り、ラップをして冷蔵庫にしまい、メモを残す。

 大体、大沢が大樹を置いて出掛ける筈などないではないか。

 何かあったのだろうか。

 千里は不安になり始めた。



< 3 >


 千里はずかずかとダイニングを横切ると、コーヒーテーブルに放り出していたケータイを取って電源を入れた。

 連絡が取れないよう、金曜に家を出てからずっと電源を切っていたのだ。

『珍しいな。お前から電話とは』

 数回のコールの後、必要以上に鼓膜を震わせる大きな声に、千里は反射的にケータイを耳から遠ざけた。

 繊細さの欠片もない野太い声。

 体も声同様、無駄にデカイこの男は、似ても似つかないが、大沢の実兄、剛だ。

 都内に幾つものチェーン店を展開している「オオサワドラッグ」の跡取りであり、薬剤師でもある。

 初めて大沢に紹介された時は、その風体から熊を連想した。

『元気か?』

「ああ」

『そうか。静と大樹も元気にしてるのか?』

 そのひと言で、大沢が実家へ行っているのではない事がはっきりした。

「ああ。今ちょっと出てるんだが、相変わらずアンタの弟は口煩いし、大樹は鬱陶しい」

 千里は何でもない風にそう言った。まだ何も分かっていない。いや、ひょっとしたら自分の思い過ごしで、何でもないかもしれないのだ。無駄に不安を煽る必要もあるまい。

 すると、ケータイの向うから豪快な笑い声が聞こえた。

「なんだよ」

『悪い、悪い。想像がついたんでな。でもまあ、家族ってのはそう言うもんだ』

「家族……」

 繰り返す千里に、剛は力強くそうだと言った。

『血の繋がりとか、そう言うものを超えて人は家族になれる。夫婦だって最初は他人だ。そうだろう? 時間をかけて、その存在が当たり前になっていく。そうやって家族になっていくんだ。 そうだな。便所にトイレットペーパーがある。それと同じくらい些細な事、存在だ。だが、それが切れていたらどうだ』

