第3話 母には二度

△(三)


 あくる朝、太閤の姿をみて、侍従はまた呆気にとられました。上も下も、野良着のような物だったからです。が、わからぬように息をのみました。侍従の呆気をかんじとったか、気にもとめなかったか不明でしたが、太閤はみずから頬をゆるませました。

「母者がぬってくれたでや」

 太閤とその母者人(ははじゃびと)、その間柄もまた以心伝心のもので、他の者がはいりこむ余地はございません。

「あさぎゃおは薬種(くすりぐさ)ゆえ、見にゆくならこういう恰好がよいと、母者人がナ」

 あさぎゃおは朝顔のことです。母者人は鄙の時代に得た言の葉を隠そうとしません。侍従は、太閤の恰好を見てお似合いですとも何ともこたえるのは口幅ったくおもわれたので、ただただ二語のみ声にのせました。

「ははッ」

「侍従よ、堅い、堅いなァ。上の者にそうせよと、しつけられてきたんじゃろうから仕方ねえがノ……」

 とまでいって、太閤は少しく間(ま)をとり、

「ああー、おおー」

 と、上機嫌の感嘆詞をふたつほど冠にして、こうかたりました。

「わしがハハジャビトというたので、それでハハと洒落ておうじてくれたかや。こりゃーまいった。人間、堅くして唇に智恵の温(ぬく)もりがある、というやつじゃナ」

 侍従は何のことか理解できませんでしたが、太閤が笑顔をはじけさせているのをみて、不明のままよろこびました。

 太閤は笑みの花をけさぬ間(ま)に駕籠にのりこみました。駕籠もお忍び用で地味づくりです。ゆるらゆるらと揺籃(ゆりかご)のようにすすみます。ほどなくして、小さな作り咳がして、横窓が半分あきました。侍従が駕籠の速度にしたがって身をよせます。

「あー、とめるな、このまますすめ。でな、侍従、ハハでおもいだしたのだが」

 太閤の中には、先ほどのやりとりがまだのこっているようです。

「こんな何曽(なぞ)がある。あるきながら、きけや」

「ははッ」

「そのハハだ。――母には二度おうたれど、父には一度もあわず、という何曽だ。解(かい)は何ぞ」

「母には二度……父には一度も……でございますか……」

 東山の稜線が細筆でひいたような表情をみせ、コノトリが二羽とんでいました。餌(え)取りをきそっているのか、それとも情愛をまじえてあそんでいるのか、急降下したかとおもうと、また急浮上し、天空にゆっくららに幾つもの楕円をえがいています。

「まったく、これは降参でございます」

「おまえは、何もかんがえちゃーおらんかった。ただ時をやりすごしただけじゃ。そのくれえわかるぞ」

 太閤は、そう怖そうな言をみせましたが、機嫌は、依然、上(じょう)でした。

「後奈良のお上(かみ)がつくった何曽集があるのだが、唇だ、くちびるが解だ。母は歯歯とする。父は乳とする。唇は、上の歯と下の歯にふれることができるので、母には二度おうたと解する。しかし、おのれの唇は、おのれの乳にはとどかないので、父には一度もあわずと解する。ゆえに、母には二度おうたれど父には一度もあわずだ」

 と、太閤は学匠のようにろんじ、解の説はさらにつづきます。

「しかし、解へみちびく道に、もう一つあってナ」

 為(し)たり顔です。大学寮の誰かにでも教わったのでありましょう。

「清盛入道の時代、そう平安城のころじゃ、ハの行(ぎょう)は、パの行だったそうじゃから、ハハはパパというたそうな。いうてみい。パパは唇が二度くっつくじゃろう、だから母には二度おうたとなり、チチは唇が一度もあわん、ハハ」

 と洒落であるかのごとく末尾でわらい、おわったかとおもいきや、まだつづきます。

「だが、わしの二度おうたというは、それではない。わしがハハジャビトといい、そちがハハッとおうじた、それが母に二度おうたで、遅々(ちち)はなかった、そちのお蔭で何をするにもどこへゆくにも、いままで、遅れにあったことは一度もないということじゃヨ」

 侍従は、目もとに感涙がおしよせるのをおぼえながら、深く頭(こうべ)をたれ、こう回りくどい言い方をするときは、太閤が上機嫌のうえにすこぶるの冠がつくときだと安堵を深くしました。そして、その安堵が胸底に着地したときです。太閤が、しんみりを表出しました。

「母者には二度ならず何度もおうた。母者は変幻自在よ。どこからでもあらわれよる。助けもするし叱りもする。怖いぞよ。百姓のくせに芯は尊い。いや、百姓だから芯が尊い……わしも百姓じゃ、芯をみがかねばのゥ」

 侍従は、どうこたえてよいか、わかりませんでした。

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