第6話 日悪日吉

△(六)


 太閤は肺腑をえぐられるような恥辱をおぼえて右の手に拳をつくりました。かんばせが人のいい猿(ましら)から親の仇をねらう邪鬼に変わりました。拳をふりあげて怒号を飛ばしかけた太閤でしたが、ひょいと心頭をひるがえし左の手で拳をおさえました。その左手が右拳の指を一本ずつはがします。丹田に新しい気を吸いこみます。恥辱の塊をフッとはきだします。太閤はつぶやきます。

「日が悪かったかのゥ」

 日が悪いのに出かけるのは出かける者にも落ち度があると、折あるごとに母者人がいったそのことばに抱きしめられていました。何のことはありません、おのれの体内から追いだした母者を呼びかえして、また助けをもとめているのです。

 それを初めてきいたのは古里をでる日のことでした。

 長雨がつづいていました。なる物がならず、みのる物がみのりませんでした。去年は日照り、今年は長雨、どの家も口にいれる物がなくなりました。長生きしてすまないと背中でわびて深山にきえる年寄りがでました。そのような年寄りのことが人の口の端(は)にのぼると、わしもおらもと未明にそっと家を抜けでる者がつづきました。

 子どもを川流しにする家もありました。少し大きな子を流したら、おぼれず家に帰ってきて親子喧嘩の果てに殺し合いになったという無惨もきかれました。そのような日々がつづき、悲惨、無惨、そんなことばはもう鴻毛(こうもう)のように軽くなりました。

 山わらんべが10歳になった頃です。

 頃はころで貧民の子が幾つなどということが判然とする筈がありません。

 ――おれも、うちをでる。

 そう決心しました。ですが、母者はちぃっーとまてと制しました。いま、でても二日三日で野垂れ死にだ、日がわりいのに出かけるのは出かける者(もん)にも落ち度がある、せめて明日の天気がみえてからでろ、といったのです。わらんべはそれにしたがいました。

 何日かまつと、死人(しびと)たちの血でそめたような真紅の夕焼けがあらわれて、やっと明日の天気がみえました。翌朝、母者人は、

「日悪(ひわる)がつづいて家(うち)をでるのも地獄じゃ。せめて名前(なめえ)くれえ、日吉(ひよし)となのれ。日吉の丸(まろ)とでも名のってしぬまでいきてやれ。どうせみんな、元は百姓だ」

 と、はげまし、

「しぬまで生きろ。何したってしぬまでいきろ」

 と声をからしました。しぬまでいきろ、しぬまでいきろという、気がくるったような母者の叫び声が谷間(たにあい)にひびき、山わらんべの身体の中にぶちこまれました。わらんべは、おれは日吉だ、しぬまでいきる、おれは日吉丸だ、そう絶叫しながら、生まれ故郷をはなれていきました。

 それからは草をくい、訳のわからない木の実にかぶりつきました。これは旨い物を発見したとおもいきや、一転、腹に激痛がはしって七転八倒したのは二度や三度ではありません。

 ある村をとおったときはこんなことがありました。

 畑に何かの実がのぞいていました。幸運、と胸がおどりました。あとになってですが、それはマクワウリのような物だとしりました。あたりに人はいませんでした。これを一丁(いっちょう)もらってと、つまりそのォ盗っ人をこきました。よだれをさそうウリをかかえこんだとき、誰もいないとおもった目の先に、おさなごが一人ちょこんと地べたにすわっているのに気づきました。おさなごは背中をむけていて、何事がおこっているか気づいていないようです。

 ――こりゃー、おめえがくう分だったか。

 急に仏心の蕾がふくらみました。日吉はウリをその子にかえそうとおもい、背を低くして膝ですすみました。おさなごがいるのに家の方に用があったものかどうか、親の姿はみえませんでした。盗んだ物をおさなごの近くにおくと、日吉はくるりと背中をまわしました。そのときです。

「ウリィー、とっただか」

 という声がおおいかぶさってきました。日吉は顔半分を背中ごしにまわして声の方をみました。おさなごの母親でありましょう、女人がそこにいて日吉をじっとみすえています。

「とっただに、なぜもってゆかねえ」

 ぬすんだ物をなぜもっていかないのだといわれても返答の仕様がありません。

「この子の食いもんをくっちまっちゃー、この子がしんじまう」

 そうこたえる日吉のことばを横殴りにするように農婦はいいました。

「疾(と)っくに死んでらあ」

 日吉はおさなごを改めてみました。人間の子ではありませんでした。木の材に仏像のように目鼻をほりこんで衣をきせたものでした。

「悪(わり)い病いでしんじまっただ。おらァ切なくって切なくって。こうして傍におかなくちゃどうにも……」

 農婦はたとい通りすがりの盗っ人小僧にでもそうかたることで背負った荷を一つずつおろそうとしていたのかもしれません。しかし、わらんべの日吉には女人のそういう心の襞まではわかりませんでした。

「勘弁してくれるだか、いっていいだか」

 早く逃げだしたくて、そうきくのがやっとでした。

「これーもってけ」

 農婦はウリをもった手を日吉の方へつきだしました。日吉はためらいました。盗っ人小僧にどうしてウリがほどこされるのかわからず立ちつくしました。

「ほれ、ほれサ」

 農婦が顎をしゃくります。日吉はおずおずとうけとりました。這いつくばって礼をいいました。泥でよごれた農婦のかんばせに花がさきました。日吉は農婦をおがみながらあとじさりました。

 この一局面――ウリ盗っ人がぶったたかれず、ウリをもらうことになったそれは、山わらんべの日吉に、地獄は地獄としてあるだけでなく仏の修行地でもあるということをおしえました。もちろん、このような理屈づけができたのは、後年のことでございますヨ。ですが、地獄がきえたわけではありません。地獄は地獄のまま山わらんべにくいついていました。日吉もまけていませんでした。地獄をひきずりおろしふみたおしながら生きのびました。そんな日々のなか、二進(にっち)も三進(さっち)もゆかなくなると、ことばをぽつんとおとしておのれをなぐさめました。

「日がわりいや」

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