第7話 イチゴ、イチド

△(七)


 利休の庭をおとずれたこの日もそうでした。

 ――そうだ、日が悪いのだ、利休は悪くないのだ。

 太閤はそうおのれを説得して庭をぐるりと左から右へ見わたしました。視線が右から左へかえってくる途中、爪先をむける方向をきめました。太閤はゆるらと身をはこびます、地べたのささやきやうめきをかんじながら。

 爪先は小薮の小径にむかいました。その向こうに庵の躙(にじ)り口があります。立ち姿のままとおれる貴人口ではなく腰をかがめてはいらねばならない方をえらんだのは、小薮の、この小径をこのんだからでございます。子ども時分にあじわった心地よい薮小径はおとなの束縛からのがれえたときの小さな宇宙の快感を想起させてくれました。どうしてでありましたろう、大概をおのれの企てどおりにしつらえる利休が、その小薮のあたりだけは自然のままにしておいたのです。もっともそれが利休の企てだったかもしれません。それ以上詮索しても堂々巡りにおちいるだけです。

 太閤は、一歩ためらい、二歩すすみ、三歩でまたためらい、というふうに小径に身をまかせました。そのようにしておのれを別の穏やかな世界へつれてゆこうとしましたが、庭一面のあさがおの期待がうらぎられたことはやはり小さくありませんでした。おのれを老獪に説得しても除去しきれない浮遊物がのこります。その浮遊物が古くから体内にささっている小さな棘と連結してさわぎたてます。棘は千変万化で、どのようなものともくっつくのです。

 ――なぜ忿怒してかえらぬ。なぜ、つくろいの寛容をみせる。なぜ恥辱の上塗りをゆるす。

 棘は厭らしくからみつきます。心の臓は少しく悲鳴をあげました。太閤は丹田に新しい空気をおくりました。

 ――平らかな心、平らかなる大地を得るじゃ。

 こんな言の葉をどこで仕入れてきたものか、これもまた母者人から発せられたものです。

「たいらたいら。平らが一等だサ。勾配がきつくてもおのれの身体をあわせれば平らかになる。畑もここんとこもおんなじじゃでナ」

 母者はそんな言い方もしました。ここんとこというのは心のことでございます。

 ――平心(へいしん)平地(へいち)。

 母者人はこんな儒者のような難語を発することもありました。文字(もんじ)などよめず、野にはべるしかしらない女がどこでそんなことばと結託したのか何曽(なぞ)でした。が、太閤はそれを母者にたずねることはありませんでした。母者人から放たれることばは、母者の身体で濾過され、母者その人の魂になってから喉をとおってきます。ゆえに、そのことばの源は母者人にあるとおもっていましたから。

 躙り口の前にきました。太閤は身体を二つにおって室に転がりこみました。本当に転がりこんだのでございます。老翁が子どものようにごろろんと転がる、人がいないのでできることでしたが気持ちがうわむきました。

 室は明かり取りの小窓が一つあるだけで薄闇が支配していました。薄闇は呼吸をし生命にみちています。

 ――薄闇はこうも生き生きとしたものであったか。

 太閤は瞑目しおのれの呼吸を薄闇の呼吸にあわせました。暫くそのようにしているとおのれがどこにいるのかをわすれ、あれこれの念がどうでもよくなってきます。一瞬、夢心地になります。おのれが如何なる生き物かわからなくなります。そのわからなさが至福ともいえる情調をつれてくるのでした。長い旅路からかえってきて得た安堵感のような、そんなものでつつんでくれます。

 太閤のその日の感情は浮き沈みが烈しく、おのれが制馭しているとおもえる処が半分、利休の仕業と母者の言の葉にうごかされているとおもわれる処が半分、つまり、おのれがあるようでいて、ない、ないようでいて、ある、行方さだまらぬ浮遊物のような一日でした。

 太閤はゆるらに目をあけました。目が薄闇になれました。床(とこ)に小ぶりの軸がみえます。はいってきたときはまったく見えなかったものです。軸は利休の文字でありましょう、

 ―― 一期一度。

 の四文字をだきかかえて端然としています。その文字を、

 ―― イ・チ・ゴ、イ・チ・ド。

 と目でよんで、視線をそのままおろすと軸の足許に何やら一塊(ひとかたまり)がありました。なんとそこに若紫のあさがおの花が一輪ちんとたたずんでいます。一輪、ちんと。一輪に休み処をあたえていたのは自然石のようです。中ほどがくぼんで水を薄くはべらせています。

 ――ここにいちりんおいたか。

 太閤から長嘆息がもれました。してやられたというのか、小莫迦にするなというのか、抜きんでた才に頭(こうべ)をたれざるをえないというのか、混濁とまではいわないまでも、清澄とはどうしてもいえない気持ちがいりまじった嘆息でございました。

 太閤の視線はふたたび軸の上にうつり、こんどは唇でよみました。

「イチゴ…イチド…ふッ」 

 片頬が幽かにひきつりました。

 ――一生に一度の一計と気どるかや。

 そのときもう一つの事件がおこりました。

 利休のなすことはすべて事件なのでございます。床の間に一条の光りがさして、あさがおの花を虚空に浮かびあがらせました。光りは破れ板の隙間から侵入していました。天空の雲がうごいて日輪の光りをぬけさせたのです。

 ――これとても、計か。

 太閤はことばをうしなって、美をみとめざるをえませんでした。美の一撃をまたしてもくらったのです。


 指月集にあるのをつづめれば、

 ――鮮やかなるあさがおの一輪、床にいけらるる。太閤、目さむる心持ち大、褒美をさずける――とか。

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