「どうって……」

 的を得てはいるが例えが悪い。千里は眉尻を下げた。

『まったく。いなくなって初めていろんな事に気付かされるよ。俺も静が家にいる頃は、お袋より煩い男だと疎ましく思ったもんだが、いなくなるとこれがなあ』

「ああ……。分かるよ」

『おいおい。縁起でもない事言うなよ』

 剛の言葉に、千里はぎくりとした。電話の意図を悟られたのだろうか。

「どう言う意味だよ」

『そりゃあ、千里がウチに電話して来た上に殊勝な事を言う。こいつはまたゲリラ豪雨だと思うってもんだ』

 だろ? そう言って、剛は笑った。冗談だったようだ。

 千里は聞こえぬように小さく息をついて言った。

「よせよ。俺だってそんな日くらい──」

『あったか?』

「……今日が初日だ。悪かったな」

 千里のぶすっとした顔が目に浮かんだのだろう。剛はまた豪快に笑った。

『まあ、また揃って顔を出しに来いよ』

「ああ、そうする。じゃあまたな」

 焦っているように思われたくなくて、わざと長めに間を取ってフックボタンを押した。その間、なぜか息を詰めていた。

「クソ。どこ行ったんだ……」

 ケータイを放り無げ、ソファに体を投げ出す。その途端、全身の毛が逆立った。

 遠くで救急車の音が聞こえる。

 まさかと思いながらも、泥のように不安が纏わり付いた。

 ふと見ると、大樹が大沢のエプロンを抱いて床で丸くなっていた。泣き疲れて眠ったようだ。乾いた涙が、丸い頬に、鼻にと、幾つもの白い筋を描いている。

 千里の胸が、ちくりと痛んだ。

 大樹も不安なのだ。ただ、泣いて喚くしか知らないだけなのだ。分かっていた筈なのに、自分に余裕がないばかりに受け止められなかった。

「大樹……」

 柔らかな蜂蜜色の髪に手を伸ばす。

 盛大に泣いた所為で鼻が詰まっているのだろう。呼吸の度に、コココと言う音が聞こえる。

 何度か髪を鋤いたが、身動ぎするだけで目を覚ます気配はない。千里はそのままソファに移してやる事にした。

 体の下に両腕を差し入れ抱き上げる。同じ高校3年でありながら、心と同じく、幼児のままの小さな体は羽根のように軽い。

「怒鳴って悪かったな」

 聞こえていないようにと願いながら、千里は大沢のエプロンごと大樹をソファに寝かせた。

「風邪引く……よな」

 大樹の半ズボンの足を見て、毛布を取りに行こうと思った時だった。

 サイドボードの上の電話機が、チカチカと赤く点滅しているのが目に入った。留守電だ。

 どうしてこれに気付かなかったのだろう。

 確かに最近は固定電話を使う事がなくなり、その存在すら忘れていた。だが、自分はケータイの電源を切っていたのだ。その為大沢は連絡を取る事が出来ず、こっちに連絡を入れたのかもしれない。なぜそれに思い当たらなかったのか。

 千里は逸る気持ちを抑えながら再生ボタンを押した。

 電話機が、4件のメッセージがあるとアナウンスする。

 最初の1件目はセールスだった。舌打ちして先送りする。

 2件目。

『千里くぅ~ん。パパだよーぅ! 帰っちゃって寂しいよぉう。次はいつ……』

 飛ばした。

 3件目。

『おおい。ケータイ繋がんねえぞー? どうなってんだよ、千里よぉ』

 聞き覚えのある声。羽田空だ。

 指定暴力団の傘下に当たる組の、更に下に属した弱小一家の構成員。つまるところはヤクザなのだが、本人は意外に人が良く、専ら的屋の上がりで食っている。

 出会いは、千里が羽田の弟をボコボコにした事に起因した仇打ちだったのだが、ある共通点が2人を友人にしてしまった。

『明日空いてんだ。久しぶりにメシでもしねえか? バーベキューしようぜ。連絡してくれ。んじゃな』

 いつもなら、しょうがねえなと言いながらも、直ぐに返事をする誘いだ。しかし──。

「それどころじゃねえよ……」

 千里は小さく言うと、ガリガリと頭を掻いた。

『俺です……』

 留守電への期待が失せた4件目。聞こえて来たのは、紛れもなく大沢の声だった。

 録音された音声だと言うのに、思わず受話器を取ってしまう。

 どこだ! 何してる! 心の中で怒鳴りつけつつも、耳を澄ました。

『大神さん、すみませ──』

『おい! しっかりしろ! すぐに救急車が来──』

 プツリと音声が途切れた。

 押し当てた受話器からの、すべてのメッセージの再生を終了したと言うアナウンスを聞きながら、千里は、ただ茫然と立ち尽くしていた。

「う~ん……」

 寝返りを打つ大樹の声に驚き、受話器を叩き付ける。聞こえていた筈がないのに、そうしなければ大樹に知られる気がした。

 それほどまでに千里は混乱し、落ち着きをなくしていた。

 ソファの背から大樹を覗き込む。大樹は大沢のエプロンに何度か顔を擦り付けると、また規則的な寝息を立て始めた。

 一体なんだったんだ?

 何が起きている?

 大樹の寝顔を睨むように見つめながら、千里は一人、訳の分からない不安と対峙していた。

 そう。千里は今、独りだった──。

 警察に連絡するべきだろうか。高瀬に連絡するか? しかし何と言えばいい?

