第71話 聖女、神様を叱る

 外は猛吹雪で、露出している肌が焼けてしまいそうだった。


 飛竜――レオーナにまたがったティアナは足首のアンクレットと右耳のイヤーカフを順番に触れた。


「リーヴィラ様、アグニル様、助力をお願いします」

『任せな。体温調整はこっちでやってやるよ』

『ふん、偉そうに。高高度でも耐えられるようにしてやりたいが、どうもしっくりこない。神体でもあれば話は別だが――』

「これは?」


 ティアナが取り出したのは、ついさっきミラジーンから受け取った万華鏡カレイドスコープだ。

 クラフテッド王国の王女――ギギナフィスからの贈り物で、中には砕かれた乾宝石かんほうせき紅蓮玉ぐれんぎょくが入っている。


「レインハート王国とクラフテッド王国の友好の証。お二人も仲良くしましょ」


 なんとなくの感覚だが、リーヴィラとアグニルが顔を見合わせたような気がした。


『しゃーねぇな』

『不本意だが仕方ないか』

「ありがとうございます。お二人共、大好きですよ」

『すっ⁉︎』

『バカ野郎! 簡単にす、好きとか言うな!』


 リーヴィラの体がピンク色になっている姿は簡単に想像できる。

 きっとアグニルもペロル・パタパリカ火山の火口でのたうち回っているに違いない。


 実際にはもっと酷いことになっていることなど知らず、ティアナは空へと舞い上がった。



◇◆◇◆◇◆



 レオーナはどんどん高度を上げていき、雲に近づけば近づくほど空気は薄くなる。


 降りしきる雪は大粒になり重々しい。しかし、獣神アグニルの熱で溶かされ、ティアナにもレオーナにも悪影響はなかった。


 寒さは感じるが凍えるほどではない。

 リーヴィラが体温調整を担ってくれているのは明らかだ。


 それにしてもティアナがザクスに近づけば、近づくほどに銀世界がより濃くなっていた。

 見下ろすとグリンロッド王国のみならず、隣国であるクラフテッド王国やナビラ王国、シエナ王国の上にも雪雲が移動していた。


 これまでグリンロッド王国だけに限局していた天災が拡大しているようだった。


 やがて雲を抜けたティアナは目を疑った。

 真っ白な雲の上に巨大な氷の城がそびえ建っていたのだ。


 各国の王宮なんて比べものにならないくらいの広大な土地に高さのある城。

 どこから入ればいいのかも分からないくらい複雑な造りをしている城を前にしてティアナは愕然とした。


(この中のどこかにザクス様がいるのね)


