第16話 雨女、お天気雨に降られる

「わたしの目を……見えるようにする?」


 あまりにも突飛な発言に目を見張ったのは一瞬だけだった。


(やっぱり食事の席での話は嘘で本当は転移魔法以外にも魔法を使えるのね)


 しかし、その考えは見事に裏切られた。


「これを」


 ドラウトが懐から取り出したのは横長のケースだ。

 静かに開かれたケースの中から顔を出したのは二枚のレンズとそれらを支える黒縁のフレームだった。


「本で読んだことがあります。実物は初めて見ました」

「メガネという。製造業が盛んなクラフテッド王国に用事があった際に買ってきた。ティアナ嬢に似合うと思って」


 ケースの中に入ったままのメガネを受け取るべきなのか悩むティアナ。しかし、ドラウトはそのまま蓋を閉じてしまった。


「渡すつもりだった。でも、さっきの言葉を聞いて考えを改めた。僕がティアナ嬢の目を見えるようにする」

「……ドラウト様はわたしの視力が弱いことにお気づきだったのですね」

「あんなにも露骨に顔を覗き込まれれば誰だって気づくさ。それに書物も読みにくそうにしているし、最近ではよく目を擦るようにもなった」


 一日中、屋敷にいることも多いティアナに対して、ドラウトは転移魔法で王都に戻ったり、各領地や他国に渡ったりと忙しくしている。

 そんな多忙な彼が自分でも無意識にしてしまっている癖や微細な変化に気づいてくれていることに驚きと嬉しさを隠しきれなかった。


「メガネで矯正すればいいと思ったんだ。だけど、それでは根本的な解決にはならない。ティアナ嬢にとっても、僕にとっても。だから――」


 再びドラウトの手がティアナに伸びる。

 頬に触れられて、ドラウトの手が震えていることに気づいた。


「ドラウト様、そんなに無理をなさらないでください」

「違う。僕は無理なんか――」

「心が泣いています。詳しくは分かりませんが、何か大きな傷を負っているような……。そんな悲しい気持ちを押し殺してまで治療していただかなくて結構ですよ」

「ちがう! 僕は本当にっ!」


 次はティアナがドラウトの震える手を包み込んだ。

 小刻みに震える手は冷たく、いかに緊張しているのかが伝わってきた。


「わたしは物心をついた頃から世界がぼやけて見えています。もう見慣れたものですよ。だから今更、治していただかなくても何の問題もありません」


 そう言って微笑んだティアナだったが、心の中では少しだけ嫉妬の感情が芽生えていた。


(ミラジーンたちはドラウト様のお顔がはっきりと見えているのよね。それはちょっとずるいかな、なんて……)


 取り繕って更に深いえくぼを作る。


「それに、ドラウト様よりも先にリーヴィラ様に気づいたのはわたしですよ。他の人には見えないものが見えるならそれは特権かなとも思います」

「ティアナ嬢……」

「行きましょう。川のせせらぎを聞くだけではなく、実物も見てみたいです。近づいて目を凝らせばちゃんと見えるんですからね」


 ドラウトの手を引き、歩き出したティアナは逆に引き寄せられた。

 力では到底、敵わない。

 ティアナはドラウトの厚い胸板に吸い込まれ、そのまま捕まえられた。


 ドラウトを見上げるティアナの耳元で囁かれる単語の数々が、魔法を発動するための呪文であることに気づくのに時間はかからなかった。


 ドラウトの大きな手がティアナの視界を閉ざす。

 そして、ゆっくりと真っ暗だった景色が明るくなった。


「ドラウト、様……っ⁉︎ あぁっ⁉︎」


 自分を見つめる二つのオレンジ色の宝石に目を奪われると同時に鼓動が高鳴った。



(あれ、ドラウト様ってこんなに――っ⁉︎)