 普段の彼なら冷静に判断し、行動出来ただろう。だが、今の千里にはそれが出来なかった。

 火事が起きたら119番。知っているのに出てこない。それと同じだ。判断力が欠落している。

 その時、千里のケータイが鳴った。



< 4 >


「どこだ!」

 液晶を確認するする事もせず、飛びついて直ぐにそう言った。

『ハ? コンビニだけど……』

 千里は肩を落とした。羽田だった。

『やーっと電源入れたんだな。充電はきちんとしとけよ?』

 平和そのものの羽田の声。千里は苛立ちを覚えた。

「てめえ、紛らわしい事すんじゃねえ!」

『おい、何怒ってんだよ。つか……なんかあったのか?』

 自分と誰かを間違えた。それは待ってた相手だった。それを悟った羽田は、あったんだな? と言い換えた。

 千里は黙っている。羽田は根気よく待った。

 ややあって、千里は溜息をつくと、観念したように言った。

「大沢がいなくなった」

 千里は昨日の喧嘩から、留守電の内容までを一気に話した。一人で抱えるのが辛かった。

 これまで何か問題が起きると、一人で抱えているつもりで、その実、いつも大沢が半分──いや、それ以上を一緒に背負ってくれていた。今更だがそれに気付かされた。

『う~ん』

 ケータイの向うで羽田が唸った。

『万が一事故に遭ったにしても、どこで遭ったかが問題だよな。アテはないのか? よく行くところとか』

 言われて、千里は言葉に詰まった。思い当たらないのだ。

 今頃になって、自分が大沢の事を何も知らない事に唖然とする。

『あ……いや。一緒に住んでるからって、何でも知ってるヤツもいねえよな。うん。いねえ』

 羽田が気を使っている。千里はますます自分が情けなくなった。

「でも……、大沢は分かってた」

 千里は唇を噛んだ。何よりそれが悔しかった。

 大沢は、千里や大樹の性格、行動パターンを知り尽くしていた。言葉を交わさずとも全てを悟り、背中を向けていても、離れていてすら、千里や大樹の行動を読んでしまう。

 それは時に不愉快で、そして日々の暮らしを円滑に、快適にしていた。

 千里は、自分が家長であると言う自覚が少なからずあったのだが、その実、大沢の手の上で胡座をかいていたに過ぎないのだと言うことを思い知らされた気がした。

「自分が情けねえよ」

『千里……。そう──』

 自分を追い込むな。そんな羽田の声に弱々しい泣き声が重なり、千里はケータイを耳に押し当てたまま、体を捻るようにして背後を振り返った。

 泣きながら、大きな目で見上げてくる大樹と視線がぶつかる。

「うえぇ……」

「大丈夫だ。すぐ帰ってくる」

 一旦ケータイをソファに置き、両手を伸ばしてきた大樹を抱き上げる。すると、離れまいとするように、大樹は四肢を使って、しっかりと千里にしがみついた。

 それは不思議な感覚だった。

 不安がる大樹を落ち着かせるべく抱いたつもりが、大樹を抱く事で、次第に自分が落ち着きを取り戻している。

 千里は再びケータイを取った。

「悪い。大樹が起きた」

『大樹、泣いてんのか』

「ああ。大沢がいないんで、ぐずってんだ。これじゃ、探しに行こうにも……」

『よし。今からそっちに行く。お前は出歩くな。ひょっとしたら連絡が入るかもしれねえ』

「しかし……」

『こっちで人を使って情報を集める。人海戦術と行こうぜ』

 千里は返事が出来なかった。

 羽田の申し出は実に有難いものだが、自分の為に、顔も知らない多数の人間の手を煩わせるのは、流石の千里も気が引ける。大事にしたくないと言う気持ちもあった。この後に及んで、くだらないプライドが邪魔をしていた。

