第5話 一枝も無し

△(五)


 つぎに駕籠がとまったとき、太閤は女房寧(ねい)の太腿にのるようにそっと足裏を地面にふれさせました、脳味噌の中の母者人にけどられぬように。

 上手くいきました。母者人は脳裡からも身体のどこからもきえていました。太閤は足が地面からはなれたとき、爪先が天をむきすぎないように着意して歩をはこびました。

 ――庭と話をするので誰もむかえることはならん。声をかけるまで利休もあらわれてはならん。

 そのようにつたえてあります。太閤はひとり庭へはいりました。半眼にして、能舞台のように。

 ――あさがおの群生がそこにある。母者のすきな牽牛(あさぎゃお)の花、花、花が。その群生の喝采が巌(いわお)をくだくようにあがる筈だ。

 半歩と四半分の歩とをおりまぜながら、地をなでるように下腿(かたい)をうごかしてゆきます。足裏が地からはなれすぎぬように、地にしだらなくおちぬように、気を平らかに、平らかにして。

 心は遙けし大地にあります。悠然たる自然に一己(いっこ)の悠然がとけてゆくのをかんじています。

 ――何という陶酔。

 太閤は、眸子(ひとみ)に初めて光りを見させるかのごとく、眸子の膜を一枚いちまいはがすようにして目をあけました。が、ありませんでした。なかったのでございます。

 ―― …………

 わが目をうたがうとはこのことをいうのでしょう。群生どころか疎(まば)らにもありませんでした、あさがおが。

 利休の使丁か、わが侍従のいずれかが、齟齬をきたしたのかと思いましたが、四五輪もなく一輪さえ見あたらないことが腑におちませんでした。空虚な、それはまことに空虚な、皮肉な喝采が、地べたをさまよっておりました……はい。 

 

 茶話指月集にあるのをつづめれば、

 ――あさがお一枝(いっし)もなし。太閤、不興(ぶきょう)をしめす――とか。

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