 薄く目を開けたティアナの瞳には確かにドラウトの顔を映っていた。


 ぼやけた輪郭ではない。切れ長の目も、整った眉も、高い鼻も、綺麗な肌も、魅力的な唇も。どれもがはっきりと、くっきりと見えていた。


 ティアナはレインハート王国に来て以来――そもそも人生において初めて男性の顔を見て赤面した。


 そして、理解不能な感情に振り回された彼女はドラウトの胸を強く押してしまった。


「ご、ごめんなさい! あの、その……」


 戸惑いながらキョロキョロと落ち着きなく視線を彷徨わせるティアナにドラウトの心中も穏やかではなくなっていく。


「怖いか? 僕の魔法が、僕自身が――」

「怖いです」


 間髪入れずに答えれば、ドラウトの顔に憂愁の影が差す。


「その……あまりにもドラウト様のお顔がはっきりと見えすぎて。想像よりもお綺麗で。あの、わたし、つい――」


 ティアナの他者を威圧するような細く鋭かった目は今ではネコの目のようにくりっとしていて大きく、少しつりあがっているのが魅惑的だった。


「……よかった」


 心から安堵したような声は今のティアナには届かない。


「最高の褒め言葉だ。自分の妻も狼狽させられないような男にはなりたくない」


 先ほどまでの不安げな表情は消え去り、いつもの余裕ある笑みを湛えたドラウト。

 ティアナは更に頬を朱に染め、熱を冷ますために両手で顔を覆った。


「ドラウト様はいじわるです」

「もっとよく見せてくれ」


 傘を落とし、優しくだけどもちょっぴり強引にティアナの手首を掴む。


「綺麗だ。ずっと見ていたくなる。でも、そうすれば魂を吸い取られそうなくらい美しいよ」


 恥ずかしくてそっぽを向くティアナを逃がさないとドラウトの顔が近づく。


「ただ、一つだけ願っていいのなら――」


 気を抜けば、唇が触れ合ってしまいそうな距離でオレンジ色と空色の瞳が交わった。


「僕以外の男にその表情を見せて欲しくない。そんなことになったら、僕はどうにかなってしまう」

「そんなこと……」


 狼狽するティアナが強く否定できずにいると、ドラウトは追い討ちをかけるように耳元で囁いた。


「どこにも行かないで。ずっと僕の隣に居てくれ」

「…………はい」


 ティアナの返答に満足したのか、静かに離れたドラウトの表情は清々しく、胸のつっかえが取れたようだった。


 反対にティアナの心臓は張り裂けんばかりに強く打っている。

 こんなドキドキが続けば体が持たない。そんなことを思いながら息を整えた。


「でも、眉間にしわを寄せる姿を見れなくなるのは少し残念だ。あれもキュートで好きなんだけど」


 やっと落ち着き始めたのに、と頬を膨らませるティアナの眉間には、はっきりとしわが寄っていた。元来の弱視は回復しても幼少期からの癖を抜くことは難しいのだ。


 その拗ねたような表情にドラウトの鼻孔がわずかに広くなる。


「もう!」


 そっぽを向いた時だ。

 硬直したティアナを不審に思ったドラウトも同じ方角を見上げる。


 空には雲の切れ間から顔を出した太陽が輝いているのに、しとしとと雨が降り続いている。

 そして、青空には七色のアーチが架かっていた。


「これもティアナ嬢の力かな? この美しい現象の名前を教えてくれ。全国民に伝えたい」


 そんなことを言われても自分で操作した覚えはない。

 頭をひねったティアナは遠慮がちに告げた。


天弓てんきゅう、でしょうか」

「聡明なものも考えようだな。難しくて国民には浸透しなさそうだ」


 この日、雨が降っているにもかかわらず、雲の隙間から陽が差し込むという摩訶不思議な現象は王国の各地で観測された。


 この現象は後にレインハート王国の子供達によって、『お天気雨』と名付けられることになる。

 太陽を象徴する国王と、雨を象徴する聖女の仲睦まじい姿を現わしたものである、と言い伝えられるきっかけとなる出来事だった。



◇◆◇◆◇◆



 屋敷に戻ると出迎えてくれた使用人たちはティアナのあまりの美貌に腰を抜かした。それほどまでに目つきは人の印象を大きく変えるのだ。


 他の使用人たちがジロジロ見る中、ミラジーンだけは事情を察してくれたのか、いつも通りに接してくれた。


「夜な夜なの読書が捗るからと目を酷使しないでくださいね」

「分かっているわ。せっかくドラウト様が治してくださったんだもの」

「ありがとうございました。情けない話ですが、わたくしたちではドラウト様の心の傷を癒すことができませんでしたので」

「わたしは何もしていないわ。ドラウト様はご自分の力で過去の自分に打ち勝たれたのよ」

「たとえそれが真実でもティアナ様が側にいたからこそです」

「そうだといいな」


 二人してくすくすと楽しそうに笑う。


「ミラジーンは他の人たちみたいに驚かないの?」


 私室に戻り、鏡の前でくるっと回って挑発的に上目遣いで聞いてみる。


「ティアナ様が美しいのは今に始まったことではありません。あの儀式の日から、わたくしの瞳にはあなた様しか映っていませんから」


 恥じらうことなく、恥ずかしいセリフを言ってのけるミラジーンの肩をぽかぽか叩いたティアナは、照れ隠しついでにドラウトから聞いたランタンフェスティバルについて教えてあげるのだった。

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