『千里』

 返事を迷っている千里に、羽田は力強く言った。

『任せとけ。ヤクザの情報網は、サツに引けをとらねえ。つか、つまんねえ段階を踏まねえ分、機動力は格段に上だぜ』

 羽田の言う事は最もだ。まともに警察に相談した所で、現時点ではそうそう動いてはくれないだろう。

 本来、都民の安全を守る機関でありながら、警察は事が起こらねば動かない。

 まして、自分一人の力などたかが知れている。

 どうする──。

 その時、ぴったりと身を寄せる大樹と目が合った。

「そう……だな」

 曖昧ではあるが、千里は肯定する事で返事に代えた。

 迷っている場合では、意地を張っている場合ではない、そんな一刻を争う事態ではないとも言い切れないのだ。

『大沢の写真を送ってくれ。舎弟に一斉送信して、目撃情報がないか調べさせる』

「分かった。直ぐに送る」

『おう、頼む。じゃ……』

「羽田」

 通話の終了を悟り、千里は慌てて声をかけた。

『なんだ?』

 聞き返され、一瞬口篭る。

 しかし、1つ唾を飲み込むと、ためらいがちに口を開いた。

「その……。わ──」

『悪いとか』

「!」

『──すまねえとか言うなよな』

 千里は驚いていた。今まさに口にしようとした言葉を、義理や男気を重んじる世界に身を置くはずの羽田が言うなと言う。

 手を煩わせて悪い──。

 心からの、そして自分にとって精一杯の謝辞。それを否定され、千里はこの上なく戸惑った。こんな時、他に言うべき言葉を知らない。

 必死で言葉を探す千里に、羽田は言った。

『ダチだろ?』

「ああ……。けど……」

『お前さ、ムチャクチャ頭いいのに、わりとモノ知らねえんだな』

 馬鹿にしやがって。普段ならそう思って腹を立てていただろう。だが、千里は羽田に呆れられた気がして何も言えなかった。

 しかし、羽田はそんな千里に構わず、『こう言う時はよ』と前置くと言った。

『サンキュ。っつーんだぜ?』

 簡単だろ。羽田は笑った。

『ああ。それと、結構ガキは敏感だからよ。あんまし悲壮な顔すんな。ますますぐずるぞ。そんじゃ、あとでな』

 既に走り出していたのだろう。羽田は息を弾ませながら捲くし立てると、一方的に通話を切った。

「大神さん……。どっか痛い?」

 不意に大樹がそんな事を言って、小さな手のひらで千里の頬を挟んだ。

 大きな目が、不安気に千里を見ている。

 痛い──。俺はそんな顔をしていたのだろうか。


 ──ガキは敏感だからよ。


 今しがた、羽田が口にした言葉が頭を過ぎる。

 千里は、大樹の頭をくしゃりと撫でた。

「いや、なんでもない。大丈夫だ。わ──」

 言いかけて口を閉ざす。

 そして、ケータイを握り締めると、ぎこちなく微笑んで言った。

「サンキュ……」

「うん!」

 大樹が首にしがみついてきた。

 今日初めて見る笑顔だった。


 ああ。簡単……だったんだな。


 そんな事を思いながら、千里は大樹を抱いたまま、ソファの背に体を預けた。



< 5 >


 事態が急変したのは、羽田が到着して間もなくだった。

 大沢らしき男が救急車で運ばれるのを見たと言う目撃情報が、羽田の舎弟を通して齎されたのだ。

 悪い予感が的中し、当てもなく家を飛び出そうとした千里を、羽田は玄関で羽交い絞めにしていた。

「闇雲に動いたってしかたないだろ! どこに運ばれたかも分かんねえんだ!」

「じゃあどうしろって言うんだ!」

 羽田の腕を振り切ると、千里は掴みかかった。

 シャツの胸をぐいと引き、羽田を睨みつける。

「てめえは……」

 唸るような低い声。

 その目からは、いっぱしのヤクザですら背筋が寒くなるような狂気が感じられる。

「てめえはこの俺に、ここで犬みてえに、じっと座ってろってのか!」

「それは困ります」

「どっちだよ!」

 怒鳴る千里に、羽田はかぶりを振った。その目が、俺じゃないと言っている。

 千里は弾かれたように背後を振り返った。

「お……」

 千里は目を見開き、茫然と立ち尽くした。

 玄関のたたきに、眉間に皺を寄せ、買い物袋を下げた大沢が立っていた。

「大神さんは、一度座ると根が生えますからね。さ、お二人とも、リビングに移動して下さい。玄関に居座られては非常に迷惑です」

 大沢は涼しい顔で靴を脱ぎ、二人の脇をすり抜けようとして足を止めた。

 穴が開きそうなほど見つめられ、気味が悪そうにしている。

「……何です?」

「何です……だと?」

 千里は、ふつふつと腸が煮え繰り返るのを感じた。

 人が今の今までどんな気持ちでいたと思っているんだ。それなのに、平然と買い物袋をぶら下げて、涼しい顔で何ですだと?