 絶対に探してみせるわ、と意気込んだところでふと違和感を覚えた。


 ここは雲の上の世界だから頭上を覆うものはないはずなのに地上よりも暗い。

 最も太陽に近い場所とは思えなかった。


『上だぜ、嬢ちゃん』


 リーヴィラからの指摘に顔を上げる。


 天井だ。

 雲の上に天井があった。


 しかし、王宮で見てきた石造りではなく、もっと柔らかい素材で出来てる。

 それにティアナの呼吸よりも速い間隔で天井が脈動している。


「これって――」


 思わず息を呑む。


『ザクスだ。これが本当の姿なんだよ』


 ティアナが天井だと思ったものは想像を絶するほど巨大な翼だった。


「リーヴィラ様もアグニル様も本当のお姿はこんなにも大きいのですか!?」

『うん』

「うん……って。だって、リーヴィラ様が川を塞いでいた時も、ザート領の砂漠地帯を覆ってくださった時もこんなに大きくはなかったですよ!」

『こんなデカいからだじゃ生活できないだろ』


 立派な氷の王宮を覆い隠す鳥神ザクスの下を歩き、顔を探す。

 しかし、ティアナの足ではどれだけ歩いてもザクスの顔は見えず、やっと長い首まで辿り着いた。


「ザクス様、ティアナです。どうかお顔を見せてください」


 ザクスからの返答はない。

 それでもティアナは足を止めず、何千年も前からグリンロッド王国を守護してきた神様の眼前へと急いだ。


「やっとお顔を見せてくれましたね」


 ティアナの遥か上空では巨大な藍色の鳥が両目から涙を流していた。


 ザクスの涙は氷の結晶からやがて雪となって大陸へ降り注ぐ。

 ザクスの咽び泣く吐息は吹雪となって大陸を吹き荒ぶ。


「これがグリンロッド王国の天災の正体……?」


 あまりにも常軌を逸する出来事にティアナは呆然と立ち尽くした。


 これまでにティアナはシエナ王国の『豪雨』、レインハート王国の『渇水』、クラフテッド王国の『噴火』と3つの天災を収めてきた。

 どれもが聖女不在による影響だったり、自然災害を神様が抑えてくれていたりと様々な事情があった。


 しかし、グリンロッド王国は違う。


 国を守護するべき神そのものが災いとなっている。

 グリンロッド王国民は『豪雪』を災いとは捉えておらず、当たり前のものとしている。


 もしかすると他の三国と同様に正しい歴史が伝えられていないのではないか。

 かつてのグリンロッド王国民は『豪雪』の正体が鳥神ザクスの嘆き悲しみの結晶と知っていたからあえて天災という認識を避けたのではないか。


 そんな風にティアナは解釈した。


「ザクス様、長らくお待たせして申し訳ありませんでした」


 ティアナが幼少期に習った聖女のお辞儀をするとザクスは巨体を丸めながら顔を近づけた。


「この涙を拭うのが聖女わたしの役目なのですね」


 ティアナの小さな指がザクスの鳥肌を撫でる。


 あまりにも冷たい涙はあっという間にティアナを飲み込み、水の牢の中に捕らえられた。


『嬢ちゃん!』


 心配しないで、とリーヴィラに言えるほどの余裕はなかった。


 初めての溺水に脳内は大パニック。

 手足をばたつかせて抵抗してもただ苦しさが増すだけだ。


 炎のブレスを吐き、ティアナを捕らえる水の牢屋を破ろうとしてくれるレオーナ。しかし、水の牢はびくともしなかった。


『寂しい。悲しい。哀しい。ヘカテリーゼ、どうして我の涙を拭ってくれないのか。この城は君のために建てたのに。あの一度きりだけで、どうして我の元に来てくれなくなったんだ』


 涙声のザクスの声が聞こえる。


 本当は今すぐにでも抱き締めてあげたい。

 だけど、溺れ続けるティアナは手を差し伸べることができなかった。


『ヘカテリーゼも貴様もなぜ我を選ばない。こんなにも求めているのに。愛する準備が整っているのに。……我の物にならないのなら要らない。聖女もこの大陸も全て凍らせてやる』


 ザクスの巨体が太陽を覆い隠す。涙はひょうとなって地上に降り注ぎ、吐いたブレスは雲を凍らせ、地上の気温を氷点下まで一気に下げた。


 シエナ王国もレインハート王国も例外ではなく、大陸全土から太陽が奪われ、極寒の世界へと様変わりした。


(ドラウト様……)


 死の恐怖を前に、愛する夫の笑顔とこれまでの思い出が走馬灯のように駆け巡った。何度もかけてもらった甘い言葉の数々を鮮明に覚えている。


 どれもが優しくて、暖かくて、大好きな気持ちが溢れていて――


 レインハート王国に来たときからずっと大切に扱ってくれた愛おしい人。


(……糸目雨女)


 頭の中はドラウトでいっぱいの筈なのに、どうしてマシュリのことを思い出しているのか自分でも不思議だった。


(聖女の力を制御できないから外出を禁じられてたっけ。なんで? どうして外に出ちゃダメなんだっけ)


 朦朧とする意識の中でティアナは自問自答を始め、やっと一つの答えを思い出した。


(そうだ。わたしは雨女だった。一歩でも外に出れば豪雨をもたらすんだ)


 今では完璧に力を制御しているからこそ忘れていた過去を思い出し、ティアナは突破口を見つけ出した。


 ――バシャッ!


 次の瞬間、水の牢屋は内側からの圧力に耐えきれず破裂し、捕らえていたティアナを吐き出した。


(マシュリ様……)


 何度も何度も咳き込み、薄い空気を体内へと循環させる。

 脳にも酸素が行き渡り、視界がクリアになるとティアナはザクスを睨みつけて叫んだ。


「大人しくなさい、ザクス! そういう所ですよ!」


 誰かが乗り移ったような感覚。

 だけど、嫌な気分ではなかった。


 普段のティアナからは想像できない発言にリーヴィラもアグニルも驚きを隠せなかった。その話し方は始まりの聖女――ヘカテリーゼに瓜二つだったのだ。


「ヘ、ヘカテリーゼ……なのか……?」

「いいえ。わたしはティアナです。愛する人と見間違えるなんて不誠実ですね」

「ち、違うんだ。我は……我は……」

「何も違うことなどありません。ほら、早く泣き止んで気候を元通りにしてください。泣いたところでヘカテリーゼ様は戻りませんよ」


 突き放すような物言いに再び、ザクスの瞳が潤む。


「わたしで良ければこの天空のお城に顔を出すとお約束しますよ。わたしでは役不足でしょうが、ザクス様の涙も拭います」


 打って変わって太陽そのもののような笑みに、寒々としていたザクスの心に日が差し、暖かくなる。


「本当か……?」

「はい。でも、ずっとはダメですよ。わたしはドラウト様の妻なので」


 胸を張るティアナの姿にザクスは鋭い鳥目を丸くして脱力した。


 もうザクスが咽び泣くことはなく、太陽を覆い隠していた体を小さくして、ティアナの胸の中でさえずる青い小鳥と化した。


 何千年も泣き続けたザクスを泣き止ませたとあってリーヴィラもアグニルも安堵したような、面白くなさそうな複雑な表情をしているのだが、ティアナがその顔を見ることはなく、彼らの気持ちに気づくこともなかった。

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