第13話 利心休まず
太閤は鼻さきでわらいました。
――茶器に私曲くらい何程のことがあろう。人を見くだす像を山門にたたせるくらい何程のことがある。庭にあさがおが舞いおりてまいりますという天子のごとき言い種も何程のことがあるや。赦しがたきはおのれの美の拵えをいいつのるために、たったそれだけのために、あさがおの花たちを皆ごろしにしたことだ。戦さであれば相手も刃むかい、こちらがころされるかもしれぬという危うさもある。しかし、あさがおを殺すのに如何ほどの身の危険があったろう。単なる遊びっことという気軽さであったろう。あれは無抵抗の百姓衆を村ごと嬲(なぶ)りころしたようなものだ。おれはその百姓だ。
鼻先でわらったその顔が鬼の形相に変転しました。文机(ふづくえ)の上においた手先がふるえてカタカタと音をたてました。握りこぶしが文机をたたきます、何度もなんども烈しく。しだい、手のひらの端がきれて鮮血がにじみます。その鮮血を硯におとし墨をすります。太閤は筆にたっぷりの血墨(ちずみ)をすわせて、両の手をいっぱいにひろげたほどの大きな厚紙のその片端に一齣(いっせき)をしたためました。
父には百度(ももたび)会(お)うたれど母には一度も会わずとは何ぞ。
駕籠はその一齣を貴人用の座布団の上に鎮座させて、急ぎゆるらにはこびました。利休の許へでございます。利休は書状の片隅に誌された一齣をみて幽かな嘲笑を片頬にうかばせました。
「母には二度会うたれど、であろうに、やはり百姓殿下、物を知らぬ。それに何だ、この墨のすり方は。色が変だ。匂いも卑賤だ」
そう虚仮にして視線をかたわらの佰(はく)にむけました。
「これは何をいわんとしておられるのか」
利休の知恵袋・佰は一齣をのぞきました。佰は外の人には名も顔もしられていない利休秘蔵の懐刀です。その佰に一瞬ふッと不安がよぎりました。
「よく見せてくださりませ」
一齣が佰の手にわたります。紙に穴があくほどみつめます。俊才がことのほか長く格闘しています。そのうちに佰の手が細かくふるえだしました。
「どした」
「これは…」
佰の口はそれしか発することができませんでした。利休は軽くあしらうようにいいます。
「いったいどうしたというのだ。後奈良のお上(かみ)御撰の何曽(なぞ)を、物知らずがひねくっただけのものであろうが」
佰は冷や汗をぬぐいながらこたえます。
「いえこれは、父は血の涙の血血(ちち)、母は刃物の刃刃(はは)でございましょう。よって、血血には百度会うたれど刃刃には一度も会わずとよむものとおもわれます。庭一面に咲きほこっていたあさがおの花々が討ちたおされ血涙がそこいらじゅうにひろがっていた、つまり血血の涙には百度出会った、しかしそれを切った刃刃はかくされていて見あたらなかったという、烈しい怒りの何曽でございます」
佰はしぼりだすようにそう説明しました。その解(かい)をきいて何事にも動じなかった利休もあおざめました。
「噫、何となんと、あの一輪の美がわからぬとは情けない」
利休はおのれをかえりみるより先に百姓出の猿(さる)をののしりました。が、佰はそれには付きあわず書状の広い空白部に目をこらしています。
「わたくしが申しあげた読み方が慥(たし)かだといえることが、この大きな書状からもわかります」
「ばかでかい紙に勿体をつけてたったの一行、これがか」
「痛烈な諷刺でございましょう」
「いかなる」
「大きな空白部は庭にあさがお一つもないことを、たったの一行は床の間の一輪を、あれをひにくっているものと……」
「アウォーオー」
利休はこの世の終焉でもあるかのような悲鳴をあげました。いや、本当にそれがこの世の終焉になるのです。それはもう毛物に変身してしまったといってよいほどの咆哮でございましたヨ、はい。
「殿下のことでございますれば――」
佰は利休の昂奮に同調せず冷静にことばを連結させました。
「まだ何かかくされているような気が」
「何だそれは、いえ、早くいえ。勿体ぶるな」
どんな時も、誰にも、動揺したことがなかった利休が、聞き分けのない無恥者のようにかわっていました。
「たれか行灯をもて」
佰は人をよびました。昼間に行灯がはこばれて灯がつけられました。灯火で温とまった行灯の上に佰は書状の大きな空白部分をかざしました。書状に熱がつたわって蝋で加工された文字が、豆粒ほどの金箔銀箔がちりばめられたそこにあらわれました。
「これを」
佰のことばにひきよせられて利休はのぞきました。太閤の筆跡でした。
――利心不利休(りしんやすまず) あさがお虚(むな)しゅうす。
蝋の加工文字で覚束ないものでしたが、しかし明々によみとれました。
――儲けごころを休憩させず利休とは名ばかり。命を討ちとられたあさがおがこの世は虚しいと慟哭している。
こんな風に解せられるでしょうか。
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