第9話 乞食べちかん
駕籠は重くしめった空気をのせてよろよろとすすみました。太閤はのらず歩いています。歩きながら侍従に僕からおしえられた場所を伝えました。
「こじき坊主の処でございますか」
侍従がそういうのをさえぎって太閤はしかりました。
「こじき坊主ではない、こつじき茶人じゃ」
しかし侍従は気にもせず訊きかえします。
「こじき坊主とこつじき茶人では何かちがいますか」
太閤にこんな返答ができるのはこの侍従だけです。微細な神経をあちこちにもちいながらも叱責の不安をだきかかえているのに一方でこんな大胆な口をききます。もっとも、叱責はしょっちゅうなので慣れっこです。太閤はそういう侍従を寵(かわ)いがっています。太閤に対して率直な言をみせるのは母者人と女房どの、それに男(お)の子ではこの侍従くらいです。家老連も重鎮も太閤の心底をおもんぱかるばかりで、というより保身が先だっておのれの胸を開陳することはありません。
「殿下の足許にひざまずき、お調子をくれるのはどちらも同じでございましょう」
侍従が更にこのようにぞんざいな口をきいて太閤を苦笑させました。
「そうだな。大してかわらんか」
そのとき侍従の顔が堅物のそれに急変し、
「どこかで聞き覚えのある……」
とまでいって、あとを呑みこんだかとおもうと、はく息で噫ーと頓狂な声をあげました。
「何だ、その音声(おんじょう)は」
「乞食茶人というのは大(おお)茶の湯の折、おおまんどころさまが親しくなされておりました、あの……あの御方ではございませぬか」
太閤はうーむと一つうなって脳裡の抽出しをかきまわしました。しかし引きだせません。
「そんなのがおったか」
「たしか……筵(むしろ)茶人とか何とか……」
侍従がそういうと筵ということばが太閤の抽出しのどこかに引っかかったようです。
「筵茶人と乞食茶人とではだいぶちがうぞ」
太閤は鬼の首をとったように侍従にせまります。滑稽です。この侍従にかつことが関東の狸をしばりあげるより仙台の大男をねじふせるより長州四国の荒くれ者をおどかすより、太閤にとっては何とも愉悦なのです。
しかし侍従は白旗をあげません。
「おおまんどころさまは、なにゆえ、かの筵茶人をこのまれたのでございましょう」
と話を別の角度へもっていきます。太閤もそれにつられます。
「母者が筵茶人といって大層ほめておった者か。おまえや利休などにはかなわん茶人だと息まいていたな」
北野天満宮でもよおされた大茶の湯は、身分不問、誰でも彼でも茶席をもうけて哿(よ)しというものでした。道具のない者は代わりに何でも哿し、筵一つでも哿しとしたのです。その例示のとおり本当に筵一つで参じた男がいたというのを世話人から報告をうけ、太閤はわが意をえたりと膝をうったことがありました。母者人がその筵茶人なる者をほめそやしたときは気にもとめなかったのですが、いまは会わずに帰られようかというおもいです。筵茶人とあさがおの屍群(しかばねぐん)、そこに太閤は仏心のような大きなものをかんじていました。
指月集にあるのをつづめれば、
――山科のほとりにノ貫(べちかん)と名のる侘茶人あり。朝夕、味噌雑炊をつくる取手付きの釜を灰砂(はいすな)であらって、清水(きよみず)をくみ、茶をたのしむ――とか。
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