第78話 聖女、海を眺める

 中立国家ナビラ王国――レインハート王国の北部に位置する国で遥か昔から中立の立場を謳っており、他国への侵略も他国からの侵略も許さないことを宣言している。



 早速、ナビラ王国へ向けて出立したティアナ一行。主な移動手段は馬車であり、レインハート王国の砂漠地帯だけは砂竜を頼りにしたが、それ以外では馬が大活躍だ。


 御者の「海です!」の声に窓から顔を出せば、鮮やかな青が目の前に広がっていた。初めての磯の香りと潮風に頬を撫でられる感覚に戸惑いながらもティアナは瞳を輝かせた。


「これが海なのね!」


 内陸育ちのティアナにとって海は馴染みのないものだ。

 こうして遠くから穏やかな海を眺めているだけでも満足できるのだから、浜辺に行けばもっと楽しいに違いない。今すぐにでも海に向かって走って行きたい気分だったのだが……


「海は危険です。くれぐれも近づかないように」

「はーい」


 釘を刺されてしまった。


 海沿いの道を行く馬車の上等な椅子に座り直す。

 普段はドラウトの転移魔法で移動するティアナも久々に馬車に揺られ、前の座席で険しい顔をしているミラジーンを見つめた。


「どうしたの? ずっと不機嫌そうだけど」

「リラーゾとナタリアの件です。わたくしはともかくティアナ様に相談もなく話を進めるとは……!」


 ミラジーンはリラーゾを古くから知る数少ない女性ではあるが、今回の告白については知らなかった。ただ、ナタリアが密かにリラーゾに恋心を抱いていることには気づいていたという。


 それはさておき、ミラジーンとしてはリラーゾがティアナに断りもなくナビラ王国訪問への同行を決めたことが許せなかった。


「まぁまぁ。わたしと違ってナタリアは一国の宰相のご息女で貴族ということでしょ。リラーゾさんもレインハート王国の大貴族のご子息だから婚約は難渋するでしょうね」


 平民の出自で貴族社会に疎いティアナだったが、今では貴族間のややこしい裏事情を知っている。

 親元を離れてからケラ大聖堂で育てられ、追放された自分とドラウトのように結婚までスムーズに事が進むとは思えなかった。


「不純です! ティアナ様の安全が優先させるべきなのに、ナタリアの実家への挨拶が目的だなんて。……汚らしい」

「まぁまぁ」


 憤慨するミラジーンを宥めるのはお手の物だ。

 むしろティアナ以外の者が下手に触れようものなら牙を剥かれてしまう。

 ドラウト、龍神リーヴィラ、ミラジーン、他国の要人たちと癖の強い者をいとも簡単に扱うものだからレインハート王国の王妃は猛獣使いのようだと噂されているとかいないとか。


「さて――」


 ティアナはいつものようにお気に入りの手帳を取り出し、予習してきた内容の整理を始めた。


「ミラジーンはナビラ王国に行ったことはあるの?」

「はい。片手で足りるほどの数ですが」

「魔法使いと非魔法使いが共存している国。そして魔法具を生成できる唯一の国なんだよね」

「その通りです。ティアナ様が初めてキュウサ領のお屋敷を訪れられた日、魔法具をお渡ししたことを覚えていらっしゃいますか?」

「もちろん。画期的で、だけど少し面倒くさくて。冷却魔法の宿った砂時計型の魔法具だったわね」

「はい。あれもナビラ王国で購入したものです」


 あの寝苦しい夜のことは鮮明に覚えている。

 ティアナが住むようになり、龍神リーヴィラが復活してからはレインハート王国の気温も気候も安定し、夜は安眠できるようになっているから今ではあの夜が懐かしい。


「無機質な物に魔法を宿らせ、発動条件を付与するのがあの国の専売特許。魔力適性を持たぬ者でも簡単に魔法を使えるようになる、と魔法具は一部の国で売れているのです」

「いくつかナタリアから預かっているけど、物騒な物も多いよね」


 この前の野蛮贈物サベージギフトとか、とティアナ。


「そういえば、ナタリアはわたしと同じで魔法適性がないけど、レインハート王国としては結婚可能なの?」

「他でもないティアナ様が前例ですから。各名家の当主が了承するのであれば非魔法使いの血が混ざることに関して問題はございません」

「そうなんだ」


 非魔法使いだけの国家であるシエナ王国とクラフテッド王国では魔法使いの嫁入り、あるいは婿取りはしないのが暗黙の了解だ。


 反対に魔法使いだけの国家であるレインハート王国とグリンロッド王国では非魔法使いを見下す傾向がある。

 現在の王妃が非魔法使いであることからレインハート王国内ではそういった差別的意識は薄れてきているが、各国間での争いの種であることに変わりはなかった。


 唯一の中立かつ共存国家であるナビラ王国には、多くの魔法使いと非魔法使いの男女が移住しており、毎年のように人口を増やしている。中には親の反対を押し切り、駆け落ちしてくるカップルも多いとか。


「ナタリアとリラーゾさんが結婚すれば、両国の繋がりが深くなるね」

「そんなに簡単な話ではございません。中立国家がレインハート王国側に近づいたとなれば、大陸の力関係を揺るがす大問題に発展します」


 今更だなぁ、と思いながら細かい文字で黒く染まっている手帳を閉じた。


「シエナ、グリンロッドはドラウト様が治めているようなもので、クラフテッドは同盟国だよ? もうこの大陸はドラウト様のものと言っても過言じゃないわ」

「失礼ですが、慎まれた方がよろしいかと」


 ミラジーンの瞳は本気だ。

 処罰を受け入れるつもりで主人に指摘している。


「ドラウト様は元より敵を作りやすい方です。グリムベルデ家断絶の件もそうですが、一歩間違えればレインハート王国が攻め込まれてもおかしくはないのです。ティアナ様が各国との間を取り持っているから良いものの、あなた様の身に万が一のことがあれば関係性は簡単に崩壊するでしょう」

「わたし一人で? そんな力はないと思うけど」

「もっとご自身の影響力を自覚されるべきです。ティアナ様が聖女だからこそ大陸は安定していると言えます」


 ミラジーンの言い分には簡単に納得できない。

 全てはドラウトがまとめてくれた結果であり、自分は各国を混乱させているだけだとティアナは思っていた。


「ティアナ様、そろそろ到着するようです」


 ナビラ王国入り口を守護する門番の案内に従い、指定されたプレートの上に馬車を停車させる。

 目の前はどこまでも上に伸びる岩肌であり、ここから先に進めないのは明白だ。


「到着って、行き止まりだけど……」

「上ですよ。地上よりも遥か上にナビラ王国は存在しているのです」


 ミラジーンの説明を聞き終える直前、馬車の動きとは明らかに異なる動きをした。

 形容し難い浮遊感と共に視線がどんどん上がっていく。

 プレートは岩肌に沿うように斜めに上昇を始め、海を見下ろせる高さまで馬車を移動させた。


「ここがナビラ王国です」

「うわぁ……海が見下ろせる国なのね。じゃあ、レインハート王国よりも標高が高いってこと?」

「その通りです」


 ティアナは眼下に広がる広大な海と地続きの大陸を見下ろしながら感嘆の息を漏らした。


「まずは歓迎式です。夜会も開いていただけるようなのでナタリアの母親ともお話できるでしょう」

「分かった。んー! 今回も頑張りますか」


 控えめに伸びをしたティアナはミラジーンのエスコートで馬車から降り、華麗にナビラ王国の地へと降り立った。

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