第69話 聖女、初めて不快感を覚える
さて、とシュナマリカが腰かけ直す。
「聖女様は出されたものは遠慮なく召し上がるとお聞きしていたのですが、私の紅茶はお気に召しませんでしたか?」
「えぇ。香りが合わないようです」
「それは残念です。苦しまなくて済んだのに。と、申しましても多少は苦しむのですが」
ドラウトから預かっている簡易転移魔法は
敵地ではドラウトがかけてくれている他の防御魔法が正常に機能している確証もない。
リーヴィラとアグニルの加護もザクスの支配国では絶対とは言えず、聖女の祈りも役に立つか分からない。
じっとりとティアナの手に汗が滲む。
しかし、表情は崩さずにポーカーフェイスを貫いた。
「王権と家だけでなく、同時に聖女様の血も手に入れられるとはやっと我が家に運が向いてきましたね」
「わたしの血?」
「ご存知ではありませんか。聖女様の血は万病を癒やし、老いを遠ざけるのですよ」
そんなことはケラ大聖堂では聞かされていない。
何よりティアナには自覚がなかった。
「初耳です。わたしの血にそんな効用はないと思います」
「我が一族のご先祖様に聖女様の血を賜り、何百年も生き続けた人がいるのです。まぎれもない事実です」
ティアナの懐に隠れている精霊が小さく震えた。
「ご先祖様はシエナ王国からやってきた聖女様に戦場で命を救われました。崇め、もてなし、聖女様も我が一族の気持ちに応えてくれて聖血を託してくださったのです」
「うそです!」
声を荒げてしまったティアナに、うっとりと語っていたシュナマリカが目を丸くする。
「そちらの家には間違った伝承が伝わっています。正しくは、命を救ってくれた歴代の聖女を監禁し、生き血を
「どうして分かりますの? 自分の血が特別であることも知らないくせに」
「直接、本人に聞いたからです」
トラウマを植え付けられたグリンロッド王国についてきてくれた上に、壮絶な過去を語ってくれた精霊(元聖女)の言葉を信じないで誰を信じるというのか。
しかも、美談のように語り継がれているなんて気分が悪いことこの上ない。
滅多に憤ることのないティアナを目の前にしてもシュナマリカは恍惚の笑みを浮かべるだけだった。
「と、申しますと聖女様は歴代の聖女様となにかしらの方法で交信することが可能なのですね! ではお聞き下さい。我が一族で初めて聖女様の血を飲んだキシュラム・グリムベルデ様のことを!」
ティアナの表情が悲痛に歪む。
こんなにも嫌悪感を抱いたのは初めてだった。
各国の貧困層から富裕層までありとあらゆる人と出会ってきたティアナが決して分かり合えないと決めつけたのだ。
あのマシュリ・ヒートロッドでさえ最後まで信じたいと思っていたのに――
そんな懐の深いティアナを不快にさせたのだ。
「わたし、あなたのことが苦手みたいです」
「そんな悲しいことを仰らないでください。私はこんなにも大好きなのに」
今にもとろけそうなシュナマリカの瞳と緩む口元が更に背筋を凍えさせる。
「そんなに知りたいのならどうぞ」
ティアナはポケットから取り出した小瓶をテーブルの上に置いて、シュナマリカに取ってもらうつもりだった。しかし、彼女は間髪を入れずにティアナの指に手を伸ばした。
「早く読ませてくださいな」
「っ!」
――パリンッ
乾いた音に続き、シュナマリカの絶叫が屋敷内を響き渡った。
魔法具、
上級危険魔法具の一つだ。
尚も悲鳴を上げながら床を転げ回るシュナマリカの両目からは流血が止まらなかった。
無論、ティアナも無傷ではない。
割れた破片が
『平気!? すぐに治してあげるから』
一滴もあげるもんか、と指を咥えるティアナの口内に鉄の味が広がる。
血を舐めとった指の周りを精霊が飛び回り、瞬く間に傷がなくなった。
「さすが歴代最強の治癒力ね」
『お世辞はいいから早く逃げるよ。あんたって見た目によらず野蛮ね』
「やられたらやり返せ、やられる前にやれってドラウト様が仰るの」
『聖女にあるまじき発言だわ』
部屋を飛び出し、廊下の窓から外の光景を見たティアナは絶句した。
辺り一面の銀世界。
まるで別世界に連れてこられたかのようだ。
降りしきる雪は重々しく、道も建物も全てを覆い尽くしていた。
「な、なにこれ……」
『きっとザクス様よ。ザクス様はあなたを国外に出したくないってさ』
「それにしてもやりすぎじゃない?」
『さぁ。わたしはこんなに歓迎されたことないし』
ちょっぴり拗ね気味の精霊と共に廊下を走るティアナだったが、どこからともなく現れた屋敷の住人たちに囲まれた。
「この痛みが聖女様の愛! 痛めつけて、癒してくださるなんて、あぁ、なんて深い愛情!」
侍女に支えられながら歩いてくるシュナマリカの後ろには血痕が続いていた。
純白の絨毯が鮮血で汚れていることなど気にせず、シュナマリカはティアナへと詰め寄る。
「さぁ、特別室のご用意はできています。その血を我らグリムベルデにっ!」
血まみれの手で天井を仰ぐシュナマリカと、顔を引き攣らせるティアナは同時に異常な寒さを感じた。
「僕のティアナから離れろ」
天井は引っ剥がされ、重厚な壁には大穴が空いていた。
吹き荒ぶ吹雪が屋敷の廊下を通り抜け、あっという間に屋敷内の室温が下がってしまった。
「ドラウト様‼︎」
真っ先に壁の方へ走り、助けに来てくれた愛する夫の胸に飛び込む。
「ティアナ。無事でよかった」
「わたしは無事です。乱暴もされていません」
「でも、ダメなんだ。ティアナが止めても僕は止まれそうにない」
強く抱き締めていた手が解かれる。
ドラウトの登場から僅かに遅れて空から降りてきたフェニーチェ(ザクス)、両目を失ったシュナマリカ、そして屋敷に潜んでいたグリムベルデの女たちを順番に睨んだドラウトは申し訳なさそうに苦笑を浮かべた。
「僕はこの国を消すと決めたんだ」
その瞳はどんよりとした闇色で深い悲しみと怒りと憎しみを内包していた。
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