 それは直ぐに爆発した。

「お、お前こそ何だ! 今まで、どっ、どこで何してた!」

 こめかみが波打ち、怒りのあまり舌がもつれる。

 大沢はきょとんとしたが、買い物袋を持ち上げると、事もなげに言った。

「醤油が切れたんで、買いに」

「醤油?」

「はい。ただ……少々ツイてなかったんです」

 千里と羽田は顔を見合わせた。

「どう言うこった?」

 羽田が聞く。

 大沢は答えた。

「そもそもの原因は肉じゃがです」

「そいつは穏やかじゃねえな」

「茶化すな」

 千里に睨まれ、羽田は肩を窄める。

「それで、醤油が切れてるのに気付いて買いに出たんだな?」

 不機嫌そうに、しかし先を促す千里に頷くと、大沢は続けた。

「ええ。それでいつもの店に行ったんですけど、運悪く、今日は醤油が特売だったらしく、既に売り切れてまして。仕方なく別のスーパーまで足を伸ばしたら、路上でしつこい芸能プロダクションのスカウトに遭い、漸く目当ての醤油を手に入れて店を出た所で、今度はいきなり目の前の妊婦が産気づき、救急車で搬送する際に夫と間違われて連れて行かれ、出産に立ち会わされた挙句、お家騒動に巻き込まれ、ついには命の恩人だと祭り上げられて、名付け親を頼まれてしまったと。こう言う訳です」

「まるでドミノ倒しだな」

 羽田の的を得た表現に、大沢は、全くですと力なく頷いた。

「留守電にメッセージを入れてる途中で携帯のバッテリーは切れてしまうし、公衆電話からと思ったら、上京してきた妊婦の父親が怒鳴り込んで来て……」

「なんだそりゃ。孫の誕生の場にカチコミはねえだろ」

 羽田は眉尻を下げた。カチコミとは、ヤクザ用語で言うところの殴り込みの事だ。

「父親は堅気ですよ、羽田さん。けど、いわゆる出来ちゃったと言うやつのようですね。今日の今日まで、父親は相手の男を知らなかったそうなんです」

「っは~。イマドキだなー」

「そうですね。でも、結局、孫の力には勝てなかったようですよ?」

 そう言うと大沢は微笑み、それと同時に、千里はその場に座り込んだ。

 真相の馬鹿馬鹿しさに、緊張の糸は切れ、怒りは既に消し炭となっていた。

 全てが杞憂だった。

「なんだよ……お前が搬送された訳じゃないのか」

 手のひらで額を覆い、力なく呟く。

 そんな千里の前で、大沢は膝をついて言った。

「ええ。すみません。心配させてしまいましたね」

 千里はぷいっとそっぽを向いた。

「別に。してねえよ、そんなもん」

「じゃあ、寂しかったんですね?」

「誰が!」

 そう言って、千里が大沢のシャツの胸を掴んだ時だった。

「僕は寂しかったよぅ! うわああん!」

 リビングで寝ていた筈の大樹が、顔をくしゃくしゃにし、両手を突き出して飛んできた。

「大樹」

 反射的に大沢が立ち上がる。その胸に、大樹の小さな体が転がるように飛び込んでいった。

「うわあああん! あああん!」

 しゃくり上げ、時折むせながらも、大樹はしっかと大沢にしがみつき、唇を戦慄かせて泣いている。

 大沢はそんな大樹の背中を何度も擦り、羽田はそっと背中を向け、チクショウと言いながら洟を啜った。

「ごめんね。怖かったでしょう」

 何とか泣き止んだ大樹の洟をかんでやると、大沢は言った。

 こんな時、大樹は変な意地を張ったりしない。当然、うん。と正直に答えた。

 そして、更に正直者は言った。


「あのね、大神さんも怖かったんだよ」


 この一言に、大沢は「へえ……」と不敵な笑みを浮かべ、千里は慌て、羽田が吹いた。

「大樹は正直だな。ええ? 千里」

「バカが! そんなんじゃねえ!」

 大笑いする羽田の腹に拳を叩き込み、文字通り抱腹絶倒させると、千里はドカドカとリビングへと行ってしまった。

「ちがったのかな?」

 廊下の先を見詰め、大樹は小首を傾げている。

 羽田は床に尻をついたまま、ポンと大樹の頭に手を乗せて言った。

「違わねえよ。でも、千里はそれだけお前らが好きなんだ」

「僕もだいすき!」

 大樹が嬉しそうに笑った。

「立てますか?」

 そう言って差し出された大沢の手を借り、羽田は立ち上がった。

「そういやあ……」

 ふと気になって、羽田は大沢が赤ん坊に何と名付けたのか聞いてみた。

 大沢は、男でもドキリとするような笑みを浮かべると言った。

「千里です」

「へ?」

「いい名前でしょう? 強くて優しい男の子になりますよ。まあ、手が掛かって、意固地でクソ生意気にもなるでしょうけど、その時は、名付け親として遠慮なく制裁を……ああ、躾と言うんでしたっけ」

 大沢は楽しそうだ。

 羽田は、腋の下から冷たい汗が流れるのを感じた。

「そ……それだとグレちまうんじゃ……?」

「おや? 心外ですね。俺は子育てには自信があるんですよ? 大樹を御覧なさい。こんなに素直で愛らしく育ったじゃありませんか」

 大沢は、大樹を後ろから抱き上げると、羽田の眼前に突き出した。

 ぶらんと、ぬいぐるみのように宙に浮いた大樹が、「えへー」と笑っている。羽田もつられて、へらりと笑った。

「さあ、大樹」

 大沢は、大樹を抱き直すと言った。

「お留守番を頑張ったご褒美に、大樹には比内鶏のもも肉と、烏骨鶏の玉子でオムライスを作ってあげようね」

 比内鶏? 烏骨鶏? 羽田は目を剥いた。そんな高級品、羽田ですら口に──、いや、それどころか、耳にした程度で、お目に掛かった事もない。

 そんな食材を、あろう事か子供のオムライスに?

「ケチャップで何を描こうかな?」

 大沢が聞く。大樹は間髪入れずに答えた。

「チュパカブラー!」

「吸血UMAだね?」

「うん!」


 ──こんなに素直で愛らしく育ったじゃありませんか。


 それは認めよう。しかし。

 こいつらタメじゃなかったか?

 つまり、大樹が素直で愛らしいのは素養であって……。

 羽田は、大沢を名付け親に持ってしまった赤ん坊に、同情せずにはいられなかった。



 < 6 >


「すっかりご馳走になっちまったな。ホント、うまかったぜ。料理も、ケチャップの絵もな」

 千里と一緒に玄関を出た羽田は、そう言うと苦笑した。

「少しはデフォルメしろっつんだよな」

 千里も苦い顔をする。

「違えねえ」

 羽田は笑った。

 外は満点の星空とは行かなかったが、東京の空にしては申し分ないものだった。

 二人は暫し、黙って空を仰いだ。

「また食いに来いよ。大樹も喜ぶ」

 千里が空を仰いだまま言った。ぽつりと、大沢も、と付け足す。

 そんな千里の横顔に、羽田は「おう」と短く答えた。

「そういやあ……」

 暫くとりとめのない話をしていた羽田が、思い出したように言った。

「ウチの親父……組長が、俺らの事をこんな風に言った事があんだ」

「?」

「掌中の珠」

「ショウチュウのタマ?」

「ん? 寺の住職の息子だから、知ってると思ったけどな」

 意外そうに羽田が言うと、途端に千里の顔が歪んだ。

「あれは、住職の皮を被った罰当たりな変態だ」

「何だよそりゃあ」

 言いながらも羽田は傑作だとばかりに笑い、千里は、ウソじゃねえし。と半眼になった。

「まあいいや」

 羽田は一頻り笑うと言った。

「珠ってのは数珠の事だ。掌中──、つまり、手の中の数珠。大事な宝って意味なんだと。親父は、俺たちを宝だって言ってくれた訳だ」

「ふうん」

 然程興味なさ気な千里の返事。しかし、羽田は構わず言った。

「お前にとって、あいつらも掌中の珠。なんだろ?」

「…………」

「ま、大事にしな」

 じゃあな。そう言って立ち去ろうとした時だった。

「だったら、お前もそうだ」

 そんな千里の声に足を止める。驚いて振り返ったが、目が合うと直ぐ、千里はそっぽを向いた。

 不貞腐れたような顔。しかし、その表情にはいろんな意味があることを、もう羽田は知っている。

「今日はその……」

 千里は横を向いたままボソリと言った。

「サンキュ……」

 羽田は驚いた。と同時に嬉しくなった。満面の笑みを浮かべていた。

「いいってことよ!」

 羽田は、バンと千里の二の腕を叩いた。

「ってえな! このバカヤロー!」

 殊勝な顔が、一気に般若に変わる。

 羽田はさっと身を躱した。

「じゃあな!」

「覚えとけ、ウンコ蝿野郎!」

 千里の怒号を背中で聞きながら、羽田はガニ股で、得意の演歌、兄弟船を歌いながら大神邸を後にした。


── 了 ──

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